〜第10章:Fair Exchange〜

たった一枚のデータディスクが引き起こした、研究者三人の死という結末は、僕を震撼させた。

そして晩秋の冷たい雨が降り注ぐ朝、彼らの後を追うように、父の訃報が届く。


父は、GISTの手術後、再発予防のため分子標的薬の投与を勧められていた。

しかし、認知症の父にとって、服薬の継続が難しい高額な薬剤は、経済的負担の方が大きい。

僕は主治医と相談の上、分子標的薬の使用を断念した。

父はGISTの再発によって、静かにこの世を去った。


姉にも、僕にも、誰にも看取られることなく、父はその孤独な生涯に幕を閉じた。

弱い者虐めしかできない悪魔のような元軍人の最後に、僕が悲しむことはなかった。

むしろ、心の中でせいせいしたのが偽らざる気持ちだった。

長年の心理的虐待、借金、そして家族を支配し続けた父の横暴から、僕の魂がようやく解放された。

あの母の葬儀で「喪主」の座に固執した父を、僕は長男の責務として葬った。

この喪失は、僕にとって安寧の獲得を意味している。


年が明けても、僕の心は穏やかではなかった。

三人の死が、このまま闇に葬られることに、僕は耐えられなかった。

なすがままに沈黙するくらいなら、幼い頃に異国で教わった「自分の意思をはっきり示す」生き方を貫こうと決めた。


誕生日を翌月に控え、僕は新幹線に飛び乗り本社へ赴くと、その足で法務部へと向かう。

新任の法務部長は、かつて僕の上司だった人物で、今では危機管理部門の役員に就任している。

「本日は、最後通告に参りました」と、僕は切り出す。

彼は冷静さを装っていたが、その目の奥に動揺が見えた。


僕は、これまで集めた不正の証言や、組織が問題を処理する過程で生じた矛盾を記した文書を差し出した。

「私がこれ以上、組織から身体的あるいは経済的な不利益を被った場合、次の株主総会でお会いしましょう。」

これは、正義と沈黙のあいだで僕が選んだ、最後の覚悟だった。


 ♫ Just give me your money, and I'll give you my pain. It's a fair exchange.

その本質は「身の安全(money)を保証すれば、企業の内情(pain)に目を瞑る」という、皮肉ながらも公平な交換条件だった。

彼は言葉を失い、僕の顔をただ見つめるしかなかった。


僕は、その足で人事部にも赴き、メンタル不調を理由に六十日間の休職を申請した。

自ら「メンタル不調による休職者」というレッテルを意図的に背負うことで、組織の過剰な干渉や報復を避ける狙いがあった。

組織にとって、精神的に不安定とされる社員に強硬な手段を取ることは、大きなリスクを伴う。

僕はその仕組みを逆手に取り、冷静に対処しただけだった。

   ♫ Don't touch me, I'm electric!

この六十日間、僕は組織の監視から完全に姿を消し、かの異国への里帰りを実現させる。


新緑の眩しい季節に開かれた株主総会、僕は場違いな私服姿で、会場の片隅に座っていた。

経営陣の形式的な報告に、株主が穏当な質問を投げかける、いつもの茶番が繰り広げられる。

企業統治や法令遵守が叫ばれ、前部長の失言も研究所の失態も、全てがないものとして扱われた。

僕の視線は、壇上の役員たちの一挙手一投足に集中している。

総会は淡々と進み、僕が立ち上がって発言を求めることはなかった。

僕の存在そのものが、彼らにとって静かなる爆弾として機能していたはずだ。


この年の夏、僕は可愛い娘たちを連れて、再びロンドンを訪れている。

娘たちにとっての初めての海外旅行は、真夏のbrilliant Londonと決めていた。

本社勤務の頃は、毎年のようにUKオフィスへ出張していたので、僕にとっては六度目の訪英になる。

ヒースロー・エクスプレスに乗り、パディントン駅へ到着すると、僕たちはあのOASISも宿泊したランカスター門近くのColumbia Hotelにチェックインした。


僕たちは早速、お決まりのAbbey Roadを目指すべく、チューブに飛び乗る。

たどり着いた駅の周辺では、懐かしのパブでお決まりのシェパーズパイを味わう。

歩くこと五分、末娘が「パパのレコード・ジャケットの場所だ」と声を弾ませた。

聖地Abbey Roadは、いつ来ても僕の永遠のパワースポットだった。


その日の夕食は、行きつけのSpice of India で、第二の国民食のインド料理を味わう。

真夏の英国は日が長く、夜遅くまで娘たちはハイド・パークでリスを追っ掛けていた。

今回は時間的な余裕もあり、リバプールやカンタベリーなどへの遠出も楽しんだ。


そして、ついに妻と挙式した思い出の地ブライトンへ、娘たちを連れて行く。

しかも、あの卒業旅行で誓ったセブンシスターズまで足を伸ばすことにする。

ブライトン中心部のバス停から12番系統のバスに乗ること一時間半、

僕たちはカントリーパーク停留所の一つ手前で下車する。

The Cuckmere Innから、牧草地を半時間ほど歩けば、目の前にあの絶景が現れる。

その荘厳な空気に触れ、僕は自身への後悔も組織への未練もないことに気が付いた。

僕は白亜の絶壁を前に、この会社の早期退職制度を受け入れる覚悟を決めた。

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