〜第9章:A Hard Rain’s A-Gonna Fall〜
僕は正月休みを延長し、ある宗教法人が運営する医療施設を訪れている。
そこは、昔お世話になった外科医が部長を務める病院のホスピスだった。
年末あたりから体調が思わしくない父に、僕は姉と相談の上、いよいよターミナルケアを選択する。
市民病院から主治医の紹介状を持参し、外来での受診日と入院を予約した。
外科部長には、入院後の精査を含め、父を快く引き受けていただけた。
僕は、その足で新大阪駅へと向かい、気分が沈む東京へと戻っていく。
そして初出社の日、火中の栗を拾い続けた僕の元に、ついに正式な召喚状が届く。
法務部から、緊急の事実確認を行うとの連絡があり、併せて美沙の同席を求めてきた。
翌週、僕たちは連れ立って本社へ向かい、改めて法務部の会議室へと足を踏み入れる。
そこで待っていたのは、以前に形式的な応対をした若手の部員ではなく、トップの法務部長と、危機管理部門の役員だった。
会議室の空気は張り詰め、二人の態度には明らかな警戒と不信が滲んでいた。
机上には数枚の書類が並べられ、その上を指先で軽く叩く乾いた音だけが響く。
彼らは既に、発言内容や外部企業との通信履歴など、こちらの動きをすべて把握していた。
問題視されたのは、不正の追及という行為そのものではない。
組織の正式な承認を経ずに、外部の人間と協力し、機密性の高い情報を調査した行為の是非だった。
さらに、教授が公的対応を拒んだ背景に、美沙が働きかけたのではないかという疑念も示唆される。
その瞬間、組織が真に恐れているものが明らかになった。
それは内部の不正ではなく、内部で独自に動く異分子の存在だった。
僕と美沙の行動は、企業の論理からすれば、秩序を乱す危険因子として映っている。
正義感に突き動かされ、真実を明らかにする僕たちの行動は、いまや組織の防衛本能と真正面から衝突している。
最後に美沙は、「どちらが加害者で、どちらが被害者かだけは、見失わないようにお願いしますね」とだけ付け加え、僕たちは法務部を後にした。
父の入院から十日ほどして、主治医の外科部長から連絡をもらう。
父の病名は、胃のGIST(消化管間質腫瘍)だった。
しかも驚くべきことに、悪性ではあるが、まだ手術も可能なようだ。
ただし、父の年齢を考慮すると、麻酔のリスクが懸念される。
しかし姉は、「もし麻酔から覚めなくても、それもまた運命よ」と、バッサリ切り捨てた。
そして、すぐに告げられた手術日は、奇しくも僕の誕生日だった。
僕たちは、上部消化管がご専門の外科部長に執刀を依頼する。
本社に戻ると、様々な理由をこじつけては、僕は定期的に研究所を訪れた。
時には麻里を伴い幸宏を訪ねては、近況報告と心身のケアを心掛けた。
法務部や役員連中も、そんな僕を警戒している様子だが、教授の存在が彼らを遠ざけてくれている。
一方で、主任研究員の姿はめっきり見ることがなくなっていた。
幸宏に確認すると、あの件以降メンタルが不調気味で、休みがちな様子だった。
手術当日、僕は東京から帰阪し、手術の成功を見届けた。
麻酔から覚めた父の呑気な寝顔を見て、僕は複雑な心境を覚える。
翌週、僕は疲れも取れぬまま、東京へと戻る新幹線に飛び乗った。
本社に戻り、デスクに着いた僕を待ち受けていたのは、目を疑うような現実だった。
あの主任研究員が、消息を絶っていた。
「自宅で亡くなっていたそうだ。
遺書はなく、死因は...心不全ということになっている。」
上司からの冷たい報告に、僕の思考は停止する。
嵐の前の静けさ、不気味な沈黙、そして彼がオフラインPCで何をしていたのか?
すべてが、このあまりにも早すぎる結末へと収束してしまった。
僕が追及の先に見たかったのは、彼の罪ではなく、なぜ彼がそうせざるを得なかったのかという人間的な真実だった。
その答えは、永遠に闇に葬られた。
組織の論理と、個人的な苦悩が、彼を極限まで追い詰めた結果だったのだろう。
そしてさらに、組織は決定的な幕引きを図る。
次期社長と目される役員が、教授宛に内容証明郵便でCD-Romを返送し、法的な立場を明確にした。
それは、「契約外の使用は一切なかった」という、組織の最終的な主張を法的に担保するための、冷酷な措置だった。
不正使用という疑惑、情報漏洩という重大な問題は、一人の人間の死と、形式的な証拠返却という二つの力によって、文字通り「なかったこと」にされようとしている。
主任研究員の死の報を受けた翌月、不吉な予感を覚えた僕は、研究所での唯一の協力者だった幸宏に連絡を試みる。
電話越しに応対したのは、知らない女性の声だった。
「申し訳ありません、彼はもう...。会社の訃報を見ていないんですか?」
僕は耳を疑った。
数日前、幸宏は交通事故に巻き込まれ、この世を去っていたという。
横断歩道で信号待ちをしていたところに、暴走した車が突っ込んできた、あまりにも一方的で残酷な事故だった。
「ご結婚されたばかりで、小さなお子さんもいらしたのに...」
彼女の声が、電話の向こうで悲痛に震えていた。
電話を切った後、僕はしばらく、受話器を握ったまま動けなかった。
主任研究員の死は、彼の個人的な苦悩の果てだったのかもしれない。
だが、この幸宏の死は、あまりにも唐突で、タイミングが良すぎた。
ソフトの不正使用とオフラインPCでの動きを知っていた、たった一人の証人が消えてしまった。
♫ I’ve been ten thousand miles in the mouth of a graveyard.
And it’s a hard rain’s a-gonna fall.
そして激しい雨が降り、もはや後戻りのできない戦いに踏み込む、決定的な覚悟が生まれた。
研究者二人の思いがけない死は、不正の真相を突き止める証言者を消し去った。
組織による情報操作が助長され、すべてが闇に葬られたかに見えた。
しかし、組織の冷酷な幕引きは、最高学府の怒りに火をつけた。
役員が送り付けた内容証明郵便は、教授に対する冒涜であると同時に、長年の信頼関係に基づく大学の産学連携委員会をも敵に回す行為だった。
梅雨空の下、僕は美沙を伴って、大学の教授会に招聘される。
厳かな雰囲気の会議室で、僕たちは、主任研究員との接触、そして会社が取った一連の対応について、包み隠さずすべての説明を求められた。
教授たちの目は鋭く、その背後には、企業統治の欠如に対する学術界の静かな怒りが感じられる。
僕の証言は、意図的に矮小化されようとした真実が、公的な場で明確に記録されることになる。
一方、大学側にとって唯一の後悔は、教授が当該ソフトに利用ログの追跡やコピー防止機能を施していない、技術的な瑕疵だった。
教授会での一件から程なくして、僕に辞令が降りる。
例の経営統合と同時期に、所属は本社のまま、大阪駐在のマーケティング担当という異動だった。
表向きは「新体制における重要拠点への人材配置」という名目だが、僕を本社の中枢から切り離す意図が明白だった。
だが、家族と過ごせる時間が増えることを思うと、この辞令も吝かではないと感じた。
もはや、組織の体面を守る戦いには心底うんざりしていた。
家族の安寧こそが、今の僕にとって最も優先すべきことだった。
教授と美沙は、僕を神田の老舗鶏鍋店に招き、ささやかな送別会を開いてくれた。
「ありがとうございました。東京を離れても、闇に葬らせはしません。」
美沙は力強くうなずき、教授は「君の正義感を誇りに思う」と、厚い餞別を僕に手渡してくれる。
残暑厳しい夜にもかかわらず、孤独な戦いを支えてくれた二人の温かさが、僕の乾いた心に染み渡る。
大阪に着任し、新しい生活に慣れ始めた矢先、再び冷たい報せが僕を襲う。
今度は、僕に研究所への口実を与えてくれた、部門内の同僚、麻里の急死だった。
体調の不良を訴えた彼女は、一人暮らしのマンションではなく、横浜の実家へ帰っていたそうだ。
そこで急激な発作に見舞われ、救急搬送されたものの、そのまま息を引き取ったという。
♫ I saw a room full of men with their hammers a-bleedin’.
And it’s a hard rain’s a-gonna fall.
そして激しい雨が降るように、僕に関わった人たちが、次々と命を落としていく。
死の連鎖は、もはや偶然や体調不良では片付けられない、何か冷酷な意志を感じさせた。
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