〜第8章:21st Century Schizoid Man〜
師走も迫り、大規模な資本再編を伴う経営戦略の転換に乗り出した当社は、いつになく多忙な日々を強いられていた。
部門内の同僚である麻里は研究所出身で、彼女の大学の後輩は主任研究員の部下だった。
僕は麻里の協力を得て、研究所へ立ち入る表向きの口実を得た。
正門の受付で訪問先と用件の記帳を済ませ、実験室を横目に廊下を進むと、主任研究員の部署にたどり着く。
そこで僕が所属を述べるなり、彼は「ああ、あの件ね」とあっさりと言い、露骨な無関心を装った。
恐らく、美沙からの警告めいた連絡が既に彼のもとにも届いていたのだろう。
その不審な態度から切迫した状況を読み取った僕は、麻里の後輩である幸宏に協力を求め、その日は研究所を後にする。
そして後日、主任研究員の部下でもある幸宏に連絡を入れた。
彼はためらうことなく、その日の晩に駅前の居酒屋で会うことを約束してくれた。
僕は、彼の警戒心を和らげるために、麻里にも同席をお願いする。
居酒屋は忘年会らしき客で賑わっていたが、幸宏の目には明らかな怯えが宿っている。
麻里は単刀直入に、彼の部署でこの数ヶ月に起こった変化を尋ねてくれた。
幸宏は周囲を警戒しつつ、小声で重要な事実を打ち明けた。
半年前、貸し出されたソフトのCD-Romは、返却期限を過ぎても無造作に主任の机の引き出しにしまわれたままだったという。
しかし、最近になって主任は急にそれを持ち出し、オフラインで使われている古い予備のデスクトップPCにインストールした。
そして、そのPCで夜遅くまで、何かのシミュレーションを回しているようだった。
この証言は、僕の疑念を確信に変えた。
美沙の動きを察知した主任研究員は、追跡の難しいオフライン環境を利用し、最後のデータ抽出を試みているのだろう。
彼の「無関心」な態度の裏には、切羽詰まった焦燥感が透けて見えた。
幸宏に厳重な口外禁止を約束させた僕は、居酒屋の支払いを済ませ、感謝と共に彼を見送った。
その夜、僕は疲弊した体を引きずり、美沙の小料理屋の暖簾をくぐる。
「どうだった、収穫はあったの?」
美沙は僕の報告を静かに聞き終えると、次は主任研究員と外部との接触を疑った。
そこで早速、僕はシステム部門の後輩に連絡を取り、監査ログとして定期的に保存されている主任研究員の通信履歴を、特別な許可を得て調査するよう依頼する。
数日後、後輩は僕のデスクに現れ、調査結果を報告した。
主任研究員のPCには、極めて大量の暗号化されたデータ通信を行った形跡が残されていた。
プロトコルは解析不能ながら、意図的な情報転送であるという確たる物証が得られた。
僕は、法務部のドアを再び叩いた。
今回は「ヒアリングを受ける側」ではなく、断固たる態度で直訴に臨んだ。
僕は、主任研究員による契約期間終了後の不正使用、およびオフラインPCによるデータ抽出の試みに関する具体的な証言内容を報告した。
さらに、彼の通信記録を突き付けることで、事態を外部企業との「交渉事」から、組織の信頼を揺るがす「重大な法令違反」へと格上げした。
法務部は組織の安定を優先するため、常に内部で問題を収束させたい意図は明らかだったが、僕の直訴は彼らの平静を乱す嵐となった。
そして、事態がもはや収拾不能であることを悟った研究所長は、強行手段に打って出た。
師走の風が冷たく頬を刺す日の午後、研究所長が主任研究員を伴い、教授を訪れることになる。
美沙からの連絡で、僕も立ち会うことに決めた。
大学の研究室は、張り詰めた静けさに包まれている。
やがて、研究所長と主任研究員が現れた。
主任研究員はやつれた顔で俯き、研究所長に促されて小さな段ボール箱を差し出す。
中には、ソフトが焼かれたCD-Romと契約書が収められていた。
研究所長は、形式的で抑揚のない謝罪の言葉と共に、ソフトの返却を試みる。
教授は、その箱を一瞥しただけで、受け取ろうとはしなかった。
一瞬の沈黙後、教授の低い声が研究室に響き渡る。
「君たちの謝罪とは、私が心血を注いだ研究成果を、不適切に共有したことへの謝罪か?」
研究所長は空の一点を睨み、主任研究員は顔を上げることができない。
「私は、君たちの形式的な謝罪も、このCD-Romも、断固として受け取らない」と、教授は続けた。
教授が受け取るには、なぜ今頃まで CD-Rom の返却を拒んできたのか、その真相のすべてをまず明らかにすることが前提だった。
謝罪に来たはずの研究所長と主任研究員は、一瞬にして尋問される被告席に立っていた。
教授の揺るぎない正義感を目の当たりにした僕と美沙は、深く頷いた。
そして僕たちの脳裏に、あの冷徹なフレーズが響き渡る。
♫ Nothing he’s got he really needs, 21st century schizoid man.
何も得られず、生気を失った主任研究員の顔には、精神的に錯乱した様子が見て取れる。
本社に戻ると、机の上に一通のメモ書きが置かれている。
前部長と同期入社の役員から、呼び出しが書かれたメモだった。
僕は早速、上階へと駆け上がり、役員室の扉をノックする。
「どうぞ」という声が聞こえ、ドアを開けると、神妙な面持ちで受話器を持つ役員が見えた。
目の合図に促され、僕は椅子に腰掛け、電話が終わるのを待っていた。
通話を終えた役員は、「前部長が法務部のヒアリングに応じたそうだ」と告げた。
前部長は、自身の弁護士を伴い「酒の席のことで、記憶がない」の一点張りを貫いたという。
これにより、発言の確証が得られなかったこと、そして既に退職しているため懲戒処分などの法的措置が及ばないことが確定した。
組織は、形式的に責任を追及した体裁を整えつつ、実質的なダメージを回避し、幕引きを図った。
僕は、人事部が今後の退職者全員に対して、機密保持義務と罰則規定を明文化した誓約書を徹底するよう、役員に強く要求した。
そして、この一連の茶番に対する唯一の抵抗は、彼に「前向きに検討する」と頷かせたことだった。
過去の性善説に基づく契約慣行の甘さを衝いた、ささやかながらも意味のある勝利だった。
最後に彼は、電話の相手が研究所長だったと明かし、「これ以上暴走を続けると、私も君を守ってあげられない」と冷たく言い放った。
それは、組織の安定を破壊する企業戦士に向けた、紛れもない「宣戦布告」に聞こえた。
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