〜第7章:Riders on the Storm 〜

遡ること一年以上前、美沙は大学教授を伴って、とある研究所を訪れていた。

その目的は、研究所からの依頼による、分子設計理論の特別講義だった。


招かれた大会議室には、研究所長以下、多くの研究員が詰めかけていた。

講義が終わると、矢継ぎ早に質問が飛び交い、研究員たちの高い関心が伝わってくる。

その中に、後に思いがけない形で関わることになる、一人の主任研究員の姿があった。


数日後、その主任研究員から美沙宛に連絡が入る。

教授が開発した分子設計ソフトを、正式に評価したいという申し出だった。

教授は快諾し、美沙を通じて契約の準備を整える。

ソフトはCD-Romに焼かれ、使用許諾契約と秘密保持契約を締結の上、評価用として提供された。


評価期間は六ヶ月だった。

当時はまだ、ログの追跡やコピー防止機能を備える習慣がなく、後にそれが悔やまれることになる。

その後、返却期限を過ぎても、主任研究員からの連絡は途絶えたままだった。


そんな折、教授はある化学関連企業の研究成果を学会誌で目にする。

その中に、自らが開発したソフト特有の設計パターンを思わせる出力結果が見受けられた。

しかも、その企業と教授の間には、過去に一切の接点がなかった。

もし仮にソフトが使用されたとすれば、重大な機密情報漏えいの可能性が懸念される。

美沙は主任研究員との連絡を試みるが、電話もメールも応答がなかった。

まるで嵐の前の静けさのように、不気味な沈黙だけが残った。


ここまで聞き終えると、店の外では、晩秋の吉祥寺に朝の気配が訪れていた。

美沙は、僕にこの主任研究員と接触し、実態を確かめてほしいようだった。

僕は「まず会社に戻って状況を確認する」と言葉を濁し、足早に駅へと向かう。


その道すがら、木々の葉は風に舞い、街は冬の気配を纏い始めていた。

僕は、逃げるように中央線快速に飛び乗り、車窓の向こうで空が白むのを、ただ黙って眺めていた。

東京駅に着くと、そのまま始発の新幹線に乗り換え、家族と愛犬Melodyが待つ神戸へと帰っていく。


新神戸のホームに降り立つと、初冬の冷たい雨が容赦なく頬を打ちつけた。

 ♫ Riders on the storm,

   into this house we're born, into this world we're thrown…

混沌という嵐の中を、ひたすら駆け抜ける孤独な企業戦士を、僕は思い描いていた。

そして、かの主任研究員が消息を断つ結末を、僕は知る術もなかった。


週明けの月曜日、関係者とのヒアリングを控えた僕は、憂鬱な気分に苛まれながら東京へと戻る。


本社に到着し、まず向かったのは法務部の会議室だった。

そこでは、部長と若手部員数名の形式的な応対を受ける。

「発言内容についての証言はおおむね一致しています。

しかし、その情報が法令遵守に抵触するリスクを、どのように認識していましたか?」

彼らの関心は、発言の真偽よりも、我々がどこまでその情報に関与したかに集中していた。

ヒアリングは淡々と進み、前部長への接触状況を尋ねても、「引き続き招聘を試みている」という曖昧な返答しか得られなかった。


数日後、僕は一縷の望みをかけて、内部通報制度の窓口となる外部の弁護士事務所を訪れている。

まさに今回の事案は、組織のガバナンスが崩壊した結果だった。

前部長だけではなく、この重大な案件に起用した経営陣の任命責任が問われてしかるべきだった。

ところが、弁護士は困惑した表情で言葉を選んだ。

「我々は、この組織から正式に委託を受けている立場です。

言い換えれば、我々の依頼主は、あなた方が問題視している経営陣となります。」

内部通報制度の本質そのものが、音を立てて崩壊した瞬間だった。


さらに翌日、人事部に赴き、懲戒処分や退職金返却の可能性を追及する。

だが退職時の契約書には、守秘義務違反に対する罰則規定がなく、法的措置は難しいとのことだ。

古い契約慣行と性善説の残滓が、組織の脆弱さを浮き彫りにしていた。


その週末、前部長と同期入社の役員から直接連絡が入る。

「話がある。今から役員会議室に来てくれ。」

重厚なドアを開けると、彼は静かに一人で僕を待っていた。

「この度は、君たちに精神的に辛い思いをさせて、申し訳ないと思っている。」

彼は視線を落としたまま、形式的な謝罪を口にする。


「この件は、対外的にどのような形で公表されるおつもりですか?

少なくとも、今回の相手先企業に対しては説明責任があるはずです。」

僕が詰め寄ると、彼は微かに顔を曇らせた。

「現時点での情報公開は、組織の安定を損なう。

公表の是非については、経営陣が適切に判断する。」

彼の口から出るのは、組織の体面と防衛策ばかりだった。

説明責任が声高に叫ばれる昨今では、とても考えられない対応策だろう。


「同期としての同情心から、重要な任務に起用した結果、彼はその期待を裏切った。

その現実を、もっと真摯に受け止めてもらいたい。」

最後に僕が言い切ると、彼は返す言葉もなく、首を俯けた 。

その様子から、組織の論理とは別の、個人的な罪悪感が垣間見えた。


説明責任を果たさない経営陣に見切りをつけた僕は、最後の手段に打って出る。

非公式ながら、相手先企業のコンプライアンス部門に、確認のための文書を送付した。

返ってきたのは「貴重な情報をありがとうございました」という、事務的な一文だけだった。

しかし、その後のディールで、この情報が当社の戦略に不利に働いたことは、想像に難くない。


ヒアリングと一連の働きかけを終えた僕は、激しい無力感に襲われた。

過去に数々の不祥事を指摘されてきたような企業でありながら、いまだに法令遵守、説明責任そして企業統治もどこ吹く風の様相を呈している。

会社が標榜するこれらの理念は、緊急事態において実質的な機能不全に陥っていた。

多くの組織と同様に、この企業の行動原理とは、真実の解明ではなく、ただひたすら組織の安定とリスクの回避に終始するものだった。

この企業の混迷の中で僕が頼れるのは、美沙が握る主任研究員に関する情報、そして自らの正義感だけだと痛感した。


その夜、疲弊しきった僕は、美沙の小料理屋の暖簾をくぐった。

「久しぶりね。大変だったの?」

温かいお吸い物が、乾いた心にじんわりと染み渡る。

「懸案の件、俺が引き受けます。」

初冬の激しい雨がガラス戸を叩き、孤独な企業戦士の宣戦布告が今、静かに始まろうとしていた。

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