〜第6章:Smooth Operator〜
単身赴任も三年目に入り、外食にも、コンビニの惣菜にも、さすがに飽きがきていた。
誰もいない部屋に帰り、テレビの音だけが響く室内は、僕の気持ちを滅入らせる。
いつものようにUKオフィスとの電話会議を終えると、時計はすでに十時を回っている。
春の夜風に吹かれながら白山通りを部屋へと帰る途中、雑多な街の灯りの中で、とりわけ柔らかな灯りが際立っている。
ガラス戸の向こうには、七、八席が並ぶカウンターだけの、ひっそりとした小料理屋が目を引いた。
初めて暖簾をくぐると、出汁の香りとともに、少し嗄れた声が迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」
小柄な彼女は、どこかSadeのような日本人離れした雰囲気を漂わせていた。
「お一人ですか?」
「ええ、会社の帰りなんです」
その夜、僕は焼き茄子と煮魚、それに瓶ビールを一本だけ頼んだ。
包丁を扱う彼女の手元には、どこか育ちの良さが漂っている。
食後に出された小さな柚子シャーベットが妙に美味しく、思わず「また来ます」と口にして、僕は店を出た。
それが、若女将、美沙との出会いだった。
時を同じくして、父の認知症が日々進行している兆しが、姉から伝えられる。
ほんのわずかに残されていた理性も、認知症という牙が噛み砕き、金銭に対する異常なまでの執念だけが増幅された。
姉は、父の財産を保全するため、銀行のキャッシュカードと取引印を管理している。
しかし、それさえも覚えていない父は、自分の財産を自由にできないと、銀行の窓口を困らせた。
そんな父が市の相談窓口に駆け込み、ついには弁護士から銀行口座を管理する法的根拠を指摘される事態になった。
そして、父が銀行で揉めると、支店長や時には警察から、電話が来ることもしばしばだった。
そのたびに僕は、帰省を余儀なくされ、成年後見制度の必要性が差し迫っていた。
梅雨空の下、あの小料理屋に通う日々が増すにつれ、若女将の昼の顔が明らかになってくる。
彼女は、ある大学教授に認められ、産学連携プロジェクトの調整役として、企業との橋渡しを任されているようだ。
その教授は、何気ない会話や笑顔の端々から、彼女の頭の良さと社交性を見抜いていた。
教室の研究内容を紹介し、共同研究が成立した暁には、契約金の一部を報酬として受け取る。
ただし、成功報酬なので収入が安定せず、夜は小料理屋の若女将として生活を支えていた。
「サラリーマンっていいわね」が、彼女の口癖だった。
「仕事してもしなくても、毎月同じ日に決まった額が振り込まれるんだから。」
♫ Coast to coast, L.A. to Chicago, western female...
ある時は道修町へ、またある時は日本橋へと飛び回る、まさに美沙は、ビジネスの世界を渡り歩く"Smooth Operator"だった。
運命の日、業界各紙は一斉に「大規模な資本再編を伴う経営戦略の転換」を、第一面で報じている。
我々は、その経営戦略の具体的な内容を、初めて紙面で知らされることになった。
そして、送別会で耳にした前部長の不適切な発言について、その日のうちに法務部へ報告した。
法務部は、会合参加者への聞き取り調査と、前部長への接触を決定する。
さらに僕は、公益通報者保護法に基づく内部通報制度を通じて、この事案に対する組織的な対応を正式に求めた。
ついに、組織の判断と向き合う戦いの幕が開く。
その日の夜、関係部門とのやりとりに疲れ切った僕は、あの小料理屋の暖簾をくぐる。
「いらっしゃい、久しぶりね」と、 今夜も若女将が出迎えてくれる。
揚げ物や出来合いの洋食に疲れた胃袋にとって、魚や野菜を中心とする献立は、まるで自然の恵みのようだった。
僕は、ひとしきり胃袋を満たすと、会計を済ませて帰るつもりだった。
ところが、スーツの内ポケットにあるはずの財布が、見当たらない。
恐らく会社に忘れてきたのだろう。
僕は、後日支払いを必ず済ませると約束して、若女将に名刺を差し出す。
「朝刊みたわよ、大変ね。」
彼女は昼の仕事柄、僕の職業に薄々気付いていたらしい。
「折を見て相談があるから、また今度ね」 と、彼女は僕の名刺を大切そうに財布の中へ収めた。
彼女と出会って約半年、とても現実とは思えないスパイ映画のような物語が始まる。
週が明けると、法務部による送別会参加者へのヒアリングが個別に始まる。
時間にすると一人十五分程度、前部長の発言に対する認識と感想を問われる。
既にヒアリングを済ませた数名に確認すると、複数の証言がほぼ一致しつつあるようだ。
しかし、それ以上に法務部が懸念を示したのは、この事案が社内規定や法令遵守に抵触する重大な問題を孕んでいる可能性だった。
この件に関しては僕自身も、夏以降の株式市場における不自然な動きについて、公的な調査機関に情報提供を依頼していた。
そして、内部通報制度の担当弁護士立ち会いによる聞き取りは、前部長への呼び出しに対する返事がないままだった。
その焦りをよそに、木枯らしの季節は訪れ、僕は成年後見制度を申請するために帰ってきた。
知り合いの精神科教授に認知症の鑑定をお願いし、友人の司法書士に必要な書類を整えてもらう。
そして姉と僕は、父を伴い家庭裁判所に出向いた。
裁判官の質問に答え、あとは承認されるのを待つのみだった。
ところが今度は、父の通院する市民病院の主治医から、腹部に腫瘍があると伝えられる。
原発巣は不明だが、年齢が年齢だけに開腹は困難で、経過観察しか手はないとのこと。
まさに、一難去ってまた一難だった。
ハロウィンの喧騒から街も落ち着きを取り戻し、冷たい秋風に吹かれながら、また僕はいつもの暖簾をくぐる。
最近では、週に一回は来ているので、立派な常連さんになりつつある。
生憎、週末の夕食時とあって、珍しく店は満席だった。
僕が諦めて店を出ようとすると、若女将が駆け寄ってくる。
「今日早く閉めるから、呑みに行こ。部屋近くなんでしょ?電話するから待ってて。」
僕は、近くのコンビニで弁当を仕込み、部屋で待つことにする。
三時間余りが経ち、携帯電話が鳴ると、僕は部屋を出て店へと向かう。
シャッターが降りた店の前には、いつもの若女将とは違う、カジュアルな装いの美沙が佇んでいた。
「お待たせ」と僕が声を掛けると、二人は水道橋方面へと歩いて行く。
道すがら、改めて彼女の年を尋ねると、僕より二十歳近くは年下だった。
音大を出てからピアノ教室を立ち上げ、仕事も順調だったらしい。
僕は、認知症の親父に手を焼いていることなど、取り留めのない話をした。
水道橋に到着すると、僕たちは中央線に乗って、彼女の住む吉祥寺へと向かう。
吉祥寺では、高架下にある彼女の行きつけのロックな店に連れて行かれた。
「荷物を置いて着替えて来るから、少し待ってて」と、彼女は出て行く。
待つこと三十分、デニム姿の彼女が、丸の内の美人なOLに変貌していた。
ただ分かったことは、彼女はヘビースモーカーで酒もめっぽう強かった。
音楽の趣味も、Bryan FerryやSting、XTCなど僕の好みと近かった。
そして、店の時計が深夜三時を回る頃、とある企業とのトラブルに話が及んだ。
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