〜第4章:Mixed Emotions〜
今の会社には、道修町で路頭に迷っていた僕を拾い上げてくれた恩義がある。
身に余る評価と十分な報酬もいただき、不満など一つもなかった。
けれども僕は、あの時の「ボタンの掛け違い」で手放した海外への夢だけは、諦めきれずにいた。
梅雨入り前の日曜日、朝刊で医療用内視鏡トップメーカーの求人広告が目に留まる。
しかも、世界トップシェアを誇る同社が、さらに中南米市場の開拓を託す人材を求めている。
僕は、目の前に一条の光が差し込むように感じた。
早速、僕は履歴書を作成し、職務経歴書に以下の点を強調した。
・中央アメリカの帰国子女であり、開発途上国の事情に明るい
・英語のみならずスペイン語の素養も併せ持つ
・名古屋支店の第一期生として、パイオニア精神を有する
・抗潰瘍薬の販促によって得た消化器領域の知見と人脈が、内視鏡事業にも役立つ
僕は、応募書類を郵送し、待つことわずか一週間程度で人事担当者から連絡をもらう。
先方の希望する人物像と僕の経歴が完全に一致したらしく、その後はとんとん拍子で役員面接までたどり着き、思い通りに内定を勝ち取った。
9月初日付の入社を約束頂き、半年から一年を本社での研修に費やした後、マイアミに設立を予定する中南米支社の立ち上げに尽力してほしいとのことだ。
僕にとってのマイアミは、迷子になった夏休みの街角を連想させ、中南米は仕事の舞台というよりも、帰省する故郷みたいなものだった。
梅雨明けの帰り道では、真夏の日差しが来るべき故郷の太陽を彷彿させていた。
そんな僕の将来設計を妬むかのように、父から人生で初めての手紙が恵比寿に届く。
それには、母が祖父母の遺産で購入したマンションを担保に、消費者金融に多額の借金があると記してある。
さらに、毎月の高額な利息が負担なので、正規の銀行から借り換えたく、僕に保証人になってほしいとのこと。
♫ You’re not the only one with mixed emotions!
あの時、東京ドームで聴いた、激しいKeithのギターリフと掻き消されそうに叫ぶMickの声が、僕の怒りと混乱を代弁している。
あの悪魔のような父に人生を掻き乱される危機感は、複雑な心境では片付けられなかった。
僕は早速、関東在住の父方の叔父に相談すると、父とは兄弟の縁を切ったので、二度と連絡しないで欲しいと言われる。
母からも連絡があり、父を問い詰めたところ、借金の総額は五百万円だと判明した。
姉の嫁ぎ先でも、消費者金融に手を出した父のせいで、肩身の狭い思いを強いられているようだ。
全てが、八方塞がりに思えた。
そして父が、今までの横暴にも飽き足らず、なぜ妻子や兄弟までも不幸のどん底に突き落としたいのかが不可解だった。
そんな父の暴挙を嗅ぎつけた母方の叔父から、電話がある。
「神戸営業所に欠員が出たから、来週にでも履歴書持って本社に来なさい。悪いようにしないから。姉さんも大変だから、お前は関西に戻ったほうがいい。」
翌週、僕が大手町の本社に赴くと、役員だった叔父の口添えで、いきなりの部長面接も採用を前提とする形式的なものだった。
僕は9月20日付の入社を打診され、その足で内視鏡メーカーの本社に立ち寄り、内定の辞退を伝える。
そこでは、人事部長に加え営業部長までが、「一、二年の期限付きだが大阪支店への配属も検討する余地がある」と申し出てくれた。
しかし、尽力してくれた叔父の面子を思うと、全ては後の祭りだった。
この十年後、マイアミに医療用内視鏡トップメーカーの中南米支社が設立されるのを、僕は業界誌の見出しで知ることになる。
多忙だった夏も終わり9月になると、僕たちは恵比寿の社宅を引き払い、転職先の社宅に入居した。
久しぶりに実家へ立ち寄ると、大仕事が待ち受けている。
母は、五百万円の札束を横向きではなく縦向きに置き「これで綺麗サッパリ片付けてきてちょうだい」と、僕に言った。
母の形相は、さながら「極道の妻」だった。
翌日、僕は父を引き連れ、三宮の喫茶店から消費者金融の担当者を呼び出した。
ほどなく、パンチパーマにサングラスをかけたチンピラ風の男が現れる。
僕は、五百万円の札束を差し出し、契約書を洗いざらい渡すよう要求した。
返却された未記入の根抵当権契約書には、父の実印がベタベタと押されている。
僕が札束を確認するよう促すと、男は「誤差範囲や」と言って立ち去った。
父は、保証人を断った僕のせいで、母が借金を肩代わりしたと考えているようだった。
そのためか父は、悪びれる様子も見せず、喫茶店の会計を支払おうともしなかった。
かつて追われた会社への腹いせで、父が始めた「貿易ごっこ」の顛末が、無責任な多額の借金だ。
そして僕は、その馬鹿げた復讐のために、進学、就職、転職と幾度も進路を邪魔されてきた。
あのJim Morrisonの悲痛な声"Father, yes I want to kill you…"が、再び僕の頭をよぎる。
駅のホームに立つ父の背中を見つめながら、僕はその身勝手な振る舞いに制裁を加えたい衝動に駆られた。
9月20日、僕は神戸営業所に出社した。
前任者は、7月末で退職したらしく、欠員状態の担当先を引き継ぐ同行が早速始まる。
同行中、高卒の上司が「君はどこの大学だ?」と尋ねてきた。
助手席に座る僕は、謙遜しながら「京都のしがない私立文系ですわ」と答える。
「そんなこと言うな。入りたくても入れない子供だっているんだ」と、彼は怒りを露わにした。
別の先輩によると、彼の息子は関西の恐らく最低ランクの私学で就職にも苦労しているらしい。
そんな馬鹿息子でも、親は本能的に可愛いものだと思った。
僕は、あの国立大学に受かった時の、父の言葉を思い出す。
「関東の大学なんかに合格しやがって。」
彼には、その動物としての本能さえも欠けていた。
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