〜第3章:Orinoco Flow〜

年が改まり、一つの時代が終わりを告げると、平成の幕開けとなる。

その記念すべき節目の年に、僕たちは入籍した。


だが僕は、姉の結婚式で誓ったように、披露宴はやらないつもりだった。

妻は僕の心中を微妙に察し、ご両親を説得してくれたようだ。

ご両親には、娘の花嫁姿を見せられず、大変申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

けれども、あの父の醜態をさらけ出す勇気は、僕にはなかった。


結局、二人の家族が顔合わせをする機会を設け、僕たちはこの状況を乗り切る。

そして、大阪市内のヒルトンホテルで中華料理を予約し、ささやかな食事会を催した。

妻の祖母が差し出す手作りの赤飯の温もりが、その場の空気をふわりと和ませる。

その温かい心遣いが、僕には身に染みるほど嬉しかった。

かたや、二人の義兄を相手に過去の武勇伝を持ち出す父の姿は、ひたすら無様で滑稽に見える。

場違いな熱量を放つ父を、僕はただ冷めた目で見つめるしかなかった。


ある日、浜松で引き継ぎ業務に明け暮れる僕に、妻から旅行会社のパンフレットが送られてきた。

その中の海外挙式プランに、あの卒業旅行で訪れた「英国ブライトン」の地名を見つける。

僕は、直ちに妻と連絡を取り、旅行の手配を依頼した。


日本では桜前線の便りが届く頃、僕は再びヒースロー空港に降り立った。

でも今度は一人ではなく、傍らに愛しい妻を伴って。

僕たちは、足早にレンタカー店に行き、白い小さなフォードを借りる。

日本と同じ左側通行の英国で、右ハンドルのフォードも難なく運転できるはずだった。

だが、慣れないラウンドアバウトの複雑な流れに苦戦し、僕は空港を何回も周回した。

ブライトンに到着する頃には、夜のとばりが春色の海を静かに覆っていた。

僕たちは、The Whoの映画「さらば青春の光」でSting演じるベルボーイのGrand Hotel にチェックインを済ませた。


翌朝、東西パレス・ピアの間を通り抜けるまだ冷たい春の潮風が、僕たちの火照った頬を心地よく冷ましてくれる。

正装に着替えを済ませた僕たちは、立会人と通訳を務める女性ガイドをロビーで待っていた。

真白いウエディング・ドレスに身を包んだ妻は、宿泊客の視線が集まる最中に佇んでいる。

すると、ロールスロイスの黒塗りリムジンが、ホテルの正面玄関に横付けされるのが目に入った。

豪奢なリムジンに誘導され、僕たちは儀式を執り行う街中の教会へと向かう。


絵本から抜け出たようなパステル色のチャペルで、神父の穏やかな声に合わせて誓いの言葉を復唱すると、僕たちは指輪を交換した。

教会の外に出ると、市中を練り歩く僕たちに、すれ違う人々の「Congratulations!」という祝福の声がシャワーのように降り注ぐ。

Grand Hotel に戻ると、目の前の海岸線を背景に僕たちの記念撮影が始まった。


賑やかなパレス・ピアを背景に、春の潮風に揺らめく真白いドレスの妻が、

未来へと羽ばたく眩しい白鳥のように映る。

耳元で、軽やかで透明なENYAの歌声がエールのように木霊する。

   ♫ Sail away, sail away, sail away...

僕たちの新しい船出は、ここ海辺の街ブライトンから始まった。


二人だけの結婚式の翌日、僕たちはブライトン駅から思い出の終着ビクトリア駅を目指す。

ロンドンに到着すると、ウエストミンスター近くのSt. Ermin's Hotelにチェックインを済ませ、そのまま近くのパブに駆け込んだ。

運良く供されるサンデーローストと定番のシェパーズパイを注文し、久々のエール片手に遅めのランチを満喫した。


ビッグベン、ハイド・パーク、セントポール大聖堂、大英博物館など妻にとって初めてのロンドンは、その目に映る全てが新鮮らしい。

連日連夜のパブ飯に辟易する妻と、初めての夫婦喧嘩も楽しんだ。

そして妻のリクエストに応えて、ロンドン最後の夕食は、テムズ川辺りの洒落た英国レストランを予約し、ドーバーソールに舌鼓を打った。


帰国の途に就くべくヒースロー空港に到着した僕たちは、思わぬトラブルに遭遇する。

予約していた英国航空がオーバーブッキングのため、搭乗不可となっている。

帰国の翌日に、悪友たちが企画してくれる結婚披露パーティーを控え、僕は少なからず動揺した。

早速、僕は幹事に国際電話をかけ、もしも間に合わなかった場合の対応を依頼する。


ところが、ほどなく英国航空のスタッフがやって来る。

「今夜のモスクワ経由便でよろしければ、ビジネスクラスに空席が二つございますので、ご用意致しましょうか?」

しかも追加料金が不要だから、僕たちにとって不幸中の幸い、渡りに船だった。

お陰様で、僕たちはパーティ当日の未明に東京へたどり着いた。

けれども僕は、モスクワ空港の免税店でキャビアを買い忘れたことを後悔していた。

それは、かの異国のホームパーティでよく盗み食いをした、懐かしい味だった。


南青山のギリシャ料理店で催された僕たちの結婚披露パーティは、悪友たちの粋な企画も手伝い、とても印象的だった。

会社の同期や後輩たち、学生時代の友人たちに囲まれ、人生の絶頂期を予感させる瞬間だった。


結婚とほぼ同時期に東京へ異動となっていた僕は、六本木や広尾にほど近い恵比寿に新居を構える。

長年慣れ親しんだ神戸ナンバーのアコードも、品川ナンバーの新型アコードへと乗り換えた。

高校時代の悪友たちが多く暮らす都内では、夜な夜な渋谷や六本木に繰り出し、妻の不機嫌を誘った。


そんなある日、新譜をリリースしたばかりのRolling Stonesが、翌年の日本公演を発表する。

奴らの来日に幾度となく裏切られてきた我々は、狂喜した。

そして年が明けて間もない寒空の下、我々は日本橋の東急前で徹夜を敢行し、奴らの初日チケットを手に入れた。


あれは忘れもしないバブル景気絶頂のバレンタインデー、待ちに待った奴らが本当にやってきた。

出だしの"Start Me Up"では、初っ端からKeithのギターリフが炸裂し、会場となる東京ドームは興奮のるつぼと化す。

   「ここでちょっとペースを落とします。」

   ♫ She would never say where she came from...

Mickのたどたどしい日本語に導かれ、"Ruby Tuesday"のヨーロッパらしい哀愁が、早春の会場を包み込んだ。

STEEL WHEELS JAPAN TOUR 1990 の開催は東京ドームのみだったので、その場に立ち会えた我々は幸運だった。


そして、来日公演の興奮が冷めやらぬまま、僕は真剣に転職を考えるようになる。

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