〜第2章:Take on Me〜

桜吹雪も静まり、青空に葉桜が映える頃、僕は実家にいた。

姉の結婚式を翌日に控え、久しぶりの帰省だった。

その夜、姉は両親の送迎を僕に託し、小さなポチ袋を差し出した。

中には三つ折りの一万円札が入っている。

恐らくガソリン代とチップのつもりだろう。

姉の気遣いが心に染みた。


結婚式当日、約束通り両親二人をアコードに乗せて、僕は式場へと向かう。

しかし、その日の記憶は、鮮やかな姉の花嫁姿がわずかに残るだけで、殆どがかき消されている。

原因は、やはり「父」だった。


今まで友人の結婚式で目にしてきた「花嫁の父」とは、娘の旅立ちを前に嬉しさと寂しさが同居する表情を滲ませ、食事も喉を通らない老紳士の姿だった。

だが、「父」は違った。


彼は席を立つこともなく、運ばれてくる料理を片っ端から平らげていった。

花嫁姿の姉に目を向けることもなく、来賓への挨拶回りもなく、ましてや会場の涙を誘うような手紙を読むこともない。


その自己中心的な姿は、紛れもなく僕の知る「父」だった。

彼は、ただ自身の欲求を満たすことに終始する「雄」に過ぎなかった。

僕は、そんな彼を目の当たりにして愕然とし、同時に言葉にできない情けなさに苛まれる。

そして「こいつが生きている限り、俺は絶対に披露宴はやらない」と心に誓った。


浜松に戻ると、この鬱陶しい記憶を思い出す暇もないぐらい、激務が待ち構えていた。

僕には、病院担当一人と開業医担当二人の指導及び監督という重圧がのしかかっている。

加えて会議と業務連絡のため、浜松〜静岡出張所の往復に毎週時間を割かれた。

通常のMR業務の合間には、分室の候補となる物件を探し、必要とされる事務用品を見積もり、調達しなければならない。


浜松の砂丘を越える爽やかな潮風が薫ると、季節は夏へと向かい、

僕は運命の女性と出会うことになる。

それは、友人の結婚式に出席するべく帰阪した、その二次会での出来事だった。

小柄で華奢な彼女は、どこか人を心配にさせる空気を纏っていた。

聞けば、膵炎を患い、前職を辞めしばらくの療養を強いられていたとのこと。

僕は、彼女が友人に告げた電話番号を、無意識のうちに暗記していた。


いよいよ浜松分室の立ち上げも、佳境に差し掛かっている。

事務所用の物件も確保し、内装業者に立ち会い間取りを決め、電話やFAX、コピー機なども手配しなければならない。

待ったなしの通常業務もこなし、時はまたたく間に過ぎ去り、夏の潮風が秋風へと変化していた。


ついに浜松分室が無事立ち上がると、僕は、あの初夏の日に出会った彼女が妙に気に掛かっていた。

記憶の片隅で温めていた番号に電話をかけると、電話口の向こう側に彼女の声が聞こえる。

その声に安堵を覚えた僕は、一方的に、翌月三連休での再会を約束した。


いすゞショールーム前にて待つこと三十分、少し遅れて現れた彼女は、淀屋橋の清楚なOLだった。

大阪といえば粉もんと言わんばかりに、僕たちは近くの小綺麗なお好み焼き店に陣取る。

共通の友人を話題に話を進めると、月内に彼女が誕生日を迎えると教えてくれた。

僕は、自慢のアコードに彼女を乗せ、自宅のある神戸まで送っていった。


僕は、卒業旅行のマドリードで見かけたLOEWEのスカーフを、彼女の誕生日に贈った。

その一週間後、神戸と浜松の中間点で待ち合わせた僕たちは、初冬の曼珠院で燃え上がるような紅葉を眺めていた。

そして彼女の肩には、その紅葉とは対照的な落ち着いた趣のスカーフが掛けられている。


帰り道の車内、根掘り葉掘り年齢を聞き出すと、幼く見えた彼女は、なんと僕と同級だった。

十六年前の忌々しい「ボタンの掛け違い」が、僕の中でカチッという音とともにリセットされるのを感じた。


それは、絵に描いたような遠距離恋愛の始まりだった。

僕は、浜松〜新神戸の新幹線回数券を購入し、足繁く彼女のもとに通う。

新神戸の駅では、彼女がレモン色の初代アコードを走らせ、迎えに来てくれる。

僕たちは、そのまま四国一周の旅に出かけることもあった。

また逆に、彼女と浜松で合流し、横浜の中華街へ旅することもあった。


遠距離恋愛も一年が過ぎた頃、再びBryan Ferryがやって来る。

あの卒業直前のAvalonツアーで流した涙から、五年半ぶりの来日公演だった。

僕は彼女を連れ、東京、静岡そして大阪公演へと追いかけていった。

10月15日の静岡公演では、彼の宿泊先で待ち伏せ、彼女とのツーショット撮影に成功する。

そして最後の大阪公演では、その場に居合わせた悪友たちに、彼女の存在が明るみとなった。


会場からの晩秋の帰り道、浜松へと戻る新大阪の駅で、僕は彼女との結婚を決心した。

そして彼女に「"Take on Me"〜僕の世界に飛び込んでおいで」と、打ち明ける。

まるでA-haのアニメ風ビデオのように、差し出す僕の手に彼女の温もりが伝わってきた。

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