ボタンの掛け違い(第二部) 〜いつか、どこかで〜
Mulberry Field
〜プロローグ:Breakaway〜
ついに僕は、憧れのロンドンにやって来た。
卒業式までの一ヶ月余り、借金を抱えての卒業旅行だ。
ヒースロー空港に降り立ち、旅行会社が提供する最初の一泊を終えると、僕たちはロンドンの街へと散って行く。
僕は、不慣れな地下鉄路線図を片手に、まずセント・ジョンズ・ウッドを目指した。
スーツケースを引きずりながら、駅周辺にパブを見つけると、シェパーズパイを注文し早めのランチを済ませる。
店員におおよその位置を確認し、北西方面に歩くこと約五分、あの見慣れたレコード・ジャケットと同じ風景が現れた。
今にも、John、Paul、George、Ringoが歩き出しそうな横断歩道を目の当たりにして、僕は思わず立ちすくんだ。
The Beatlesに触れた者なら誰もが憧れる聖地Abbey Roadに、僕は今立っている。
二月の英国はまだまだ寒く、ハイド・パークの水鳥たちも春の到来を待ちわびている様子だった。
僕は、ビクトリア駅裏のB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)に根城を構えた。
日本から持ち込んだラジカセからは、連日Tracey Ullman の "Breakaway"が流れている。
♫ I'll find somebody new, and there′ll be no more sorrow…
その歌詞「新しい人を見つけるから、もう悲しまないわ」に、僕は励まされた。
街に慣れるまでのしばらく、僕はピカデリー・サーカスからソーホー界隈に出没した。
Rolling StonesやYardbirdsらを目当てに六十年代の若者が屯していたマーキー・クラブに入り浸り、英国名物のパブでエール(a pint of bitter)を注文する。
少し余裕が出てくると、ロンドン・パンク発祥の地キングスロードを徘徊し、帰りに英国の歴史と伝統がひしめくハロッズを見て回った。
パディントン駅からノッティング・ヒルで下車し、ポートベロー・マーケットで中古レコードを漁るのも旅の大きな目的だった。
到着から一週間ほどたった頃、僕はビクトリア駅から南行きの列車に飛び乗り、Modsの聖地ブライトンを目指した。
一時間ほどでブライトン駅に到着すると、駅舎から真っ直ぐに下る道の途中に時計台があり、そのむこうには水平線が見渡せる。
いつでも海は、僕の気分を高揚させてくれる。
坂道を下り、海辺にたどりつくと、そこにはThe Whoの「四重人格」の世界が広がっている。
願わくは、映画「さらば青春の光」エンディングの舞台となった、セブンシスターズからビーチー岬まで足を伸ばしたかったが、次回のお楽しみに取っておこう。
玉砂利が敷き詰められた海岸の両側に、パレス・ピアが早春の海に向かって伸びている。
僕は、そんな景色を背中に、海岸を隔てる道沿いのガラス張りの食堂に飛び込んで、フィッシュ・アンド・チップスとエールを注文した。
六年後、この土地で妻と挙式することになるとは知る由もない。
三月に入り、いよいよ英国を離れる決心を固めた。
僕は、再びビクトリア駅から今度はドーバー海峡を目指す。
フェリーに積み込まれた列車は海峡を渡り、ベルギーのオステンドでTEE(トランス・ヨーロッパ・エクスプレス)となり、一路デュッセルドルフへと向かう。
列車は欧州大陸の田園風景を疾走り、僕の頭の中ではKraftwerkの"Trans Europa Express"が規則的な電子音を刻んでいた。
デュッセルドルフで友人と合流し、レンタカーでBMWを借りてドイツ国内を南下する。
アウトバーンでは、時速120〜130kmで中央車線を走行していた友人が、遥か後ろのパッシングに気づかず、バックミラーをのぞいた時にはポルシェのノーズが真後ろに迫っていた。
ケルン、フランクフルトを経由してミュンヘンまで、僕たちは国境を越えた速度の洗礼を受けた。
ミュンヘンでBMWを乗り捨て、再びTEEでアルプスを潜り、一路ローマへ。
ローマ駅では、ホテルの客引きと宿泊費をめぐりイタリア語対スペイン語の戦いを繰り広げた。
翌日は、モナコ、ニースそしてマルセイユと地中海沿岸を走る列車に飛び乗り、バルセロナに向かう。
バルセロナで一泊後、今度はルノーを借り、イベリア半島を半周する旅に出た。
バレンシアを経由し、グラナダ、コルドバなどアンダルシア地方の歴史に触れ、一挙に北上してマドリードを目指した。
このアンダルシア地方から首都を目指す道中で、僕はスピード違反に引っ掛かっていたらしい。
マドリードではルノーを乗り捨て、TGVにて集合地のパリへと向かった。
四十日の旅も終わり、パリを離れる当日の朝は、母と姉に頼まれたLoius Vuittonを買いに奔走した。
帰国するや否や、卒業式が控えており、その後は東京での入社式である。
帰国後に届いた国際郵便の中身がスペインからの違反切符だと知るのは、また先の話だった。
大学生活を振り返ると、正直言って無駄なモラトリアムはそこそこに、僕は早く働きたかった。
だから、来るべき社会人生活への期待が膨らんだ。
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