花天月地【第111話 心に問う】

七海ポルカ

第1話



 降り始めた雨の中を離宮に戻った荀攸を、門番が確認し、開門した。



曹丕そうひ殿下から猶予を頂いた。まだ私自身で話を聞いていない者に会って話を聞く。

 これで犯人が上がらなければ、探索は市街にも及ぶ。

 とはいえ、今は内部に犯人を封じ込んだと思って取り調べる。

 人の出入りは決して許すな。

 外からの警備を増員するようには命じて来た。

 お前たちは中の動きに細心の注意を払ってくれ。

 全ての門は閉ざし、私の許可が無ければ開けてはならない」


 副官二人が真剣な顔で頷いた。


「他の者が取り調べた者をまとめておきました」

「すぐに尋問は始められますが……」


 荀攸じゅんゆうはこの数日、一日に何度か一時間ほど仮眠などは取りつつも、ほぼ眠っていなかった。

 そのことを副官は気にしたようだ。

 しかし荀攸の性格から言って、この状況では例え眠ろうとしても心が落ち着かず、休みは取れないだろうことが自分でも分かった。


「四十人ほどか……。いや。眠気は覚えていないので、このまま尋問を開始する。

 数人ずつ呼んでおいてくれ」


 荀攸は従軍経験も豊富である為、常に動き続けなければならないような、休みがまともに取れない行軍にも慣れていた。

 疲れや眠気を覚えない限り、動き続けることは出来る。


 しかし、この四十人の中に必ず犯人がいると確信が持てれば、それを支えに強い心で挑むことが出来るのだが、荀攸は本能で、例え自分でなくとも、取り調べていた者たちは優秀で犯人を悪戯に見過ごすような人間ではないことを知っている為、どこかでこの四十人の中にも紛れていないかもしれないということを察していた。

 勿論それでも万が一のこともあり、自分の目で全員と合わないと納得が出来ない為、尋問を行おうと思っているが、犯人がいる気がしないのだ。


 これで犯人が上がらなかった場合、今回離宮にいなくとも、曹植そうしょくの親しい関係者から取り調べを行って行くと曹丕そうひは言っていた。


 ここで全力を掛けて取り調べても、何も出なければ捜索は拡大する。

 今日寝れないどころか、この騒動は長引く可能性があった。



『わたしが必ず照らしましょう』



 果ての見えない暗闇の中に入り込んだような気持ちだったが、その時荀文若じゅんぶんじゃくの明るい眼差しと言葉を思い出し、荀攸はこれを支えにする。


甄宓しんふつ殿の御容態は」


 副官は揃って口を閉ざした。


「そうか……。一度軍医から直接話を聞いて来る。

 戻り次第尋問を開始するから、手筈を整えてくれ」


「はっ!」


 副官たちと一度別れ、回廊を通り過ぎ、甄宓が運び込まれた部屋に向かう。

 せめて意識が戻っているなどという状態を期待したが、それも叶わなかった。

 甄宓が倒れた場所が、ここからは見下ろせる。

 今は美しい庭には人気もなく静まり返っていた。


 毒が入れられるまでに、毒が入っていた椀に近づけたのは甄宓か曹植だけ。


 その事実を、大勢がこころから見ていたのだ。

 誰も何も見ていないならば仕方ないが、

 皆が二人の一挙一動を見守っていた中でこういう事態が起きた。


 甄宓しんふつが毒を入れるなど、荀攸は今では曹植そうしょくが毒を入れたという話よりも可能性を考えていない。

 かつては、そういう可能性が考えられたほど甄宓と曹丕が不安定な夫婦だったのだが、今は違うとはっきりそう言える。

 彼女は曹丕と生きると思い定め、

 そう願っているはずだ。


 曹操が口外をしないようにしろと命じた為、話は広がっていないが、


 ――実は甄宓は長江ちょうこうで魏と呉がぶつかる少し前に、ふらりと長安から姿を消し、曹丕に無断で呉の使者と会ったことがある。


 最初曹丕が密かに甄宓しんふつを使者として立てたのかと荀攸は誤解したほどだ。

 しかし曹丕は本当に甄宓の動きを知らなかったらしく、

「妻の動きすら把握出来ないのか」

 と曹操が叱責した時、反論もせず「申し訳ありません」と口にしていたことから、予想外の動きだったようだ。


 甄宓は物静かな女性だったので、聞いた時荀攸も内心驚いたのだが、どうやら呉蜀同盟が結ばれることになり、その為に孫権そんけんの妹である孫黎そんれいという姫が劉備りゅうびの許に嫁ぐというので、彼女が二国を強く結びつけられる存在かどうか、確かめたくて供回りも自分が持っている護衛だけで会いに行ったようなのだ。


 無謀なことを、と荀彧じゅんいく夏候惇かこうとんは眉を顰めていたし、

 夏候淵かこうえんなどは目を丸くして、賈詡かくは「女心だけは逆立ちしても読めんな」と呆れていたが、曹操そうそうは笑っていた。


 それだけ曹丕の力になりたかったのだろうと思う。

 呉蜀同盟が強固に結ばれれば、後々曹丕に祟る可能性がある。

 どう考えてもそれを警戒した動きであり、

 随行した侍女から何とか聞き出した話では、会談は最後には決裂し、甄宓しんふつ孫黎そんれいの命すら狙ったと言われているがこれは確認は出来ていない。


 袁家という敵方から嫁いだ悲運の美しき美女。

 それまで甄宓はそう思われていたし、荀攸もそのように感じていたが、

 どうやら彼女もそう簡単な女性ではなさそうだ。


(いや……大切な人が出来れば、その人を守るためにどのようにも変われるのが人という者なのかもしれない)


 そうも思った。

 とにかく――甄宓の曹丕への想いも忠義も本物だ。

 孫呉が何かを仕掛けてくるかもしれないのに、たった一人で敵に会いに行った。

 強さを手に入れた甄宓しんふつが、自ら毒を飲み死ぬようなことがあるはずないし、

 彼女は曹丕そうひの強さを信じているのだから、曹丕が正式に後継者と指名された今、曹植を暗殺しようとなどするはずがない。


 よって、可能性は低いものの考えられるのが曹植だけだった。

 一度話した感じでは嘘をついているようには到底思えなかったが、

 曹植そうしょくは純朴でも、周囲に狡猾な取り巻きはいる。それに唆されてということは万が一だが考えられた。


 しかし二人は、お互いの椀には近づいてもないのだ。


 どう考えても物理的に毒を入れるのは無理なのである。

 四阿しあの近くにいた侍女たちを中心に、例え一瞬でも椀から目を離したり、誰かが近づくのを見たことが無かったと聞いたが、選ばれた数人の侍女が、お二人が戻って来られたので直前に茶を淹れ直し、その際新しい入れ物にも変えており、規則に則って淹れる時も決められた二人で確認しながら淹れる、それを守っていた。


 茶を出し、二人が飲み、甄宓が曹丕の帰りが遅いので、夕食を取りながら帰りを待てばどうかと曹植に声を掛けてやったが、曹植はそれをさすがに辞退し、最後に二人で夕日が沈む美しさを見よう、と再び池のほとりに向かったという。


 それだけだ。


 ごく短時間に、限られた者達しか近づいていないし触れていない。

 あれだけ大勢が見守る中で、誰一人食い違う証言もしていない。


 何故だ、と思いながらも。


 それよりも何かもっと大きな疑問が、何か胸の奥に埋もれているような気持ちになった。 何かが引っ掛かるのだ。

 それが何か分からない。


 甄宓の様子を宮廷医師に聞いたが、

 出来る限りの解毒はしたものの、意識がない状態が続いているので厳しい見立てだと報告を受けた。

 とにかく力を尽くしてくれと労い、部屋を出る。

 部屋を出た所に、思いがけない姿を見つけた。

 来た時とは別の扉から出た荀攸じゅんゆうは、薄暗い廊下に小さな明かりを側に置いて、通路の段差に腰掛けている娘に気づいたのだ。


 瑠璃るりだった。

 郭嘉かくかの異母妹である。


「瑠璃殿」


 上着を着込んではいたが、冬の吹き抜けの回廊である。

 しかも今は雨も降って来て、冷え込んでいる。


「どうしました。こんな場所で」

「荀攸様」


 瑠璃は立ち上がり、深く一礼した。

曹娟そうけん様が……ひどく奥方様のことを心配されて、先ほどまでこちらにいらしたのですけれど、部屋に戻られたのでその間は私がいようと」

 荀攸は一瞬、表情を和らげた。

「……曹娟殿のお気持ちも、貴女のお気持ちも分かりますが。

 今は医者しか手を出せません。こんな冬の夜の回廊にいては貴女の身体にも障ります。

 同じ建物にいるのですから。部屋で甄宓殿の御無事を祈って下さるだけで充分です。

 さぁ、私が送りますから戻りましょう」


「あ……いいえ、荀攸様。私が勝手に出て来たのです。

 自分の足で帰ります。荀攸様に子供のように送って頂いたりしたら、申し訳ありません」


「残念ながら、貴方の兄上はそうは言っても部屋に素直にお戻りにならないことが多い。

 瑠璃殿は女性ですから、素直に聞いて下さるとは思いますが、万が一兄上に似ておられると困りますので。送らせていただきますよ」


 郭嘉かくかの名前が出ると、瑠璃は目を丸くしてから、強張っていた表情を少し和らげ「ありがとうございます」と微笑んだ。

 名前だけでこれほど安堵を見せるのだ。

 郭嘉がここにいたら、それだけできっと何もかも安心出来ただろうになと荀攸は思う。


 曹丕の話では郭嘉は涼州で負傷した傷が癒えたら、戦になる前の江陵こうりょうに視察をしに行くらしい。

 春には一度戻って来るとは聞いているが、今の時代何がどうなるかは分からない。

 この兄妹が無事にもう一度会えればいいのだがと荀攸は思った。


 曹娟そうけんと瑠璃の部屋は、甄宓が運び込まれた部屋からはそう遠くなかった。

 離宮は広いが、側の階段は上がった通路に面している。


「これほど近いのですから、心配はいりませんね。

 くれぐれも寒い通路で待ったりなさらないで下さい。

 貴女が病に掛かれば、曹娟殿も郭嘉殿も心配なさるのですから」


「はい。荀攸様。子供のようなことでご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 やはりこちらをジッと見つめて来る時の表情が、瑠璃は郭嘉に似ていた。

 確か郭嘉は男の兄弟がいたけれど、それの誰とも顔は似ていないと言っていた。

 片方の血しか繋がっていない女姉妹だけが不思議と彼に唯一似ている。

 荀彧は過酷な遼東遠征の時、曹操の側に郭嘉がいたことで、きっと無事に曹操が戻るだろうと確信出来たと言っていた。


 郭嘉に少し似ている彼女が、甄宓の命を守ってくれればいい、と荀攸は珍しくそんな幻想のようなことを考えていた。


 自分はほとほと現実的な人間だと思うけれど、

 信じがたいような現実も、見て来た。

 そもそもあれほど信頼し合っていた曹操と荀彧が袂を分かつ日が来るなど、想像もしていなかったのだから。


 ……幼い日、地に立って、天の星を見上げていた郭嘉の姿を思い出した。


(あの人は、現実に起こるあらゆる戦況に対応出来る力を持ちながらも、

 幼い頃からそう言った、理屈だけではない、見えない感覚的なものも、鋭く見抜く才さえ持っておられた)


 曹操も、郭嘉のそういう部分を最も愛していたのだ。

 怜悧だけではなく、感受性の豊かさすら郭嘉は持っていた。

 普通、感受性の強い人間は戦場の非情さには神経が耐えられないものだ。

 郭嘉や荀彧は心の強さで、そういった物さえ飲み込んでしまう。


 涼州で、自分を長年付け狙って来た【烏桓六道うがんりくどう】という得体の知れない暗殺者を、郭嘉は深手を負いながらも討ち取ったという。


 研ぎ澄まされた神経と、

 磨き抜かれた闘争心で。


 得体の知れない連中を自分の手だけで討ち取って見せた。

 郭嘉が彼らの存在に気づいたのは病床の時だからというから、本当に驚く。

 そんなに長い間、動けない体で、たった一人でそんな者達と戦っていたのかと。


 さすがは曹孟徳そうもうとくに【戦の申し子】と言われた神童だ。


 あの心の強さがある限り、自分は永遠に軍師としての才覚も到底彼には及ばないのだろうなと思う。


(郭嘉殿なら……この状況に何かを見い出されるのだろうか)


 自分だから捉えられない何かが潜んでいるのだろうか?


「荀攸様?」


 娘の声で荀攸は思索から覚めた。


 人に頼っている場合ではない。

 この場を曹丕に任されたのは自分なのだ。

 自分が責任をもってやり遂げねば。


 強く思い、少し心配そうに聞いて来た瑠璃に頷いてやる。


「では、私はもう参ります。

 とはいえまだ離宮におり、調べておりますので、もし何かあれば遠慮なく私に声を掛けて下さい」


「ありがとうございます」


 瑠璃は深くもう一度頭を下げると、部屋の中に入って、静かに扉を閉めた。




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