五章ー余燼の栞、鎖が選ぶ行き先-
一節
幼いアルベールは、姉の掌の熱だけを道標に、炎の息を吐く回廊を駆けた。
さっきまで杯と楽の音が舞っていた場所に、いまは怒号と鋼の擦過が降りしきる。
東方の帝国の脅威に備えて魔術院が主導し、王家と評議会が造らせた戦闘用ゴーレム〈タイタニス〉の観兵式は、巨躯が制御を外れ、祝宴の人々へ拳を振り下ろした瞬間、歓声から悲鳴へと反転した。
振り返らない姉の横顔は痛みで歪み、笑みは宴に置き忘れられた。
広場の中央に立つ〈タイタニス〉は、人型の甲冑を思わせる巨像だった。
金属板が鎧のように全身を覆い、腕には武器と盾を備える。背と関節には術式刻印が刻まれ、胸の核から淡い光が網のように走る。
敵軍を一体で押し返すために造られた、魔術と鋼の結晶だった。
号令とともに巨像が動く。
足が地を踏みしめた瞬間、石畳が沈み、空気が震え、どよめきが上がる。
掲げられた腕が岩塊へと振り下ろされ、鈍い衝突音とともに岩は粉々に砕け、歓声が沸いた。
次の瞬間までは、すべてが予定通りだった。
術式光が一瞬乱れ、刻印が逆流する。術者たちが慌ただしく詠唱を重ねるが、巨像は応じなかった。
〈タイタニス〉の無機質な兜がぎこちなく巡り、視線のように嵌め込まれた宝石が、広場を取り囲む人の群れを見やる。
その動きは、誰の指示にも合致していなかった。
巨腕が、ゆっくりと、しかし迷いなく観覧席へと向けられる。
誰かが制止の号を叫んだ。別の誰かが制御術式の停止を命じた。
だが、その腕は止まらない。
鋼の拳が貴賓席を薙ぎ払い、木と石と人とが潰れた。骨の砕ける音と、甲冑のひしゃげる音が重なり、鮮血が白い装飾布を染め上げる。
続けざまに、胸部の術式が暴発した。
核から迸った光が弧を描き、近くの列にいた者たちを焼き焦がす。
炎に包まれた衣装が、人の形を保ったまま崩れ落ち、遅れて悲鳴が上がる。焦げた肉と布の匂いが煙に溶け、息を吸うたび喉の奥に張り付いた。
護衛の騎士たちは盾を構え、聖王と王妃の前に立ちはだかった。
三将も暴走した巨像に向けて陣形を組み替え、命令が飛び交う。
だが、その動きだけでは、群衆すべてを守るには足りない。逃げ惑う人々が押し合い、足をとられた者が踏みつけられていく。
その混沌のただ中で、リディアは迷わなかった。
近くにいた弟の腕を掴み、自分の方へ引き寄せる。驚いたアルベールが顔を上げたとき、姉の眼差しはすでに広場ではなく、城内への退路を測っていた。
「アル、走れるわね」
問いかけというより命令に近い声。幼い少年は、その意味を考える暇もなく頷いた。
そこから先の世界は、アルベールには音と熱の塊だった。
床が揺れるたびに足がもつれ、背後で何かが崩れ落ちる音がする。そのたびに、姉の掌の力が強くなる。
振り返れば、誰かが倒れ、騎士が戦っているのかもしれない。
けれど、振り返ることは許されなかった。
幼いアルベールは、姉の掌の熱だけを道標に、炎の息を吐く回廊を駆けた。
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