ツナガリセカイ
カナブン・バーンズ
第1話 サヨナラ世界
退屈かもしれないが悪くもない人生。
少年、諸星光の今まで過ごしてきた時間を言い表すのに最も適した言葉だ
家の鍵を開いて靴を脱ぎ、そのまま風呂場へ向かいプッシュタイプの泡石鹸で軽く手を洗いうがいを済ませ、制服を脱ぎ…軽くシャワーを済ませた。
洗濯機の上にいつも母さんが置いておいてくれるパンツ一枚にシャツ一枚へさっさと着替え、自室で上着を着用、明かりのついていないリビングへ向かう
今日も母さんはまだ帰っていないらしい。
普段食事に使う椅子付きテーブルの上にはいつもどおり…
『今日遅くなっちゃう!ごめんね!』
と書かれたメモ用紙が置かれていた
ケータイだって渡してくれているのに置き手紙、
焦っていたのがわかる字体の崩れた殴り書き…
その下に敷かれた千円札。
仕事場についてからでも…いや、連絡なんてしなくてもだいたい察せるのに…
置き手紙に敷かれた千円札を引き抜くと楽しみにしていた今日の新聞を手に取り、ニュースの書かれた紙面を選んでスラスラと読み勧めていくと…
「…やっぱり今日も…!」
一人小さくつぶやく独り言。
興奮気味に力がこもっていた。
俺の名前は諸星光。
下の名はヒカルではなくヒカリ。
男らしくないとかそういう文句は母さんに向かって垂れてほし…
いや、母さんに向かっては絶対に垂れないでくれ、絶対悲しむ。泣くかもしれない。
そもそも文句自体垂れてほしくない。
母さんとの親子仲は全く持って悪くない、むしろどちらかといえばかなり良いほうだと思う。
だからこそ頼む。
17歳の高校生。部活はしていないが一応バイトはしている…バイト探しのアプリで見つけた、俺から見ると楽そうな職場はすべて落とされてしまい、母さんから提案された運送業者で…派遣もバイトも変わらないよな…うん、そこで働いてる。
腰が痛くなるのと、建物の仕組み上は一応屋内なのにほぼ吹き抜け状態で季節とともにそれぞれの辛さが身体を襲ってくるのと…偉そうに映画にアニメにドラマも配信するサブスクまでサービス、おまけにプレミアム…だったかな?
…とりあえず、月額払って会員登録さえすりゃ配送料無料になっちゃうお客にお得な…いかにも密林って感じのあの会社の荷物を積まされるのが辛い。
これが悩み。
趣味は、特筆すべきものでもないかもしれないが…作品鑑賞というべきかな。
何度も地上波放送されるファミリー向けの作品はもちろん…
光の巨人、マスク被ったバイク乗りも楽しめる。
手を出すかどうか悩んでいるが…概数にすれば10人となるカラフルな軍隊も楽しめるはず。
子供向けの作品なら、休日に少し早起きすれば最新のシリーズが見られるし、レンタルビデオ店で借りるのにも歴代のシリーズを総合して考えればかなりの数が存在する。
加えてレンタル店に向かえば気になった邦画や洋画なども借りようと思えば可能ではあるので、旧作料金なら税抜き100円。お菓子一袋とさほど変わらない…趣味としてはそこまでの金食い虫というわけではないだろう。
リビングのテレビで見ると母さんがこの俳優さんが好みだとかもっとシャキッとした俳優を用意しろとか騒ぎ始めるのと、レンタルはいくつもの作品群の中から選び抜いたものたちということもあって…
母さんから譲ってもらった…使い古しのおさがりパソコンの再生機能を用いて自室で鑑賞している
そんな…この歳では少々幼稚かもしれない趣味を抱えている青臭い自分には最近、新しく興味を惹かれ、熱中しているものがあった。
今目にして読み進めている新聞の一つの記事…
"連続刺殺事件" と呼ばれるものだ。
ことの始まりは三日ほど前…休日、土曜の朝だった。
「何これこわい!」
かぶりついていたトーストから口を離して歯型をつけたトーストを皿に落とし、母さんはいきなり大声を上げて驚いた。
「パンが怖い…?そんなまずかったの?」
「違うわよ!それに私の焼いたハムサンド
トーストちゃんは美味しいはずだから!
怖いのはテレビよテレビ!ニュース!」
反論を述べた後母さんは俺の後方を強く指差し、俺にテレビの方を向くよう促してくる。
断る理由も無いので身体を向け、テレビのほうへ視線を向けると…
「刺殺事件…?」
「そうそう!怖いわぁ…」
「刺殺ってそこまで珍しくないと思うんだけど…
どんなとこが怖かったの?」
「何言ってるの!刺殺が怖くないわけないじゃな
い!お腹とか胸とか刃物とかで刺されて殺され
ちゃうのよ…
痛いし苦しいし怖いじゃない!?」
「そうじゃなくて…この事件のことで怖いところ
が聞きたかったんだ」
「あ、そっちね。わかったわ」
「そこまでいきなり落ち着かれると怖いよ…」
「被害者がね、穴が開くほど深く刺されてて、
それにとんでもない力で吹き飛ばされた形跡があ
るらしいのよ」
「何それ…」
「加えて犯人の名前はおろか顔すら情報はなし」
「それやばくない…!?場所はどこなの?」
「一応近くでは起こってないみたいだけど…現場の
位置がごちゃごちゃで犯人の計画性とか人物像す
ら特定できてないみたい」
「まじかぁ…」
「ちょっと待ってね…」
ケータイを取り出して素早く操作する母さん
「ほら、コレ見て」
画面を指さしながらこちらに向けて目を向けるよう促してくる。
「なに?」
母さんのケータイ画面に映されていたのはロゴの見なれた、大手検索サイトのニュース記事だった。
「えっと…遺体の死亡時刻はどれも18時以降…
どれも日が落ちてから、周辺が暗くなり…人通り
の少ない場所での犯行であった…うわぁ…」
「ということだから不要不急の夜間外出は絶対厳禁
だから!いいわね光!?」
「…わかったけど、母さんが遅いときの夕飯どうす
ればいい?コンビニとかなら平気?」
「仕方ないときだけね」
「うん、それはわかったけど…
やっぱ犯人の位置すらわからないってなると
安心できないし怖いね…」
「怖いよね〜…どうしたらこんなことできるのかし
らね…」
どうしたら…こんなことができるのか、どうすればそんな傷がつくのか、興味が惹かれてしまった。
もしかすれば、確認すらされていない生物や現象が存在し…それを目にすることができるのかもしれない
刺された後に突き飛ばされる…。
角を持った怪物の突進、突いて吹き飛ばす剣術…
様々な非現実的妄想が浮かんでくる。
…まるで今までの普通や今までの日常とかいうものとかを忘れられてしまうようなこの感覚が…
たまらなく好きなのだ。
ただしっかり見つめ直せば…
自分が被害者の立場にないから気楽なことが言ってられるんだ、少し冷静になれば…不謹慎なガキだと自分でもつくづく自覚させられている。
実際母さんや自分が被害者になったとしたら…
想像もしたくないくらい、そうなってほしくないと願うほど、巻き込まれるのは嫌だ。
他人から見た不幸と、当事者の感じる不幸との間に生じる溝は信じられないほど深いものなんだろう。
足りない脳みそを精一杯ひねりしぼって導き出した自己完結な結論。
フィクションの見すぎのもたらした悪影響だろう
…やはり、くだらない妄想じゃないかと鼻で笑ってくれてかまわない。
新聞を読むのと回想とにで夢中になってしまっていて忘れていたが…今の時刻は既に6時30分。
夕食をとるにはちょうどいい時間だろう。
歩いて十分ほどのところの公園の側にスーパーがある、そこで夕食を買うことにした。
何か特異なことも起きたわけでもなく、十分ほど歩いて公園の側のスーパーへたどり着いた。
入店すると、聞き心地の良い電子音を耳にした。
経営する会社が異なると…入店時の電子音も異なるらしい。俺はこの店のヤツが気に入ってたりする。
一番使ってるのがここだからだろうけど。
購入し、レジ袋に入れられた値引きシールつきの弁当と620円の釣り銭を持って、スーパー内の駐車場の中からも抜け出たその時だ。
ポケットに入れたケータイがバイブレーションを起こした。無駄に入れてあるゲームなどのアプリのせいでマナーモードを使わなければ通知音がうるさくてしかたがなかった…
なので、連絡関係のアプリだけにバイブレーションが起動するよう設定しておいたのだ。
ポケットからケータイを取り出すと着信中の画面が表示されている…かけてきた人の名前も………
…母さんだった。
ニ色のボタンのうち、緑色の応答のほうのボタンを押した。
「…もしも」
「ひかり!今どこにいるのよ!?」
「スーパーに弁当買いに行ったから、その帰り」
「え!?あ、あぁそうだったのね…」
「いきなり電話かけてきてどうしたの…?
なんかあった?」
「いやだって…ひかり家にいないじゃない!
心配させないでよ…!」
「家にいないって何でわかるの…
母さんもしかしてもう帰ってる?」
「帰ってないわ…私、あなたの母さん
今コンビニに止まってるの」
「メアリーさんだっけ?」
「私そんな名前じゃないわ、知ってるでしょ?」
あのセリフは思いつき…らしい。
「母さん夕飯はどうすんの?
何か買って帰ろっか?」
「気持ちは嬉しいんだけど…
ついさっきコンビニで済ませちゃった」
「そっか」
「まだちょっとかかるから、いい子にして待ってる
んだよ!」
「うん、気をつけて」
「それじゃあね〜」
そこで着信は切れた。
おのれ保護者用位置情報特定アプリ、いつでもどこでも正確に位置を把握できるなんて…
面倒くさいものになってくれやがって。
それによって、嫌というわけではないのだが、母さんは俺にケータイを持たせてくれるようになってから二日に一回ほどの頻度で電話をかけてくるようになった
。
ちょっとの迷惑だし過保護すぎるとは…正直思っている。
でも母さんを突き放すには…こんな理由では不十分がすぎる、いや突き放す理由なんて一生出来ないだろう
鬱陶しく感じることだってもちろんある、でも自分のことを見てくれていなければ…その鬱陶しさも感じられるものではないのだ。
血のつながりのおかげだとしたらそれに感謝できるぐらいには…育ててもらった恩を感じている。
…とはいえこのまま帰るのは少し退屈というもの。母さんも待っていろと念押しするくらいだったし、すぐに家へ帰ってこられるとは思えない。それに加えて弁当も温かくないのでレンジで温めなければおいしくいただけないから…
駄目だ。母さんが納得してくれそうな言い訳が思いつかない…
過保護とはいったが、この歳で門限をつけるほどのものではない。
しかし母さんが帰るのはどの季節でも日が落ちていて然るべき時間帯だ。
そのせいかもしれないが、母さんの帰りを出迎えられないとそこそこ長いおおよそ30分ほどの問答…
聞こえが悪く言い換えて、尋問が始まってしまうのだ。
目線を下へ向け息をついた後、顔を上げ前を向くと
…不思議と目の前の公園に目を引かれていた。
公園の名前は"蛇の目公園"というらしい。
入口の表札を毎回見たことと、不気味な名前だったということで覚えられただけで由来などの詳しいことはまったくわからない。
公園内は植えられた木たちが列を成し、その側のポールライトの灯りがつくる木陰が風によって揺れる様とそれに伴い発せられる…枝先の葉がぶつかりあう音に不安を掻き立てられる。
夜のこの公園を見れば幼い頃に…叱られたときのことを思い出せる。
一歩ですら近寄りたくないほど怖がっていたのを母さんに利用されて…
『言うこと聞けない悪い子は蛇の目公園に捨てちゃ
うぞ!夜の蛇に食べられちゃってもお母さん、
絶対助けてあげないからね!』
という叱り文句というか言いつけを作られてしまったせいか…今まで日中に訪れることこそあっても母さんの言いつけどおり、夜間に蛇の目公園を訪れることは一切なかった。
今思い返せばそもそも…夜の蛇だなんて本当にいるのかどうか、聞いたことすらなかっ。た
もしかしたら過去…つまり時間の流れに消えたと思いこんでいた幼い頃の自分の持っていただろう微かな反抗心が、今更になって現れたのかもしれない……
それっぽいことを言ってみはしたのだが、簡単に言えば興味本位だ。
行こうと思えば行けるのに行けなかった空間…
未知を知りたくなるのが人間。
本当に夜の蛇とやらが実在するのであればどうかこの目で一目見てみたい!
……と、過去の自分が叫んでいる。
ならば今の自分にできることは唯一つ、
自分の欲望に従うことだ。
歩道にそって歩いていくと所々分かれ道がつくられていて、その先にはブランコやジャングルジム、捻じ曲げられた鉄棒をつなぎ合わせた不思議な形の遊具など…様々な遊具が目に入る。
名称がわからない遊具を目にできた新鮮さ、幼い頃に見た遊具をまた見れた懐かしさ、初めての夜の公園に来たから、言いつけがあったからであろうほどよい緊張感がただの散歩へ非日常的な興奮を与えてくれていた。
黙々と歩みを進めていくと、公園の中心部にあたる噴水が見えてきた。
日中は噴水も起動しており、そのまわりを囲むようにベンチが設置されている。
昼には遊具に続いてカップルに夫婦、親子に子供たちの集団など様々な層に人気な場所なのだが…
現在は人影のひとつも確認できないうえ、話し声なんて一切聴こえてこない。
目的も無いのでとりあえず噴水の周囲を一周してみたが…やはりなにもおこらなかったうえに、何か落っこちているわけでもなかった。
空腹の証拠、腹より発せられる間抜けな音が誰もいない周囲へ響き渡る…
ちょうどいい、そこのベンチで買った弁当を夕食にしよう。
座った後に弁当を袋の中から取り出し、袋はズボンのポケットへ突っ込む。弁当の蓋を開けて一本にまとまった割り箸を二本に割り、おかずの鮭をつまみ上げようとした…その時だった。
「美味しそうなの持ってるね」
背後からした声の主の姿を見ようと振り返ると目に入ったのは…雪原に積もる雪のような純白で艶のある長髪…肌も不思議なほど白く…
白と言っても透明感ではなく、印象をできる限り分かりやすく伝えるなら…
柔らかそうだった。例えるなら白く繊細な綿のよう。
それに加えて、こちらと目が合う明るく透き通った赤色の瞳。
とても日本人とは思えぬ風貌をした少女がそこにいた。
「キミに言ったつもりなんだけど…
ねぇ、聞いてる?」
声も耳ざわりのよく…耳にしていると心地よく、気分がいい。
「…んん…やっぱりだめなのかな」
「えっ?あ、何でしょう…?」
珍しいという以前に目を引かれるというべきか…
彼女を目にして不細工と言った人間がいたとしたらそいつは眼球の代わりにビー玉でも詰めているんじゃないかと疑えるほどには美しい容姿をしていた。
「えっ…?
じゃ、じゃあそれ!それちょーだい!」
背後から回り込んで…彼女はこちらの目の前へやってきた。
夜の暗闇の内になびき、輝いて見えるほどの純白の長髪に目を奪われる。
「…弁当のこと?」
「そうそう!あんまり美味しそうな匂いがしてる
もんだからさぁ…お願いだよ〜」
冷めた弁当の匂いにすら反応する嗅覚…すごいな。
「そんなにお腹すいてるの…?」
「うん、その〜…ベント?くんのおかげでね」
およそ、発音に慣れた日本人の発するものではないのはなんとなくわかるのだが…彼女は一体、どこの国の生まれなのだろうか?
「どれくらい?」
「くれないと飢え死んじゃうかも…」
お腹を抱えてうつむく仕草を見せてはくるが…
口元が緩んでいる。芝居だろう。
だが…もともと値引きシールが貼られていたものを買っていたので釣り銭もまあまあな額が残っている。
おまけに箸も口につけていない。
あげても…特に問題はないよな。
「どうぞ」
持っていた弁当を箸と一緒に彼女へ手渡すため差し出す。
「え、全部くれるの?」
「飢え死ぬかもしれないんでしょ?
遠慮しなくていいから」
「ふーん…」
差し出した弁当に手を伸ばし受け取りながら…
こちらに目を合わせ、顔と顔の距離を彼女が一方的に縮めてくる。
「なに…やっぱり気に入らなかったとか?」
「何のこと?」
きょとんとした表情に変わってもそのまま変わらずこちらをじぃっと見つめてくる。
「…弁当」
「近くで匂いじっくり嗅げて見れちゃってでもっと
欲しくなってきちゃったかも」
手元に目を向けると、弁当はすでに彼女の手にしっかりと掴まれていた。
「それなら良かった」
弁当から手を離して完全に手渡し…
渡した弁当の代わりも買わなければならないしなので、公園を出るため立ち上がる。
「え…もしかして行っちゃうの!?」
いかにも名残惜しいといった感じの悲しい声で、 引き止められた…のか?
「うん、ここで弁当食って帰るつもりだったから。
悪いけどお茶までは買ってないよ」
「そこまで欲張るつもりはないけどさぁ…」
「じゃあなに?」
「…寂しい」
口をへの字に曲げてあえて目線をそらしてくる
その仕草はたとえ演技だったとしても十分可愛いらしいといえるものだった。
許されるなら是非写真に収めておきたいくらいに。
「こんな暗い公園に一人で来れるくらいなんだし、
大丈夫でしょ?」
「無理、大丈夫じゃない!」
「目の前で人が食ってるの見てても自分の腹はふく
れないし、むしろもっとお腹空いちゃうから…
そういうわけで、じゃあね」
「私をこんなところで一人にするの…!?」
「君は知らないけど俺ももともと一人だったんだ
し…変わんないでしょ?」
彼女はこちらを見つめたまま、首を横に振ってみせた後、俯いてしまった。
「二人から一人になるのは…違うものじゃない?」
声量の下がった…同情を誘われてしまうほど寂しさのこもった声を彼女はその口からこぼし、
頭髪と同じ純白の眉を八の字へ曲げ…潤みを宿し、美しく輝く赤色の瞳をこちらへ向けてきた。
「君が寂しがりだってことは十分わかったし…」
ズボンのポケットからスマホを取り出し、時刻を確認すると…現在7時2分。
買い物にはそこまで時間をかけていたつもりはなかったのだがそこそこの寄り道になってしまったらしい
辺りを見渡せば公園ということもあり、ポールライトで照らされていて明るい場所もあるにはあるが、全体的に見て言えばとても明るいだなんて言えたものではなかった。
「言ってたとおり、もう日は落ちてるっていう
のもあるとは思うけど…ここ、結構暗いよね」
「そうそう…!」
さっきまでの表情なんて無かったとでも言わんばかりに…弁当を握ったまま目をつむったまま口角をあげる変わった笑みを彼女は浮かべていた。
「じゃあ食べ終わるまででいい?」
「うん!」
ご機嫌そうな返事を聞けたので…
そのままそこに立ち止まる形で待つことにした。
弁当を食べている最中の彼女の行動は…日本で生きてきた光からすれば不可解なものであった。
鮭などの具をつまむのでなく箸を突き刺し目の前までわざわざ持ち上げ眺めたり、玉子焼きに至っては…
「これって色付きの……包帯ってやつ?
甘い匂いがするけど…」
「たまご焼きだけど…食べたことないの?」
「見たこともないよ…!
これ食べて大丈夫なの…?
たまごって何のたまご?」
「ニワトリのたまごだから食べて大丈夫だよ」
「庭の鳥…」
彼女は少しの間玉子焼きを強く睨みつけた後…
一口で頬張った。
「あまい…!」
「気に入った?」
彼女は目をつむって強く首を上下に振る、子供のような可愛らしい肯定の頷きを見せてくれたのだが…
おかずをいちいち興味深げにじっくり眺めるうえにたまご焼きすら知らなかった…
肌や頭髪の色から日本人ではないだろうと思っていたが…鮭を箸で突き刺して食べるなんて、使い方を知らない人の行動を見たことで、その疑いはほぼ確信に変わった。
…変わったところで特にどうということもないか。
野良猫の一匹、普段は気持ち悪いほど街灯にたかり集っている蛾や羽虫たちの集団も目にすることもなく…
風も吹いていることを感じさせないほど静かな…
自分とベンチに座っている彼女だけのほぼ無音状態と言えるだろう不思議な空間にいるようだった。
足踏みすれば…トン、トンと、辺りに響くおかげで、さらに大きくこだまする
「ねぇちょっとー!」
箸で弁当の透明な蓋部分を叩いて打楽器のように音を鳴らし、呼びかけてくる彼女。
「なにかあった?」
「見ててごら〜ん…?」
きれいに残さず食べ終えて容器だけになった弁当の上部分の蓋と下部分を、彼女はそれぞれ両手に片方ずつを風車のようにくるくる回しながら首を傾けこちらへ笑いかけると…
ゴミ箱のほうへ身体を向かせ、容器を掴んだ両腕を胸元に交差、軸足へ力を込め前屈立ちのよう踏み込む姿勢をとったかと思った次の瞬間…銃口より放たれた銃弾…弦の押し出した矢の如き疾速で踏み込み飛び出した。
さらに驚くべきは彼女がそのスピードを地面を何度も蹴りつけ走ることでなく、たった一歩で…まさに飛翔、低空飛行するかの如くゴミ箱との距離を縮めてみせたことだった
それより彼女はゴミ箱との距離の縮まった位置で上空へ弧を描く形で飛び上がり、ちょうどゴミ箱の真上の位置で容器を持った腕の交差を解き、両側頭部に瞬時に構えて投げ放った。
とてもゴミの放り込まれたゴミ箱から鳴るものとは感じられない轟音を、光は耳にしたのだった。
光が愕然としてしまってゴミ箱を見つめることしかできなくなっているうちに…
彼女は既にゴミ箱を飛び越え着地した後、再び強く踏み込み飛び上がり、その隣へ降り立つのだった。
「ねえねえ、どうだった?」
「……えっ?あ…あ、ああ!うん!」
「ん…?どういうこと?」
「すごかったよ…!
どこかの国の体操選手!?アクション俳優!?
あ、君だとアクション女優か…!」
「たいそう…せんし?あくしょ……
…とにかく、喜んでもらえてそうでよかったよ」
胸の前で腕を組み頷く彼女の顔には、優しい笑みが浮かんでいた。
ひとつ、確認すべき事象を忘れていた…
ゴミ箱。あの轟音を鳴らして無事か否かを確かめなければならない。場合によっては…管理者の方へ連絡しないといけなくなるかもしれないが…
駆け寄って底を覗き込むと…
…突き刺さっていた。
プラスチック製だろう二つの容器が、ステンレスかアルミか確実にはわからないが銀色に輝く金属製の底の板に、覆われた袋も貫いて突き刺さっていたのだ。
「うおお………」
再び愕然とし、目の前の状況に目を奪われてしまい…驚嘆の声を漏らすことしかできなかった。
「しっかり刺さってる?」
明るい声で呼びかけながら隣にやってきて、こちらと同じく彼女はゴミ箱を覗き込んできた。
「刺さってるよ…!
…いや、どうなってんの…!?」
ゆっくり首を動かし彼女のほうへ顔を向けると
目があった瞬間は不思議そうな表情をしていたが…
目を上向きの曲線、山なり状態にしたニコッとした笑顔を見せてくれた。
「もしかして自分でもわかってない感じ…?」
「うん、思いつき!」
ますます不思議な子だ…
肌、髪、瞳の色はとても日本人とは思えないのにありえないほど流暢に、外国人特有のアクセントも感じさせずに日本語を話せるなんて、そのうえ…
「キミってあったかいんだね」
「なんでくっついてるの…」
出会ってからずっとそうなのだが、
身体的距離がかなり近い…
初対面の相手を胴に手を回してまで抱きしめるものなのか?普通に考えればわかるだろう
絶対違う!
言葉遣いの幼さなども感じるが……
「これ、してみたかったんだ」
「これって…何ていうか知ってる?
こういうこと」
「名前があるの!?教えて教えて!」
「日本だと抱擁…いや普段は使わないか、
ハグっていうらしいよ」
「ふぅ〜ん…ハグ…ハグ…」
今度はつぶやきながら…片手の指でこちらの腹や胸のあたりをまるでピアノでも弾くかのようにしてつついたり軽く叩いたり指でくるくる円を描いたり…手あそびされてくすぐったい…
こちらからした一部の外国人に限定されるが、
日本人と比べてスキンシップが多かったり初対面での距離感が近かったりすることがあるらしい。
フレンドリー、と言ったかな?
この子に関しては…この国で生きてきた常識を求めるのは間違っていると割り切ったほうが都合が良いかもしれない。
それにこの子がからかってくてるとは…思えない。
「気になってたんだけどさ」
「ん、なに?」
「君、どこから来たの?ここに来るまではどうしてたの?」
こちらの質問を耳にした彼女は手あそびの動作を停止し、何も言わず…顔を地面のほうへ向け、俯いてしまった。
数字で数えれば数分にも満たないだろう少しの沈黙だったのだが…やけに重く苦しいもので…耐えきることができなかった。
「まずいこと聞いちゃってたら…ごめんね」
微かに肩を動かす反応をしてすぐに、彼女は顔を上げてこちらのほうを向いた。
「大丈夫!どう話そうか迷っちゃっただけだから」
「嫌だったら話さなくていいんだからね?」
外国人が島国である日本から帰国するのならやはり飛行機やクルーズ船など、なかなか手順を踏む機関を利用することになる。
そうなれば、利用経験がない以上…調べてわかること以外は教えられない
そうなると、力になれるかどうかすら怪しい。
しかし普通に考えれば自分で訪れることができるくらいなら帰国する方法なんて把握してあるだろう
過剰な心配なうえ…ここまでのものだとこの子をバカにしているともとれてしまう。
「嫌じゃないよ
キミには聞いてほしいくらいかも」
「そ、そう…?」
信用してくれていそうなのは嬉しいのだが…
彼女が常に醸し出す幼さとも感じられる独特な雰囲気が少し気にかかる。
もしや、本当は親か友人とはぐれて迷った末、偶然ここに来ただけなんじゃないか…?
「私、いろんな所を旅してきたの」
「旅?」
「うん、雪だらけの原っぱに砂の山、ドロドロの真っ赤な水の吹き出る山に、凍っちゃった海とか…綺麗な景色、たくさん見てきたんだ」
「ドロドロの赤い水…?マグマか…溶岩のこと?」
「知ってるの!?」
弁当のとき以上に、いかにも興味津々と行った感じで彼女はこちらへ食いついてくる。
先ほど教えたたまご焼きは日本特有のものだったので知らなくても不思議に感じることもなかったのだが…
マグマなんてたとえ活火山すらない国で生まれたとしても映画などの創作物、科学の教科書に題材としても用いられているだろうし…
火山の状態の変化。すなわち噴火など、災害となりうる危険性を孕むものはどこの国のニュースでも重点的に報道されるはずの重要な情報だ。
そんなものさえ知らないだなんてさすがにおかしい気が…
「作られる仕組みとかの…細かく詳しいことはわか
らないけど、大体なら」
「うん!教えて!」
「溶岩を吹き出すのが火山で、たしか火山から吹き
出る前のドロドロがマグマだったかな
俺が合ってれば…君が見たのはたぶん溶岩だね」
「ようがん…?」
「そう。でも…溶岩が見えるところまで行って君は
なんともなかったの…?」
「うん、なんともなかったよ」
なんともない…?
そんなことがあり得るのだろうか…どんなところで生まれたとしても生物は生物。
生物であれば体温があり、気温の変化が発生すれば熱いとも寒いとも感じるはず…
ましてや噴火している火山の周囲とあれば、熱くないわけがないのに…
顔と髪にばかり目が行ってしまい気にも留めていなかったのだが…
彼女の服装や所持物の中からなら、なにか判断材料となるものが見つかるはず。
目を輝かせたままこちらと目を合わせたままの彼女
の視線から目線を外し、首から下を眺めるとまず目についたのが、頬と同じく白く柔らかそうな肌の…首元あたりを取り囲む襟だった。左右両面についた周囲の僅かな灯りを反射し眩しく輝く銀色の二つのボタン。それとボタンとは対照的に微かに黒光りする生地…
部位の特徴から見てとれる分にはかなり特殊な服装のように思える…全体を把握できるよう三歩ほど後ずさりし、目に映ったのは…
「革ジャン…!?」
「かわじゃん?なにそれ?」
「君が着てる黒いやつだよ、まさか…知らないで着てたの?」
「うん!どう?似合ってるかなぁ…?」
腕を伸ばしたり肩を回したり袖を引っ張ったり後、彼女は自信満々と言わんばかりの歯を見せた笑顔を見せながら…襟を掴んでひらつかせている。
恐らく…こちらにリアクションを求めてきているのだろう。
「似合ってるし、君だったら何着ても似合うんじゃ
ない?」
「そう…?そうかなぁ!じゃあ下はどう!?」
返事は喜んでくれている様子で良かったのだが…
下…?まさかこの子、ここで下着でも見せようとしているのでは…?
他の数多ある万が一を考慮し、とりあえず彼女から視線ごと顔を逸らす。
下品に下劣に下心、下という言葉に良いイメージが無い。そのうえそういった視線を女性に向けるなんてはばかられて然るべき行為。
ならば彼女へ送るべき…返答は一つ。
「そういうのは女性にお願いしたほうがいいと思う
な…っていうより、そうするべき!」
「え!?ちょっと待ってそれ困るよ!」
「なんで!?異性に見られたほうが恥ずかしいもんでしょそういうの!それに性犯罪者には絶対なりたくないから…大半の人はみんなね!」
「どうしても見たくないってこと…?」
「そういうことじゃなくって…!」
彼女の声色が悲しそうなものへ変わってしまったので慌てて振り向き手を振ってまで否定してしまった。
「じゃあ見てくれる?」
「うん…どこを見ればいい…?」
「ここここー!」
下半身の…太ももあたりだろうか
彼女は"パンパン"と両手で叩いて音を鳴らしている
後ろめたさと疑いの残るまま…すぐに目を逸らせるようゆっくりと彼女のほうへ視線を向ける。
すぐに彼女の示す箇所を視界に入れるのには流石にリスクが大きいだろう…
まず彼女の顔を視界に入れると…
「ん?」
真っ先に入ってきたのはきょとんとした感じの不思議そうな表情。
「えへへ…キミ、私の顔見すぎだよ」
恥ずかしそうに笑うと頬を赤くした照れくさそうな笑顔を見せてくれた。
「あ、いやごめん…!ついつい…」
飽きることなく再び見惚れるほど美しいうえ、表情も豊かで愛らしい…
もし声をかけられ指摘を受けることさえなければ時間すら忘れて見続けてしまいそうだ。
「謝らなくていいよ、嫌じゃないし
むしろ嬉しいくらいかも」
「そ、そう…?」
「うん!でも今は…こっちのほうが見てほしいかな」
腰より下のほうを人差し指で指さし促してくる。
「…わかった」
思い切って首まで曲げて彼女の腰より下辺りへ視線を向けて視界へ入れると目に入ったのは…
青みがかった…ジーンズらしき生地にいくつかのまるで傷跡のような裂け目、そこにかかるまとまった何本かの白い糸、もしくは外側に向けてはねた白い糸。
そしてそれらより強く目を惹かれたのは…
裂け目から覗く美しく白い肌。太ももの位置はまるで意図したかのようにわざとらしく大きく裂け…膝にあたっては両方が丸々見えるようになってしまっている
名前はたしか…ダメージジーンズ。
こういう表現をするのは気が引けるが…こんなものを女性が着るなんて一言で言い表して破廉恥。
男ならもちろんのこと…こんな服を着るような女性はきっとほとんど遊び回っているような比較的品のない方々に違いない。
「その…いろいろ聞きたいことがあるんだけど」
「うん!何でも聞いてよ!」
自信満々と言った感じで右手で胸を軽く叩く彼女。
「憧れてるミュージシャンとかいたりする…?」
「みゅーじしゃん…?しらないなぁ…」
「じゃあ拳法家?」
「けんぽう…?ごめん…わかんない…」
「じゃあその服って…
誰かに選んでもらったとか…?」
「着たいのを選んだよ?」
誰かに憧れたり真似したわけでもなく自分の好みで選んで着てる…?
なんて…不思議なセンス…
物珍しさで買ったものだったとしても、もう少し可愛らしいものを着てほしかった。
あのような今どきの漫画でもなかなか見かけない格好、中学生でもギリギリ憧れるかどうか怪しいほどのものなのに…
「どう?変じゃない?上のこれと合ってるか気にな
ってたんだよね」
そんな質問…普通だったら変だとしか答えられない…
しかし、この子の感性や好みで選んだものをダサいだとかそういった言葉で否定するのは違う気がする…
それにこの子の場合…顔の方にこちらの目が惹かれてしまうわけなので、顔さえ隠れていなければはっきり言うと文句なんてないのだが…
「とりあえず、破けてないやつのほうがいいんじゃ
ないかな!それだと冷えちゃうでしょ」
「あ…たしかに
でもさ、これ面白いんだよ〜」
「そうなの…?」
ダメージジーンズの特徴なんて強いて言うなら…肌の露出が多いくらいじゃないか?
「来て来て〜!」
彼女はこちらの腕を引っ張ってベンチの方へ走って、そのままこちらと隣り合わせに座る形まで持っていった。
「ここ、触ってみて」
そう言って、彼女は自身の履いているダメージジーンズの太ももの大きく裂けて…肌の露出している部分を指差してくる…
「柔らかくって面白いんだ!」
裂け目部分から露出した太ももを自分で触って感触に対する感想を伝えてくれている。
「それは……良かったね」
「だからキミも」
彼女はこちらの手を掴んでまで自身を触るよう引っ張っててくる。
「いやちょっと待って!」
「何かあったの?」
「あるよ!…そんな簡単に自分の肌触らせちゃダメなんじゃない…!?」
さすがにこの子が痴漢へ誘導をしてるだなんて思いたくないが…そうでないとしても触りたくはない!
すでに騙しているような気がしていて罪悪感が残るに違いないからだ…!
「いいんだよ〜減るもんじゃないし」
「…そんなに触ってほしいの?」
「うん!」
ここまで頼まれて断るのも申し訳ない気がする…
仕方ない!
「…わかった」
彼女は頷き、こちらの腕を掴んでいた手を離した
自由になった腕を伸ばす…その前に。
「ちょっと待っててね」
ポケットへ突っ込んでおいたビニール袋を取り出し、バサバサと音がたつほど降ると…
袋の内よりもう一つ、白い梱包物が飛び出した。
「やっば…!振りすぎた!」
前方へ飛んでいった梱包物へ向かうため立ち上がろうとしたのだが…
「よっ!」
彼女がこちらよりも速く、持ち前の跳躍力で飛び上がり梱包物を地につくよりも前に掴み取ることに成功し、地に降り立ってすぐに再びベンチへ腰掛けた。
「やっぱすごい…!」
自信満々な笑顔を浮かべ、軽く握った拳をくいくいと招き猫と反対になる形の…変わったガッツポーズを披露した。
「ところで…これって食べていいやつ?」
「それはダメ、消化できないし不味いよ」
「そっかぁ…残念…」
両手で持った梱包物を見つめたまま…彼女は眉を八の字にして肩まで落として、しょぼくれた表情を浮かべている。
「ごめん、食べ物はさっきの弁当しか持ってなくっ
てさ」
ビニール袋の持ち手部分を下に向け…落ちて出てくる物がないことを確認してもらう。
「あんなにたくさん貰っておいてまだ貰おうなんて、そこまで贅沢言えないよ!」
前に出した手を振り、彼女は自分の欲を否定した。
「それよりこれって、何に使うの?」
「ウエットティッシュって言ってね、手を拭くときに使うんだ」
梱包していた袋を破き中身の湿気を持ったティッシュを取り出し、左手から、指の末端部分に重きを置いて拭きはじめる。
「ねえ」
右手の小指を吹き終えようとしたその時、彼女はこちらの肩へそっと手を置いてきた。
「ん?」
指から彼女のほうへ目線を移すと先程までとは雰囲気の異なった…少し深刻そうな表情へ変わっていた。
「キミの名前、聞いてもいい?」
「ああ、そういえば言ってなかったね」
「名前だけでいいからさ、お願い!」
「名字はいらないの?」
彼女はこちらを見つめたまま深く頷いた。
「光って名前なんだ、俺」
「ひかり…!?」
衝撃を受けたらしく…口を開けたままの驚いた表情
で彼女は硬直した。
「…そこまで変な名前じゃないと思うんだけどな」
「変ってわけじゃないよ!その、ただ…」
彼女は顔を下に向け口元に手を添えながら小さく唸る…
「大丈夫?さっきからちょっと変だよ…?」
そんな余裕はないと思ったため、手を拭いたウエットティッシュをそのままビニール袋の入ったポケットに突っ込む。
「ごめん…ちょっと驚いちゃって」
彼女は顔を上げて、眉を八の字にしたままこちらへ優しく微笑みかけた。
「…ひかりくんで、間違いないんだよね?」
「自分の名前は間違えないよ。大切だし…まぁ、気
にいってないわけじゃないし」
「そっか…いい名前だよね。ひかりくん、私も好きかも」
彼女はベンチからゆっくりと立ち上がり、膝を曲げてこちらの目の前へ屈み…さっきよりも明る可愛らしい笑顔を見せてくれた。
「じゃあ今度は俺に教えてよ、君の名前」
「私の名前…?」
こちらの言葉を聞くと…彼女は膝を曲げるのをやめて直立した。
「そう、君の名前!」
「私の名前ね、ないんだ」
「ナインダちゃん?」
日本人ではなさそうだとは思っていたので、そこまで驚くことはなかった。肌や髪色からして…
ちょっと待て…!髪も肌も綺麗に白い人種がいるだなんて……聞いたことも、なかったな…
「そうじゃなくて、無いの」
「ナイノちゃん…?」
「名前は貰ってないの、お母さんから」
「じゃあ……名前持ってないの?」
「そう」
さも当たり前のことであるかのように、表情を変えることもなく…彼女はこちらの言葉に頷いた。
名前を貰っていない…?たしかに…お母さん、親の存在は自分で口にしたのに…
「それよりさ、見てほしいものもあるんだ!」
「いやちょっと待ってよ!君、いろいろ大丈夫なの
!?家族とか、友達は?いっしょに来た人とかい
ないの!?帰れる!?」
「心配してくれてありがとう、私は平気だからさ
一旦落ちついて?」
「…ごめん」
つい…熱くなってしまった。
「私にも帰れる所はあるから、安心してね」
「それはよかったけど…こんな暗いところにいつまでもいたら危ないでしょ?えっと…ほら」
ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出し操作して、ニュース記事…あの連続刺殺事件の記事を表示、彼女に画面に指を向けて見るよう促す。
「ん、これなに?」
「最近起こってる事件だよ。犯人の姿もわからないしどこにいるかの予測もついてないんだ」
「あ……」
彼女は目を丸くし、焦りや恐怖のためか…顔色を一気に青みがからせた。
「怖いでしょ?だからこんな暗い所にいないで明る
い方とか屋内にさ、行っとこうよ」
「うん、その前にひとつ…お願いしていい?」
「いいけど…」
お願い?さっきのウエットティッシュのこともあったし…まさか今度は奢れとか言い出すんじゃないだろうな。
「…ちゃんと見ててね」
そう言って彼女は後退り…こちらから距離をとったのち両腕を前へ伸ばし、手のひらを合わせ蕾のような形にしてそのまま胸の前に寄せる。
手のひらは合わせたまま右手を上、左を下、両の掌底の部分から指がはみ出す形をとり…そのまま右手を上にして傾けた。
「まだ目を離さないで」
「うん」
彼女がこちらへ優しく微笑みかけたのに頷き、再び両手のほうへ視線を向ける。
目を閉じてゆっくり深呼吸した彼女は合わせた手のひらどうしを離し始めたのだが…
「ん…!?」
開かれた手のひらどうしの隙間には確かに白色の物体が出現し…こちらに一部のみ、姿を覗かせていた
のだ。手品でも見せられている気分だった
待てよ…奇抜な服装にかなりの身体能力…目を引く髪色、美しい容姿…特徴から考えると…この子、本当は手品師なんじゃないか…?
それからも彼女は手のひらどうしの距離を広げ続け、ついにその物体は全貌を露わにした。
色は白く、まるで樹木のような歪みを孕んだフォルム。もう一つ目を引く点は彼女の右手側、こちらから見て上の方には黒い水晶のような球体をはめ込まれている杖のような形状だった。
本当に手品師だったとしたならまさにお似合いと言える小道具だろう。
加えてどんな仕掛けなのか…彼女の手から離れたはずの物体は地に落ちることなく、両手のひらの間に浮遊している状態にあった。
彼女が左手のひらを空へ向けると、それへ引かれるように物体は黒い球体を空へ向ける形で直立する。
「これ…見えてる?」
彼女は浮遊していた物体を右手に掴み、胸の前まで近づけた。
「うん、見えてるけど…どういう仕掛けなの…?」
見えないほど透明なヒモが仕掛けてあるなら、切る際に何か動作がありそうなものだが…左手は右手で物体を掴んだときとほぼ同時に下げてしまっていたのだ。それらしき動作なんて見当たらなかった。
「仕掛け?そんなのないよ」
「あ…!まぁ、タダで見せてくれた手品に種と仕掛けを聞くなんて…失礼だったかな?」
「失礼?そんなことなかったけど」
きょとんとした表情を浮かべ不思議そうに小さく首を傾けながらも、彼女はこちらへ歩み寄ってきた。
「じゃあこれ、持ってみて」
彼女は両手に物体を乗せるように置いてこちらへ差し出してきた。それに応じるため、中心あたりを手で掴み、彼女から受け取る。
「おお…」
感触は見た目通り歪んでへこみを感じるもので硬さも感じるが、不思議と樹木とは異なり、手触りにザラつきは感じられない。加えて球体の反対側、恐らく末端部分になるにつれ鋭くなっていく刃のような形状となっていた。加えて重さもなかなかのもので、これをおもちゃだと小さな子供に渡すのには気が引けるくらい、危険性を感じられるものだった。
「これすごい…!かっこいいね!形は変わってるけど、何に使うものなの?」
「それは知らないほうがいいかも」
「そうかぁ…手のひらから取り出したもんね」
確かに…見た目からも若干の予測できる通り、仕組みは身体を張ったショッキングなものなのかもしれない。
「大丈夫?触っててもなんともない?」
「うん、なんともないけど…もしかしてスイッチとか仕掛けてあったりする!?」
「スイッチ…?」
「あ〜…ほら!そこを押せばどこかが動き出して…なんか出てきたりする感じのやつ!」
「つけて〜…ない!」
不自然に伸ばした…?
怪しく感じたので、右手に物体を持ったまま持ち上げ、鋭い末端部分からじっくりと眺め回していく。
「ほんとにつけてないんだけど…」
こちらが物体を眺める様を見て困り顔で彼女は呟いた
。
「あるのはスイッチじゃないんでしょ…!?」
手品の仕掛けなんて一つも知らない…だからこそこれにどんなものが仕込まれているのかにますます興味が湧いてくる。
「ふふ、どうかな」
小さく笑ったのち彼女はこちらの顔を覗き込んでくる。その際、彼女の口をu字にしたいたずらっぽいにやけ顔が目に入った。
「どこだ〜?」
どれだけ眺め回そうとも特に目立つような点は目につかない。それに…このステッキのようなものが一体何なのかすらも全く推測すらできなかった。
「ごめん、何だか全然わかんないや」
「まぁ、そうだろうね」
彼女のほうへ顔を向ければまるでこちらをなめたような視線を向けたその表情が視界に入る。
「やっぱり…ただの小道具?」
ステッキのようなものを持っている右手を横の方へ下ろすと、腰に左手を当てつつ直立に背筋を伸ばした。
「どうだろう?わかるかもしれないよ」
彼女はこちらに背を向け後ろ手を組み、何歩か歩いていく。彼女が踏みつける枯れた葉たちが落ち着きなく、乾いた音を立てる。
「本当?」
尋ねた言葉に振り返った彼女の澄んで透き通ってしまいそうな白い髪を、影の暗闇をつくる木々たちを、吹いてゆく冷たい風が揺らした。
「君になら」
こちらへ振り返り、顔で口角を吊り上げている彼女の赤色の瞳が…白い肌とまぶたの間より見開かれ、いやに眩しく輝きを走らせた。
「…そう」
まるでこちらのことを特別な者かのように呼ぶ彼女の言葉に照れくさくなり、手にしていたステッキに視線を移す。
「あ、あれ…?」
その時目にしたのは、白い棒状はどこかへ消えており…彼女の眼と同じ赤色の結晶だけが手のひらでこちらを見つめていた。
「もしかして、これが手品…!?」
手品の仕掛けなんて詳しくはない、だけどこの世にはさまざまな性質を持つ物質が存在していることくらいはわかる…自分の理解が及ばぬほど広く多様な変化に反応。そのどれかを利用しなくてはこんな現象は生み出せないだろう。
「あ、あぁ…!」
彼女に手のひらの結晶を見せると、彼女は結晶と同じ赤色の瞳を丸く小さくする…驚いているようにも見えるうえ喜びさえ感じさせるような輝かしく、眩しいほどの明るさを持った表情をこちらに向けていた。
「これからはどうなるの?」
「やっぱり…!」
「え?」
聴き取りにくいほど小さな声でなにか呟いた彼女は両手を拳として握り締め、顔を地面に向けて震えている…手品が上手くいったことがよほど嬉しかったのだろうか?
「う、うおっ…!?」
突如にして突然の衝撃だった。彼女に向けていた手のひらより…強く赤色の光が放たれた。それに驚き、防ぐための左手で目元を覆う。
「あたりだぁ…!」
赤色の光によって真っ赤に照らされた真っ白な肌の彼女の表情は喜びに満ちており…その声はまるで胸の奥より溢れてきたかのように、震えたか細い声であった
。
「ど、どうなってんの…!?」
驚いた声を上げたのもつかの間の直後…立ちくらみのような感覚が脳みそにやってきた。
「うおぉ…なんだ……」
ふらついた足取りでなんとか直立しようとしたが、まるで地面に引き寄せられるかのように力なくへたりこんでしまう。
「…どこ…?」
視界はいまだ赤い光で覆われているのに手のひらへ視線をやってもそこには赤の玉はなかった。しかし重くなっていく首で俯いた先…まさに胸のど真ん中で、赤の玉は発光を続けていた。
「…これ…まず……い…」
視界がまぶたの裏に覆われて真っ黒になって、胸の光る赤い玉のことも、なにもかも考えられなくなるまでの過程には…俺は白い肌の彼女のことは一切、思考の内に置いてはいなかった。
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