解けなかった心
薄井氷(旧名:雨野愁也)
第1話
目的の部屋を目指して、俺は廊下を進んでいく。真っ白な天井と壁、よく磨かれた床は清潔感があり、いかにも病院という感じだ。キュッキュッという靴の音が、人の少ない空間に響く。途中で看護師とすれ違い、軽く会釈をする。
「あら、今日もお見舞い?」
「はい。兄の様子はどうですか?」
「
「ははっ、ならいいんですけどね」
その後も少し雑談をした後、看護師と別れ、俺は目的地に辿り着いた。一つ深呼吸をして、笑顔を貼り付けてから、病室のドアを開ける。
「兄さん、来たよ。調子はどう?」
病室の主——俺の兄、
「おお、翼。今日も来てくれたのか。ご苦労なことだな。お前、学校忙しいんだろ? 無理して来なくてもいいんだぞ?」
「兄さんに会いたいから来てるんだよ。無理なんかしてないって」
「そうか、それならいいんだけどな。……ところで、お前の持ってきてくれたこの漫画、すげえ面白えぞ。おかげで退屈しないで済んでる。ありがとな」
「そっか。気に入ってくれたなら良かった」
俺はにっこりと微笑んだ。きちんと目尻を下げ、口角を上げる。不自然な笑みにならないように、それでいて演技くさくならないように、細心の注意を払った。そして、ゆっくりとベッドに近寄り、手にしている花束を差し出した。兄は少し目を丸くしてから、照れたような笑みを浮かべた。
「これ、お前が買ってきてくれたのか?」
「うん。ちょっと彩りがあったほうがいいかなと思って。ほら、この部屋、殺風景でしょ?」
「そうだな。俺、花の種類とか分かんねえけど、綺麗だな。ありがとよ」
「どういたしまして。ちなみに、この花はトルコキキョウ。これはカスミソウで、こっちはガーベラだよ」
「へえー。お前、詳しいんだな。じゃ、そこのテーブルの上に置いてくれるか?」
「分かった」
俺は兄に言われた通りの場所に花束を置いた。ふと壁に目をやると、昨日まではなかった色とりどりの千羽鶴が目に入った。
「これ、どうしたの?」
「ああ、高校の時のダチが持ってきたんだ。そんなに気を遣わなくてもいいのにな」
兄の口もとに、笑い皺が浮かぶ。前よりも頬がこけたように見えた。着ている薄緑色のパジャマの袖口から覗く腕も、細くなって血管が際立つようになった気がする。自然と眉間に皺が寄った。それに気づいたのか、兄が声をかけてきた。
「どーした、翼。そんな深刻な顔して」
「あ……兄さん、具合はどう? 辛くない?」
「平気だよ。あ、でも、今日の検査はキツかったな。気管に内視鏡突っ込まれてさ。すげえむせた」
「そっか……何もしてあげられなくて、ごめんね」
俺は目を伏せ、ため息混じりに呟く。すると、兄が俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「に、兄さん。どうしたの?」
「お前、ホントにいい奴だな。こんなに心配してくれる弟を持って、俺は幸せ者だよ。……だけど、お前の方こそ、やっぱりなんか疲れてないか?」
「え?」
予想外の一言を言われ、俺は思わず間の抜けた声を上げてしまった。しかし、すぐに困ったような笑みを浮かべてみせる。
「何言ってるの、兄さん。僕は元気だよ。毎日ぐっすり寝てるし。兄さんこそ、痩せたんじゃない?」
「だから、俺は平気だって言ってるだろ。俺はお前が……っ」
そこまで言うと、兄は突然激しく咳き込み始めた。
「兄さん!」
俺は急いでナースコールを押そうとした。しかし、その手を兄が掴んで止めた。
「何するの、兄さん! 早く誰か呼ばなきゃ……」
「ゲホッ、ゴホッ……大丈夫だっつうの。これ、ぐらい、いつものこと、だから」
「でも!」
「……もうちょい、お前と、話してたいんだよ」
兄の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。懇願するようなその目に、俺は気圧されてしまった。仕方なく、ナースコールを押すのを諦め、兄の背中をさすった。しばらくして兄の咳は治まったが、ヒューヒューという喘鳴がまだ聞こえていた。兄は肩で息をしながらも、話し続けようとする。
「……お前さ、絶対なんか我慢してんだろ。あんまり自分に嘘つかねえ方がいいぞ」
「そんなことしてないって」
「……」
兄は、しばらく無言で俺を見つめた。気まずくなり、俺は目をそらした。点滴の落ちる音だけが聞こえる。
やがて喘鳴も治まり、兄はゆっくり深呼吸をした。
「兄さん、落ち着いた?」
「ああ。もう平気だ。……なんか、悪かったな。問い詰めるようなことしちまって」
「ううん。兄さんに心配してもらえて、嬉しいよ。でも、僕は本当に大丈夫だから。兄さんは病気を治すことに集中して」
「……おう。早く元気になって、親父とお袋を安心させねえとな」
「その意気だよ。僕もなるべくお見舞いに来るようにするから」
「はは、ありがとな」
兄は微笑んだが、顔色が良くない。やはりあまり病状は好ましくないようだ。素人目に見ても分かる。
結局、その後は少し雑談をしてから、俺は家に帰った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます