第17話 メール
大介にメールが届いた。送り手の名前はリリーLOVE。タイトルは、「バレンタインの思い出」
近藤ゆりかに違いない。柔らかそうな桃色の頬を赤くして、お話ししてもらっていいですか? と言った時を思い出すと、ドキドキした。だが、柿沼と付き合ってるやつのメールなんか見たいと思ってるのか、俺は?
大介は迷ったが、好奇心が勝った。
「今晩、午前二時に、正門までひとりで来て下さい。お話があります」
なんだ、これは? たちの悪いいたずらか?
大介は首をひねった。昴は、この手のジョークはやらない。ナオシもだ。やるとしたら弘毅! あの野郎、家出中だそうだが、どうやってか、大介のメールアドレスを知ったのだ。俺がのこのこと正門に出て行ったら、腹を抱えて笑い転げるつもりだろう。
その手には乗らない。大介は断固としてメールを削除しようとした。だが。添付ファイルがついている。せっかくの苦心のブラックジョークだ。見てやろうじゃないか。
大介は、もう少しで悲鳴をあげるところだった。
画面いっぱいに、自然石の大きな黒い碑が現れた。中央に、「霊」の一字。
大介は、夢からさめたように、茫然とその碑を見つめていた。
午前一時四十五分。
仕掛けておいた目覚まし時計が鳴り出す前に、大介はスイッチを止めた。パジャマの上にトレーナーを着て靴下をはき、スニーカーを手にぶら下げて、こっそりと部屋を忍び出た。寝静まった廊下を抜けて、エレベーターへ向かう。
馬鹿だな、俺。
あんなメール、開けなきゃ良かった。
忘れていたのだ。サンクスギビング協定。
よくできた怪談話、忍び笑いとともに物陰で囁かれる伝説のはずだった。
それが、いきなり目の前に、真っ黒な姿を現した。
怖かった。
これがお前の墓だよ、と突きつけられた気がした。
恐怖と共に、疑いもよみがえってきた。
本当に?
本当に、サンクスギビング協定は、ただの都市伝説なんだろうか。
俺は本当に、来月、フランスへ行けるんだろうか。
あのメールを寄こしたのが誰であれ、そいつに会うんだ。なんのつもりだと、問い質してやる。
宿舎を出て、渡り廊下でつながった教室棟に入る。大介の足が止まった。
薄ぼんやりとした常夜灯に照らされた廊下には、音楽練習室が並んでいる。その真ん中へんの一室のドアが開いて、一条の明るい光がこぼれている。
それだけじゃない。
ピアノが。
誰かがピアノで、「別れのワルツ」を弾いている!
大介は、凍りついたように突っ立っていた。
ピアニストになりそこねて、ローストになってしまった留学生。
嘘だ。音楽留学生の誰かが、夜中に練習をしている。それだけだ。
そっと通りすぎればいい。ピアノを弾いてるんだから、気がつきゃしない。
大介は前に進んだ。
細く開いたドアの前。
隙間から、流れるようなピアノの音が押し寄せてくる。
悲しく、美しく、恨みを含んだように、すすり泣くように…。
誰が弾いているんだろう。
ちょっと覗いてみるか。
大介は隙間に片目をあててみた。
黒いグランドピアノが見える。
もうちょっとの所で、演奏者の姿は見えない。
誰も弾いてなかったりしてね。
ピアノはコーダに入る。同じ旋律を繰り返し、
演奏が終わる。
余韻を残して、最後の和音が遠ざかっていく。
静寂。
カタン、と軽い音。
椅子を後ろに引きずるような、フロアを木がこするかすかな音。
そして、軽い足音が、ゆっくりと、こちらに向かって近づいてくる。
大介は、わけのわからない恐怖に襲われた。
逃げよう。
あの足音がドアのところまでやってくる前に。
廊下に出てくる前に。
俺を見つける前に。
逃げろ。
地面に張り付いたような足に、懸命に号令をかける。
逃げろ、逃げろ。
足音が止まる。
キイ、と金属のきしむ音と共に、ドアが大きく開かれた。
いきなり非常ベルが鳴りだした。
明かりがつく。
バタン、バタンとあちこちでドアの開く音。
バタバタと廊下を駆ける音。叫び声。
遠くから近づいてくるサイレンの音を聞きながら、大介はものも言えずに、煌々とあかりのついた廊下に立ち尽くしていた。
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