第12話 組織
「演説の最後の一節を教えて下さい」
大島に教わったこの言葉を言うと、電話の相手方は一瞬沈黙し、次いで、矢継ぎ早に質問を繰り出してきた。名前は? 今、どこにいるのか? ひとりか? 誰からこの番号を聞いたのか? 弘毅が答えると、若い女の声は、その場をすぐに離れて、どこそこの駅へ行き、そこの公衆電話から再び電話するようにと、指示を出して切れた。弘毅がその通りにすると、同じ声が、電車に乗って三つ先の駅まで行き、そこからまた電話しろ、と事務的に告げる。指示通りにすると、同じ声で再び別の指示。そうやって、三時間近くの間、駅と繁華街をぐるぐるとまわらされた。からかわれているのじゃないかとも思ったが、相手の女の声は真剣そのものだ。
弘毅が一度だけ抵抗したのは、スマホを電話ボックスに置き捨てていけ、と言われた時だ。なぜ? と言い返すと、女の声は「追跡を撒くためよ」とぶっきら棒に答えた。弘毅が言い返そうとすると、「質問はあと」とぴしゃりと言って電話を切った。腹が立ったが、指示の通り、スマホを置いてその場を離れた。ようやく、声の相手と接触できたのは、ターミナルビルの地下街、デートの待ち合わせ場所によく使われるライオン像のそばだった。
「ついてきてください」
聞き慣れた声の主は顎をしゃくって方角を示すと、さっさと歩き出した。弘毅より、少し年上に見える。大学生くらいか。長いまつげの下で、潤んだような大きな瞳が魅力的だ。スタイルもいい。長い脚に細身のジーンズがよく似合っている。肩にショルダーバッグをひっかけ、さっそうと大またで歩いた。弘毅が話しかけようとすると、「質問はあと」と、にべもなかった。そのまま、無言でつれていかれた先は、地下街の中にある美容室だった。
閉店の札が下がっていたが、女は構わずドアを開け、入るように促した。ソファにすわって雑誌を読んでいた女が、顔を上げた。
「この子よ」
四十代くらいのその女は、じろじろと弘毅を眺め、やがて、にやっと笑った。気持ちのいい笑いではなかった。こちらへ、と言われて奥へ案内された。シャンプー台にすわるように言われて初めて、弘毅は声を出した。もう、これ以上がまんできなかった。
「ちょっと待てよ。あんたら、誰なんだよ」
「電話してきたのは、あんたの方じゃないの?」
若い女が言った。
「説明ぐらいしてくれよ」
「言ったでしょ。質問はあと。あんた、指名手配も同然なのよ。尾行がついてないことは確認したけど、誰か知り合いに偶然会うってこともある。イヤなら帰って。あんたの電話はなかったことにする」
三時間後、鏡の中に、見知らぬ男が出現した。短く切られた髪は、濃い金色に染められ、ツンツンと角立ち、ムースで固められている。実の親が見ても、わが息子とは思うまい。その方がいい。これが父親にばれたら、と思うと、弘毅は笑えなかった。「勘当」という言葉がちらちらと金色頭の中にちらつく。古い言葉だ。だが、父親は古い人間だった。女二人は満足そうだ。「結構、似合うわよ」と無責任なことを言う。
美容室を出た後、若い女は弘毅を、私鉄沿線の駅前にある、こじんまりとした喫茶店に連れて行った。「カフェ・ロマーノ」と看板が出ている。ドアにはCLOSEDの札が下がっていたが、女は気にする様子もなく、ドアを開けた。ステンドグラスの照明に照らされた薄暗い店内に、コーヒーのいい香りが漂っている。カウンターの中にいた中年の男が、いらっしゃい、と声をかけた。
「ここのマスターよ。沢井さん。あたしは、北川於蝶」
若い女が初めて名乗った。
「沢井蟷螂といいます。コーヒーでよろしいですか?」
沢井は、白地に青の小花模様のカップを取り出すと、熱いコーヒーを注いだ。大きな骨ばった手が、華奢な陶器を扱って器用に動いた。揃いの受け皿に載せると、スプーンを添えて差し出した。於蝶と名乗った女はコーヒーを辞退して帰り、二人だけだった。
弘毅はカウンターにすわって、コーヒーを口に含んだ。うまいコーヒーだった。やっと、人心地がついた気がした。沢井は、そんな弘毅の様子を、微笑を含んだ目で眺めていた。
「落ち着きましたか?」
「はい。あの、ここはどういう…」
「それを説明する前に、わかっていただきたいことがあります。サンクスギビング協定に反対している組織は、世界中に大小、無数にあります。だが、どこもたいした成果はあげていない。わたしたちの組織も、それは同じです」
「なぜ?」
「第一に、どれも非合法組織です。おおっぴらに活動できない。第二に、一般の人々に必ずしも歓迎されていない。第三に、横の連帯が皆無だ」
「どうして非合法なんですか。子供を人身御供にする協定こそ…」
弘毅の言葉を、沢井は途中でさえぎった。
「合法なんです。サンクスギビング協定は法によって守られており、協定に反対する活動は禁じられている。我々の活動は、非合法です」
「よくわかりません」
「いいですか。よく誤解されますが、法とモラルとは、実は同じものではない。モラル的に問題の無い行為が、法によって違法とされている例はたくさんあります。たとえば、この国で車が道路の右側を走れば違法ですが、これは、法でそう決めたからに過ぎない。車にとっては実は右でも左でも、どちらでもいいんです。現にアメリカでは、右側を走っている。この反対に、モラル的には悪とされながら、違法ではない行為もある。身近な例では、浮気です。違法とされた時代もありますが、今では、道義的非難は受けても法的に訴追されることはない。もっと極端な例は、戦争による殺人行為です。人を機関銃で撃ち殺しても、非難されるどころか、勲章をもらえる。サンクスギビング協定も、この一例です。人身御供は悪だと、誰もが感じながら、適法だと認めている」
「なぜ?」
「ひとつには、慣れです。当初は激しい反対もあったが、既に八十年を経過した。生まれた時から、世の中とはそういうものだと思っている人が、人口の半分以上を占めています。もう一つは、ゴルゴン人への恐怖です。さわらぬ神に祟りなし。協定を守ってさえいれば、彼らはおとなしくしている。それどころか、癒しを与えてくれる。協定を破棄すれば、どんな災いが起こるかしれない。癒しの力とは、つまり人間の身体を思うままに改変する力です。その力を、癒しではなく、逆方向に使われたらどうなりますか? ホモ・サピエンス自体が、滅亡するかもしれない。そんな危険はおかしたくない。仮に、全人口の一パーセントを差し出したところで、残りの九十九パーセントが幸福に暮らせるなら、その方が良いだろうということです。最大多数の最大幸福というのは、民主主義の基本ですからね。さっき、一般の人々は、反対運動を歓迎していない、と言ったでしょう。子供が十六歳になった大人は、皆、ほっと胸をなでおろすんです。自分はもちろん、子供についても、もう心配はいらない。次に心配するとすれば、年少の姪や甥、ずっと後になって孫となりますが、それだって、犠牲に選ばれる確率は高くない。君の中学の生徒数が大体五百人くらいだとして、そこから一人が選ばれるとする。確率は毎年、五百分の一。約〇・二パーセント。選ばれた一人は気の毒だが、あとの四百九十九人は、無事に生きていける。昔からよくある考え方です。多少の犠牲は出ても、得られる利益が大きいならば…」
「やめろ!」
弘毅はどなった。
「もう聞きたくない!」
「やめましょう。わたしももう、話したくない。ただ、わたしたちの組織についてだけ、お話しさせて下さい。わたしたちは、サンクスギビング協定はまちがっている、と思っている。この協定をつぶすために働くことを誓った者の集まりです。カトー同盟と名乗っています。もし、君が仲間に加わってくれれば、大いに歓迎します。もし、辞退されるなら、ここで聞いたことは一切口外しないと誓っていただく。それからご自由にお帰り下さい。ただし、サンクスギビング協定のことは、忘れるように忠告しておきます。奉仕局は、この協定を守るためなら、いくらでも無慈悲になれる」
「加盟します」
弘毅は、一瞬のためらいもなく答えた。
「先ほど説明したように、非常に分の悪い戦いです。非合法で、誰にも感謝されず、金にもならず、勲章ももらえない。ただ、自己の良心に恥じないだけという、まあ、言ってみれば自己満足の戦いだ」
「かまいません。サンクスギビング協定はゆるせない」
沢井が差し出した手を、弘毅は握った。沢井は、少し照れくさそうな顔をして、コーヒーをもう一杯、どうかと聞いた。
「カトー同盟というのは、どういう意味なんですか? かとうさんという人が、始めたんですか?」
沢井は、コーヒーを温めたカップに注いでいた。
「カトーというのは、ローマ共和政時代の政治家の名前です。マルカス・ポキウス・カトー。カルタゴに対して、強攻策を主張し続けたことで知られている。カルタゴは御存知ですか?」
「いいえ」
「当時、北アフリカの地中海沿岸にあった、フェニキア人の商業国家です。貿易、工芸、軍事にすぐれ、非常に裕福で繁栄した国家でした。対岸のローマはちょうど勃興期にあり、地中海の覇権をめぐってカルタゴと争った。何より、カルタゴは、ギリシア文明の流れを汲むローマとは、人種的、宗教的、文化的に全く違った国家でした。ローマとカルタゴの争いについては、経済的な理由以外に、そういう面も無視できないでしょう。現代の哲学者によれば、恐怖とは、他者のことです。異種族とは不気味なものなのです。それが、狭い海をへだてた対岸に、莫大な富と強大な軍事力を抱えて存在している。ローマは嬉しくなかったはずだ。
カルタゴは、何度かローマと戦い、最後には敗れて滅亡します。ローマはすべての建物を打ちこわし、土地には塩を梳き込んでこの地に住むものを完全に根絶やしにしようとした。ですから、カルタゴ側の記録はほとんど残っていない。同時代の記録はすべて征服者であるローマ側のものばかりといっていいので、割り引いて読む必要があります。だが、カルタゴの不人気の理由として、歴史家のプルタークは、カルタゴ人が、子供を人身御供にした宗教儀式を行っていた、と報告しているんです」
「子供を」
「ええ。カルタゴの神は、バール・ハモンと呼ばれます。災害が起こると、カルタゴ人は自らの子供をバール神殿に連れて行き、喉を掻き切って、炎の中に投げ込んだというのです。カルタゴは貴族政をとっていましたが、特に大きな災害の際には、最も高貴で、大切にされている子供が犠牲にされたといいます。一説には、のちにローマとの戦いで連戦連勝し、雪のピレネーを象を従えて越えたという将軍ハンニバルは、子供の頃、あやうく犠牲にされるところだったのを、父のハミルカルがその利発さを惜しんで、奴隷の息子とすり替えて助けたと言われています。
このカルタゴの幼児犠牲が真実か否かは、学者によって意見が分かれています。ただ、発掘されたカルタゴの墓地から、焼け焦げた子供の骨が大量に見つかっているのは、事実です」
「それじゃ…」
「ええ。わたしは、カルタゴの人身御供は事実だったと思っています。彼らの神、バール・ハモンこそが、現代のゴルゴン人の祖先だったのじゃないかと。文字通り、焦土となった古代国家のことですから、証拠は何もありません。ローマのマルカス・ポキウス・カトーは雄弁で知られていましたが、その晩年、カルタゴの繁栄に危機感を持ち、繰り返し、カルタゴ必滅を叫びました。彼の演説は、必ず、同じ言葉で締めくくられていました。演説の主題がなんであっても、終わりの一節は、いつも同じ言葉でした」
沢井は目を閉じ、口の中で味わうように、ゆっくりとその言葉を発音した。
Carthago delenda est.
カルターゴ・デレンダ・エスト
目を開くと、沢井は満足そうににっこりと笑った。きょとんとしている弘毅に、その外国語を訳してくれた。
「カルタゴは、滅ぼされねばならない」
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