桜香

桂木椎

桜香

あの人は、まるで桜の精のように美しかった。

父に連れられてたまに遊びに行く家の中で、時々見かけるお姉さん。

確かにそこにいるのに、まるで存在しないように振舞う。

次の間にあるテレビを、横になってお菓子を食べながら見ている。

私の家だったら親が怒るのに、目の前のおじさんとおばさんは全く気にしない。

テレビに飽きたのか、こちらの部屋に歩いて来る。

私の父に挨拶もなく、窓を開けてそこに腰を下ろす。

それでも誰もそちらを見ない。

春の穏やかな風が部屋の中に吹き込んでくる。

そこの家には大きな桜の木があって、部屋の中にも花びらが舞い込んできた。

お姉さんはその花びらを摘んでは口に運ぶ。

私は驚いて、父の背中をそっと叩いたが、トイレを案内されて終わった。

仕方なく、トイレに向かって用を足した。

戻る途中の廊下で、そのお姉さんとすれ違った。

私に目を合わせることもなく、すっと横を通り過ぎた。

後には微かな残り香。

桜は匂いがしないって言うけれど、これが桜の匂いなんだと私は思った。


しばらくはその家にお邪魔する機会はなかったけれど、お姉さんのことが忘れられない。

薄紅色の肌、桜色の唇とたおやかな黒髪。

そして桜を摘む、桜貝のような爪。

華やかで繊細なあの香り。

あの時5歳だった私も10歳になり、恋の意味を知った。

あのお姉さんが私の初恋。

そして憧れの存在になっていた。


私は毎年、町外れに佇む樹齢200年を超えるという桜へ足しげく通った。

その桜はベニシダレザクラという種類だそうで、枝が垂れ下がってまるで髪のよう。

そこがどこかあのお姉さんを思い起こさせる。

だから私は毎年、この桜の花びらを口に運ぶのだ。

枝から花を摘んで、一枚一枚を噛み締めて飲み込む。

この噛んだ時に僅かだけ、鼻の奥からあの匂いを感じることができた。

その匂いが欲しくて、私もお姉さんの様になりたくて、夢中で花びらを食む。

少し異様に見えるこの光景を目にした町の人は、私を避けるようになった。

学校でも孤立し、家でも自ら両親と距離を置くようになった。

私の想いは、誰も知らなくていい。

孤独に痛みは感じなかったし、ひとりでいる方が自分を磨けた。

そう、私は美しくなりたい。

私がお姉さんに釘付けになったように、皆が桜の前で足を止めるように。

髪は真っ直ぐ、引き込まれるような美しい黒髪へ。

肌は透き通るような白がいい。

そして体からは、あの芳しい桜の香りを。

入念に体の隅々まで見回して、優しく洗う。

そして時間をかけてスキンケア。

最後には、寝る前にまた花びらを一枚口に運ぶ。

桜の時期は短い。

だから私はドライフラワーにして、少しずつ次の年まで花びらを食べた。

ドライフラワーは、やっぱり生気溢れる桜とはまるで違う。

でも花びらを食べ続けないと、不安で仕方がなかった。

今にも肌にシミができるのではないか、髪が痛むのではないか。

不安な季節を乗り越えて、また春を迎えて桜に会う。

月日が巡って私も12歳。

あの時見たお姉さんと同じ背格好になっていた。


今年も開花の知らせを受けて、私はあの桜の下へ走って行った。

私の不気味な行動からか誰も寄り付かなくなったあの桜に、今日は先客がいた。

それは忘れもしない、あのお姉さんだった。

私は何をどうしゃべればいいのか分からず、ただただお姉さんを見つめていた。

お姉さんは微笑み、私の頭を撫でて、髪の毛に口付けをくれた。

あれから何年も経つのに、お姉さんの風貌は変わらない。

やっぱり桜の精だったのだろうか……。

「私っ、お姉さんの様になりたくて!」

必死に搾り出した言葉に、お姉さんは頷いた。

「ずっと見ていたわ。あなたも私と同じなのね」

初めて聞いたお姉さんの声。

柔らかくて、心地よく耳をくすぐる。

「もし本当に私と同じになりたいのなら……」

お姉さんは私の耳元に唇を寄せて囁いた。

私は嬉しくなって、すぐに頷いた。

お姉さんも嬉しそうに微笑んだ。

そして私の手を握り、桜の木へと呼びかけた。

「花びらよ、この少女に纏え」

刹那、突風が吹きつけて私の足を花びらが包み込んだ。

それは徐々に下半身を覆い、やがて胸元まで薄紅色の衣となった。

風の勢いは止まらず、花びらは首を覆い口の奥へと入り込み、

やがて気道をふさいで内臓も犯して行った。

少しのめまいと息苦しさが去った後、私の体は一気に上空へ吹き飛ばされた。

その後、もう人間であった時の記憶はない。


私の体は、枝と枝との間に挟まれて、木の中へと侵食していく。

枝の先へ先へ、まるで滑るように流れ落ち、一輪の花となって外界を見た。

すぐ隣の枝にはお姉さん。

小ぶりな胸から上を大胆に広げ、風に揺られるまま春の陽を浴びている。

よく見れば、枝垂れる桜の先に、まだ数人の少女が見られた。

彼女たちも200年の間にこの木に魅入られ、そして自ら望んで一部になったのだろう。

私はついに、お姉さんと同じ美しきものになった。

人としての命は終わったが、これからは花になって生きる。

一年の大半は身を潜めるが、生命が活気づくこの季節だけ、

私たちは美しく咲き、花びらとなって町を歩き、

春の美しさを存分に堪能して、またこの桜へと帰るのだ。

この巨木に自らの意思で捕らわれた少女。

それが私たち。

さあ、見て。

そして私の香りの虜になって。

もしあなたが私を求めるなら、その時は迎えに行くわ。

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桜香 桂木椎 @shii_katuragi

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