第10話 棺桶の適正価格

 診断は『就労可能』。


 私は晴れて、国家公認の寄生虫となった。


 病院を出ると、坂本の運転する公用車ですぐに移動した。


 向かう先は、港区の片隅にある不動産屋らしい。病院も無料、住居も無料。


 狂っていると思っていた、この星にも悪くない制度もあるものだ。


 車窓から見える景色が、洗練された高層ビル群から、徐々に様子を変えていく。


「申し訳ないですけど、プラチナ通りとかは当然、無理ですから」


 坂本が、ハンドルの向こうに見える煌びやかな並木道を避けるようにウィンカーを出した。


 オープンカフェ。高級外車。着飾った人間たち。


「別に、金や銀のレアメタルに興味はない。道路の舗装材に貴金属を混ぜたところで、歩行効率が上がるとは思えんが」


「……はぁ。そういう意味じゃないんですけどね」


 坂本が呆れたように溜息をつき、車は急な坂を下り始めた。


 ――瞬間、空が消えた。


 頭上を、巨大なコンクリートの塊が、蓋をするように覆い尽くしている。


「まるで、首都高が蓋をしてるみたいでしょ? こっちまでこないと安い物件がないんです」


 その下を流れるのは、古川だ。


 コンクリートで護岸された、緑色に濁った都市の動脈。


「……空気が、湿ってるな」


 私は窓ガラスに触れた。

 ここは港区の底らしい。


 丘の上に建つ高級マンション群が太陽を独占し、その影が落ちるこの低地には、澱んだ空気と排気ガスが溜まっている。


 川沿いには、再開発から取り残された、カビの生えたような木造アパートがへばりつくように密集していた。喧騒から静寂へと車を進める。


 消防車も入れない細い路地の奥に、過去の遺跡が息を潜めていた。


「ここは、どこだ?」


「この辺りは『四の橋』の裏手ですね。古い建物が多いんです」


 坂本が申し訳なさそうに言った。


 光り輝く港区の内臓の裏側。

 だが、私にはこの陰湿な湿度が心地よかった。


「ところで、司さん。港区の住宅扶助――つまり、家賃の上限は決まっています」


 坂本がハンドルを握りながら、事務的に告げた。


「もったいつけるな。何が言いたい」


「単身世帯で、五万三千七百円までのアパートにしか入れません」


「それが、私の価値か?」


 坂本が急ブレーキを踏んだ。


「いつも、大袈裟なんですって。限られた物件に入居していただくしかないという意味です。場合によっては、風呂なし、築古ちくふるは覚悟してください。国が税金で負担するのは、あくまで『最低限度』の生活ですから」


「さっさと車を出せ。何を持って最低限度とするんだ。基準が分からない。物件の面積か、強度か、あるいは外観の良さか」


 坂本が何を思ったのかハンドルに額を打ちつけて、ドライブを再開した。


「ですから、家賃です。このエリアで認められる一番安いアパートと思ってください」


 五万三千七百円。

 これが、この国が私につけた値札だ。


 私の人格が、システムによって著しく低く見積もられているという屈辱。


 私は、窓の外にそびえ立つ六本木ヒルズを睨みつけた。

          ◇


 連れて行かれたのは、『港都こうと不動産』という、潰れかけの店舗だった。


 店主は、脂ぎった小太りの男。


 坂本を見るなり、揉み手で近づいてくる。


「いらっしゃい。今日も即入居可で、保証人不要の物件探しかい?」


「毎回、お世話になります。いつものリストからお願いします」


 店主が湿ったファイルを開く。


 提示されたのは、予想通りの産業廃棄物だった。


 築五十年の木造。トイレ共同。風呂なし。四畳半。


「これしかありゃせんね。ほら、最近は外国人労働者も多くて、この価格帯は激戦区だ」


 店主がふんぞり返る。


 足元を見られている。

 選択肢はない。与えられた餌を食えということか。


 坂本が隣から覗き込んでくる。


「司さん、どれが良いですか?」


 私はファイルを奪い取り、ページをめくった。


 どれも同じだ。

 カビと湿気と、底辺の人生が染み付いた部屋ばかり。


 こんな場所に住めば、精神までカビが生える。


 ――だが。


 ファイルの一番後ろ。


 誰かの手によって隠されるように挟まれていた、一枚のプリントに目が止まった。


『白金三丁目。木造二階建。再建築不可物件』


「賃料、三万五千円か。これを希望する」


 破格だ。


 他のゴミ物件よりも広く、独立した家屋であるのに、価格は半値に近い。


 私が図面を指差すと、店主の顔から血の気が引いた。


「……あぁ、お客さん。それは、ちょっと」


「なぜだ? 予算内だろう。それとも、私には貸せない理由でもあるのか」


「いや、そうじゃないんですがね。それは、いわゆる『告知事項あり』ってやつでして」


 ――告知事項。


 人間社会の隠語だ。心理的瑕疵。

 つまり、死人が出た事故物件。


 坂本が隣から覗き込んでくる。


「司さん、さすがにやめておきましょう。再建築不可ってことは、建て替えもできないボロ家ですよ」


「私は構わない」


 店主も慌てている。


「いやいや、やめといた方がいい! そこはね、ただの孤独死じゃないんですよ」


 店主が声を潜め、プリントを裏返した。何かが、びっしりとメモがしてあった。


「前の住人はね、看護師だったんです。近くの『六道りくどうクリニック』に勤めていた女でね」


 私が目覚めた場所だ。


「いったい、その女の身に何が起きた?」


「彼女ね、気が狂ってたんですよ。ある日、自宅の二階でね……」


「いわゆる、自殺か? ならば、問題ない。人間はどうせ死ぬ。死に方と物件の価値が連動すると考える、お前らのほうがどうかしている」


 店主が首を横に振った。


「自殺じゃありません。彼女、自分の身体を改造しようとしたんです」


「……改造?」


 まさか、同胞か。


 私のように顔面の形成を自在に変えられる生命体。


「ええ。麻酔もなしに、自分の耳や鼻を切り落として、家の柱や壁に合体させようとして……。そうすることで、大好きなこの家と一体化できるんじゃないかと。こっちにとっては良い迷惑ですよ。最後は、失血死。発見された時、床は血の海で、彼女は笑っていたそうです」


 店主が身震いした。


 坂本が口元を押さえ、嘔吐感をこらえている。


 私の背筋を、電流のような戦慄が駆け抜けた。これは、歓喜だ。


 恐怖ではない。家との融合。


 物理学的見地からすれば、物質の体積の九九パーセントは『隙間』だ。


 原子核の周りを電子雲が覆っているだけの、スカスカな空間に過ぎない。


 肉体(炭素)と壁(ケイ素)が混ざり合わないのは、単に『パウリの排他原理』による電子同士の電磁気的な反発が作用しているだけのこと。


 その反発係数をゼロに調整し、量子トンネル効果を意図的に誘発できれば、肉体は水のように壁へと浸透する。


 理論上は可能なのだ。


 人間には、その位相をずらす演算能力がないというだけで。


 ――脳裏に、自分の目覚めの瞬間が蘇る。


 六道クリニックで見た、眼球のない死体。切断された舌。


 あれは、同族殺しではなかったのかもしれない。


 彼らは、自分の肉体という不便な肉の器を、自らの手で作り変えようとした求道者だったのではないか?


 その生き残りが、この家で最期を迎えた。

 ならば、そこはただの事故物件ではない。


 私が住むべき、聖地。


「……最高じゃないか。気に入った」


「は?」


 店長が唖然あぜんとしている。


「だから、その家を選択すると言っているのが分からないのか? 言語モデルが誤っているなら、変更する。お前は何語を話すんだ」


「日本語ですよ! それにしたって、正気ですか!? クリーニングはしましたが、そこら中にシミが……それに、近所でも出るって噂で」


「何が出る? 温泉ってやつか」


「……温泉な訳ないでしょう。看護師の女の霊ですよ」


「幽霊などという非科学的な概念を信じるのか。くだらない。女は家を愛したまま死んだ。つまり、この家屋は彼女の棺桶だ。それが、三万五千円。破格だろう。私も暮らしてみたい」


 私は坂本を見た。


「おい、ロボット。申請しろ。文句はないはずだ」


「……もちろん、ご本人が希望されるならですが。本当に良いんですか?」


 坂本が蒼白い顔で、唇を震わせていた。

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