在宅絵師とエンジニア、臆病な二人の画面越しの恋が《体温》になる現代百合
lilylibrary
第1話 深夜2時のブルーライト
デジタル時計が、カチリ、と音を立てて午前二時を示した。
目の前の液晶モニターには、入稿完了を知らせる自動返信メールが映っている。
締め切りは、守った。
守った、けれど。
ゆきはゆっくりとマウスを動かし、モニターの電源ボタンを押した。ぷつり、と世界が暗転する。部屋の主電源だった光が消え、後に残ったのは、窓の外から差し込む街灯のぼんやりとした琥珀色と、手元で握りしめたスマートフォンが放つ、青白い光だけだった。
これが、今のゆきの世界のすべてだ。
ベッドに倒れ込む。シーツがひどく冷たく感じた。
疲労感はピークを通り越し、もはや虚脱感に近い。手足の末端がうまく動かない。ただ、スマホを持つ右手だけが、ゆきの意志とは無関係にタイムラインをスクロールしていく。
流れてくるのは、他のイラストレーターの華やかな「お仕事報告」や、夜景の綺麗なレストランの写真。どれもこれも、ゆきとは違う世界で起きている出来事のようだ。
自分の絵は、そこにはない。
正確には、ある。一昨日アップした落書きは、そこに存在している。けれど、ついた「いいね」の数は、夜の闇に溶けてしまいそうなほど、ささやかなものだった。
憧れている先輩絵師のアカウントを、指が勝手に開いてしまう。新作の告知。リツイートと「いいね」は四桁を超え、賞賛のコメントが滝のように流れている。
「すごいなぁ」
声に出したつもりはないのに、乾いた喉から、かすれた音が漏れた。
その人は選ばれる人だ。才能があり、努力が実り、世界から必要とされている。
それに比べて、自分は。
ゆきは、そっと自分のアカウントのプロフィール画面を開いた。「白野宮ゆき(イラストレーター)」。その肩書きが、ひどく嘘くさいものに思えた。
自分は、選ばれない側だ。
この深夜二時の、冷たいシーツの上で、青白い光を浴びているだけの、何者でもない存在。
指先が、じわりと冷えていくのがわかった。
その冷たさが、画面越しの光が持つ唯一の「体温」だった。
もう寝よう。明日も早いわけではないけれど、このまま起きていても、心がすり減るだけだ。
そう思って、アプリを閉じようとした指が、ふと、広告バナーの上で止まった。
『あなたに、会う。』
どこかで見たキャッチコピー。マッチングアプリの広告だ。しかも、ご丁寧に「女性同士の出会いもサポート」と小さな文字が添えられている。
以前、一度だけインストールしたことがあった。
女子校育ちのせいか、あるいは、棚にびっしり詰まった百合漫画の影響か、ゆきは昔から、女の子同士の親密な関係性に、淡い憧れを抱いていた。
けれど、その時インストールしたアプリは、あまりに「現実」だった。
キラキラしたプロフィール写真。積極的なメッセージ。そのどれもが怖くなって、ゆきは三時間もしないうちにそれをアンインストールした。
自分には、無理だ。
あんな場所で、自分なんかが選ばれるわけがない。
わかっている。わかっている、のに。
「……何、やってるんだろう」
指は、ゆきの諦念とは裏腹に、ストアアプリを開き、再びそのアプリをダウンロードしていた。
アルコールのせいではない。今夜は、エナジードリンクとコーヒーしか飲んでいない。
これは、疲労と、孤独がさせた、ただの勢いだ。
ダウンロードはすぐに終わった。
画面が切り替わる。
『ようこそ。あなたのプロフィールを登録しましょう』
無機質なゴシック体の文字が、ゆきを促す。
「ニックネーム……」
『ゆき』。本名をひらがなにしただけ。工夫も何もない。
『年齢』
24歳。もう、そんな歳か、と他人事のように思う。
『職業』
指が、止まった。
「イラストレーター」。
この、深夜二時に虚脱感に浸っているだけの人間が、それを名乗っていいのだろうか。
「……でも、他に、ないし」
ゆきは小さく呟き、震える指でフリック入力した。まるで罪を告白するように。
最初の会話ミッションは、自分自身との対話だった。
「これで、いいの?」
アプリが問いかけてくる。
『もちろんです。次に、あなたのことを教えてください』
アプリは、決してゆきを否定しない。それがプログラムだからだ。
自己紹介文。
真っ白なテキストボックスが、ゆきの無力さをあざ笑っているように見えた。
何を書けばいい?
「はじめまして。絵を描くのが、好きです」
一行。たったそれだけ。
指が再び止まる。
「……本当に? 好きなの?」
自己嫌悪が鎌首をもたげる。好きだから描いているのか、それとも、もう、これしか自分にはないから描いているのか。
わからない。
『あなたの写真を追加しましょう。顔がわかる写真が効果的です』
無理だ。
ゆきは即座に首を振った。鏡で見る自分の、寝不足でくすんだ顔を思い出す。あんなものを人前に晒せるはずがない。
かといって、飼っている猫もいない。旅行先で撮った映える写真もない。
諦めてアプリを閉じようとした、その時。
『趣味や、あなたの作品を載せるのも効果的です』
というガイドテキストが、ふわりとポップアップした。
「……作品」
ゆきは、スマホのアルバムを開いた。
仕事で描いた絵は、クライアントのものだ。勝手には載せられない。
SNSにあげた落書きは、他人に見せるには拙すぎる。
フォルダをスクロールしていく指が、ある一枚の画像の上で止まった。
それは、仕事でもSNS用でもない、本当に、ただ、ゆきが描きたくて描いた絵だった。
二つの、手。
片方は少し骨張っていて、もう片方は少し丸みを帯びている。その二つの手が、触れ合うか触れ合わないかの、一番もどかしい距離で、静かに宙に浮いている。
背景はない。色もない。
ただ、鉛筆の線だけで描かれた、手のデッサン。
ゆきは、なぜだかこの絵が、自分でも気に入っていた。誰に見せるでもなく、時々フォルダから出しては眺めていた。
「……これなら」
これが、今の自分が出せる、最大限の「自分」だと思った。
選ばれないかもしれない。
馬鹿にされるかもしれない。
でも、これが嘘偽りのない、白野宮ゆきの「好き」だった。
ゆきは、その「手」の絵を、プロフィール写真のメインに設定した。
顔写真も、自己紹介の派手さもない、ただ、手だけが描かれたプロフィール。
『登録が完了しました!』
無邪気な通知音と共に、画面が切り替わった。
タイムライン。そこは、情報の洪水だった。
『22歳・カフェ店員・友達から始めたいです!』
『26歳・アパレル・一緒に楽しめる人希望!』
きらきら、きらきら。
誰もが自信に満ち溢れ、自分の魅力を正しく理解し、それを的確にアピールしている。
その中で、ゆきの「手」の絵は、あまりにも地味で、あまりにも内向的だった。
「……ほら、やっぱり」
場違いだ。
冷たいシーツの上で、ゆきはスマホを裏返そうとした。この青白い光から、逃げたかった。
その、瞬間だった。
タイムラインをスクロールしていた指が、ある一点で、吸い寄せられるように止まった。
『
顔写真は、設定されていない。代わりに表示されているのは、どこかの夜景の写真だ。それも、手ブレしている。
だが、ゆきの目を引いたのは、その自己紹介文だった。
『はじめまして。香月といいます。
仕事柄、平日は連絡が遅いかもしれません。
映画鑑:(途中で切れている) 読書が好きです。
落ち着いた関係を希望します。
よろしくお願いします。』
それだけだった。
絵文字も、顔文字も、感嘆符もない。
けれど、その最後の「よろしくお願いします。」という、素っ気ないほどの句点が。
なぜか、ゆきの胸に、すとん、と落ちてきた。
この人も、きっと、キラキラした場所が少し苦手な人なんじゃないだろうか。
この人も、もしかしたら、自分と同じように、深夜の孤独から逃げるために、この光に手を伸ばしたんじゃなかろうか。
勝手な想像だ。
でも、ゆきの指は、さっきまでの冷たさが嘘のように、微かな熱を帯びていた。
「……いいね」
押しても、いいだろうか。
こんな、手だけの、陰気なプロフィールの自分から。
でも。
もし、この人なら。
この、句点を打つ人なら。
ゆきは、息を止めた。
心臓が、耳元で鳴っている。
震える親指で、画面の右下にある、ハートのマークを、そっと押した。
押してしまった。
「……わ、わわ」
途端に、現実感が押し寄せる。何をやっているんだ、自分は。
どうせ、返事なんて来るわけがない。向こうは夜景の写真で、こっちは手のデッサン。あまりにも不釣り合いだ。
ゆきは、勢いよくスマホを伏せ、枕に顔を押し付けた。
もう知らない。寝る。今日はもう終わりだ。
冷たいシーツ。インクの匂い。遠くを走る救急車のサイレン。
世界から、遮断される。
そう決めた、直後だった。
ぶぅ、と。
枕元に置いたスマホが、短く、しかし明確に、震えた。
低いバイブレーションの音。
それは、入稿完了の通知でも、SNSの「いいね」でもない、ゆきがここ一ヶ月で、一度も聞いたことのない種類の音だった。
ゆきは、恐る恐る、枕から顔を上げた。
伏せたスマホの縁から、青白い光が、呼吸するように漏れている。
通知だ。
心臓が、喉の奥までせり上がってくる感覚がした。
震える指先で、そっとスマホを手に取る。
画面に表示されていたのは、見慣れたアプリのアイコンと、赤い通知。
『香月あやめさんから、いいねが返ってきました!』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます