もしも音が聴こえたなら
原 蓮翠
一話目 満月の光
この世界は、僕にとって一枚の絵画に似ていた。
音という要素が欠落した、どこまでも静かなただ動く絵画。物心ついた頃から、僕の耳は微かな振動を捉えるだけで、それを意味のある「音」として認識することはなかった。医者はこの症状を、先天性の感音性難聴だと診断書に記した。両親は悲しんだが、当の僕は、失ったものを嘆くことさえ知らなかった。そもそも「音」を知らないのだから、悲しみようがない。僕の世界は、最初から無音だった。
だからなのだろうか。自然と僕は、物書きになった。
音のない世界で、この言葉だけが僕にとっての確かな音だった。頭の中で響く言葉の連なり、文字として紙に定着した時の静かな充足感。それだけが、僕と世界を繋ぐ唯一の手段だった。
相葉湊(あいばみなと)、二十歳。大学には行かず、古い木造アパートの二階、角部屋で文章を書いて暮らしている。時折、ウェブマガジンに短い物語を寄稿したり、細々と翻訳の仕事を受けたりする。そんなことをして、なんとか食い繋ぐ日々。贅沢とは無縁だが、静かで満ち足りていた。
窓の外で、雨が降り始めた。
もちろん、雨音は聴こえない。けれど、僕には雨が見える。アスファルトに描かれては消える銀色の円紋。傘を打つ雨粒の、目に見えないほどの細かな飛沫。窓ガラスを伝う水の筋は、まるでこの世界に引かれた無数の細い境界線のようだった。
僕はその光景を、言葉に置き換えていく。
――雨粒が、世界を縫い合わせていく。灰色のアスファルトや、色とりどりの傘。それに俯きがちに歩く人々の無表情を、透明な糸で繋いでいく。それはまるで、ばらばらになった世界の欠片を、もう一度ひとつに戻そうとするかのように。
ノートパソコンの画面に、言葉が浮かび上がる。僕が紡ぐ物語の主人公は、いつも何かを探している。失われた記憶、会えない人。あるいは、ありふれた日常の中に隠された小さな奇跡。それはきっと、僕自身の渇望の現れなのだろう。聴こえない音を、僕は物語の中に探しているのかもしれない。
執筆に行き詰まると、僕は決まって散歩に出る。補聴器は持っているが、人混みの中では様々な振動が混じり合って不快なノイズになるだけなので、普段は外している。静寂に慣れきった僕にとって、それは暴力的なまでの情報の洪水だった。だから、僕の散歩はいつも、人通りの少ない路地裏や、忘れ去られたような小さな公園が目的地となる。
その日は、いつもと違う道を歩いてみたかった。雨上がりの湿った空気が、土と緑の匂いを運んでくる。水たまりを避けながら歩を進めると、見慣れない一軒の店が目に留まった。
『月のクジラ』
古びた木製の看板に、錆びた真鍮(しんちゅう)の文字でそう書かれている。ガラス張りの扉の向こうには、薄暗い店内に無数のレコードジャケットが並んでいるのが見えた。レコード店。僕にとっては、最も縁遠い場所のひとつだ。音の化石が眠る場所。僕には決して聴くことのできない、メロディの墓場。
しかしなぜだか、吸い寄せられるように店のドアノブに手をかけた。カラン、とドアベルが鳴ったはずだが、僕にはその振動しか伝わってこない。
店内は、古い紙とインク、そして微かな埃の匂いがした。壁一面を埋め尽くすレコードの棚。ジャズ、クラシック、ロック、ポップス。ジャンルごとに分けられているようだが、その膨大な量に圧倒される。一枚一枚のジャケットが、それ自体が一つの物語を内包しているように見えた。あるものは、退廃的で美しい女性のポートレート。あるものは、幾何学的な模様が描かれた抽象画。またあるものは、荒涼とした風景写真。
僕は、その音のない物語の表紙を、指でそっと撫でていく。どんな音が、この四角い世界に閉じ込められているのだろう。激しいリズムだろうか。それとも、甘く切ないメロディだろうか。トランペットの咆哮、ピアノの囁き、バイオリンの慟哭。僕の知らない音たちが、この静寂の中で息を潜めている。
その中に、ひときわ目を引く一枚のレコードがあった。
深い海の底を描いたような、濃紺のジャケット。中央には、一頭の巨大なクジラが、まるで月に向かって歌うかのように浮かんでいる。タイトルは『鯨の詩』。アーティストの名前は、知らない外国人だった。
僕はそのレコードを手に取り、じっと見入った。クジラの声。それは一体どんな音なのだろう。低く、重く、そしてどこまでも優しい響きだと、本で読んだことがある。海の底から、仲間へと呼びかける声。その声が、広大な海を渡っていく様を想像する。僕の知らない、壮大な音の旅。
「それ、お好きなんですか?」
不意に、すぐそばで声がしたような気がした。振動が、空気を通して伝わってきた。振り返ると、そこに一人の女性が立っていた。
僕より少し年上だろうか。柔らかな栗色の髪を、ゆるくひとつに束ねている。古着のワンピースに、エプロンを身につけていた。この店の店員らしい。
彼女の唇が動いている。何かを僕に問いかけているのが分かった。僕は少し申し訳ない気持ちで、ポケットから小さなメモ帳とペンを取り出した。いつものことだ。
『すみません。耳が、聴こえないんです』
そう書いて見せると、彼女はほんの一瞬、驚いたように目を丸くした。だが、すぐにふわりと微笑んだ。その表情に、憐憫や同情の色は一切なかった。ただ、純粋な好奇心のようなものがきらめいていた。
彼女は僕の手からメモ帳を受け取ると、さらさらとペンを走らせた。
『そうだったんですね。ごめんなさい。そのレコード、とても素敵ですよね。私も大好きなんです』
彼女の書く文字は、その人柄を表すかのように、少し丸みを帯びていて、優しかった。僕は頷き、再びレコードジャケットに視線を落とす。そして、メモ帳に書き足した。
『クジラの声って、どんな音がするんですか?』
メモ帳に書き終えた瞬間、我ながら馬鹿げた質問だと思った。音を言葉で説明することの難しさは、僕が一番よく知っているはずだ。それはまるで、目の見えない人に、夕焼けの美しさを説明しようとするようなものだろう。
彼女は少し考えるように首を傾げ、それから、いたずらっぽく笑ってメモに書き始めた。
『うーん、言葉にするのは難しいな……。でも、そうですね……。海の底で、たった一人で見る、満月の光みたいな音、かな』
満月の光みたいな音。
その詩的な表現に、僕は胸を突かれた。情景が、鮮やかに目に浮かぶ。どこまでも広がる暗い海の底。そこに差し込む、一筋の白く、清らかな光。静かで、荘厳で、そして、どこか寂しい。
僕は、彼女が表現した「音」を、自分の中に反芻した。言葉から情景を想像し、その情景から感情を汲み取る。それは、僕がいつもやっている創作活動そのものだった。彼女の言葉は、僕の想像力を掻き立てた。
『素敵な表現ですね。ありがとうございます』
僕がそう書くと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
『よかった。あなた、もしかして、何か書く人ですか?言葉の選び方が、そんな感じがして』
僕は少し驚いて顔を上げた。初対面の人に、そんなことを言われたのは初めてだった。実際には、メモ帳に書かれたわけだが。
『物書きの真似事をしています』
『やっぱり!なんだか、嬉しいです。私はここで働きながら、音楽についてのエッセイみたいなものを書いているんです。仲間ですね』
彼女はそう書くと、ぱちんとウインクしてみせた。その屈託のなさに、僕は少しだけ緊張が解けていくのを感じた。彼女の名前は、月島詩織(つきしま しおり)さんと言うようだ。
僕たちはそれから、しばらく筆談を続けた。詩織さんは、たくさんのレコードを僕に見せてくれた。ジャケットを見せ、そこに込められた音楽の物語を、短い言葉で伝えてくれる。激しい嵐のようなピアノソナタ。日曜の朝の陽だまりのようなギター。星空を旅するようなシンセサイザー。彼女の言葉を通して、僕の知らない音の世界が、少しだけ輪郭を帯びていくような気がした。
彼女の言葉は、まるで魔法のようだった。ただ「激しい」とか「穏やか」というだけでなく、そこに具体的な情景や感情を添えてくれる。それは、僕が文章を書く上で、いつも心がけていることでもあった。彼女もまた、音を言葉に翻訳する人なのだ。
ふと、詩織さんの指が、ある一枚のレコードを指し示した。それは、チェロ奏者の、モノクロの写真がジャケットになっているものだった。厳しい表情で、一心不乱に楽器を奏でる男。
『この人のチェロ、聴いてみてほしいな。きっと、あなたの書く物語に、何かをくれると思う』
詩織さんは、そうメモに書いた。
『でも、僕には聴こえない』
それは、紛れもない事実だった。どんなに素晴らしい音楽も、僕にとっては無音のままだ。その事実に今更ながら、ちくりと胸が痛んだ。彼女と話していると、自分が聴こえないという現実を、一瞬忘れそうになる。
詩織さんは、僕のメモを読むと、少し悲しそうな顔をした。そして、何かを決心したように、僕の目をじっと見つめた。彼女の唇が、ゆっくりと動く。唇の動きと、彼女の真剣な眼差しから、その言葉を読み取ろうと必死に集中する。
「――この音、あなたに、聴かせてあげたいな」
そう言ったように見えた。
確信はなかった。でも、彼女の表情が、眼差しが、そう告げていた。それは、同情からくる言葉ではなかった。ただ純粋に、自分が愛する美しいものを、目の前にいる相手と分かち合いたいという、強い願いが込められているように感じた。
その瞬間、僕の世界を覆っていた薄い膜が、一枚破られたような気がした。もちろん、静寂は静寂のままだ。けれど、その静寂の中に、彼女の存在という、確かな一つの「響き」が生まれた。それは、耳で聴く音ではない。心で聴く、音。
僕は、詩織さんが差し出してくれたチェロのレコードを、黙って受け取った。ジャケットに写る男の厳しい表情が、なぜだか少しだけ、僕に向けられているように思えた。
店を出ると、雨はすっかり上がっていた。西の空が、茜色に染まり始めている。水たまりが、その夕焼けの色を映していて、きらきらと輝いていた。
僕はレコードを大切に抱えて、アパートへの道を歩く。プレーヤーなんて持っていない。このレコードを聴く術は、今の僕にはない。それでも、不思議と心は満たされていた。
自室に戻り、レコードをそっと机の上に置く。ジャケットのチェロ奏者が、静かに僕を見つめ返している。
もしも、音が聴こえたなら――。
今まで何度も考えた、ありえない仮定。けれど、今日、僕は新しい問いを心に抱いていた。
音を聴く、とはどういうことだろう。耳で振動を捉えることだけが、全てなのだろうか。詩織さんがくれた言葉のように、情景を思い浮かべること。物語を感じること。それもまた、「聴く」ということの一つのかたちなのかもしれない。
僕はノートパソコンを開き、新しいファイルを作成した。そして、タイトルを打ち込む。
『月のクジラ』
今日出会った、不思議な店の名前。そして、詩織さんがくれた、満月の光のような音のイメージ。それらが、僕の中で新しい物語の種になろうとしていた。
窓の外では、夕闇が静かに世界を包み込んでいく。僕は、まだ見ぬ物語の最初の一文を、ゆっくりとタイプし始めた。それは、海の底の深い静寂から始まる物語。そして、そこに差し込む一筋の光を探す、クジラの物語だ。
聴こえないはずのチェロの音色が、そして、遠い海の底で響くクジラの唄が、僕の静かな部屋を満たしていくような、そんな不思議な感覚に包まれていた。僕の世界は相変わらず無音のままだ。けれど、そこには今日、確かな一つのメロディが加わった。それは、まだ始まったばかりの、小さな、希望の旋律だった。
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