一城治くんは、いつも切ない。

みなかみもと

一城治君は、いつも切ない。

 イチジョウ君、と呼ばれて振り返る。

 呼んだのは、古文の武田先生だった。

 まだ三十代とからしいけど、もっと若く見える。でもお子さんがいるらしい。

「イチジョウ君、次の授業七組よね? 悪いんだけど、これ、ノート持ってって先教室に行っててくれる?」

 言われて、生徒分のノートを渡さる。


 ……今日も断れなかった。

 

 古文のノートを両手に持って、えっちらおっちら歩いていると、向こうから同じ吹奏楽の先輩が声を掛けてきた。

「イチジョウ、今日の部活な。ペットは第二音楽室な。他の一年にも伝えとけ」

 言われて頷く。一年生の部員数は十九名。それらに自分だけで伝えきれるだろうか。


 面倒なのに、また断れなかった。


 何故こんなにも断れないんだろうと思いながら、てくてくと廊下を歩く。

 制服短い奴、髪の毛たたせてるやつ、ふざけて横に広がり過ぎて廊下を占拠してるやつ。

 みんな自由に過ごしているし、先生や先輩から当たり前のように頼まれることもないのだろうな。自分、気弱ですから、と思う。

 

 古文のノートがとにかく重くて嫌になる。

 職員室の前を通っただけで頼まれるし、二年生のクラスの前を通っただけで頼まれた。ここから一年生のクラスまで、階段一つ降りなければならない。

 思っていたところで、階段脇から同学年の男子が飛び出してきた。

 肩がぶつかって、反動でノートが床に落ちた。

「あ、わりぃ、イチジョウ!」

 そう謝ったけど、拾うことはせずにそいつはそのまま走っていく。

 次の授業が移動教室なんだろうと予想は付いたが、お前が移動するのに慌てているんなら、自分だって次の授業開始までもうあまりないから、慌てる状態なんだけどさ。

「……みんな死ね」

 口の中でそう呟きつつ、落ちたノートを拾った。

 

 どうしようもない切なさが胸に広がる。

 こんな風に言われて、断れないまま、放置することも出来ない自分も嫌だし、言い返すことも出来ない。

 悲しいとか、苦しいとか、腹立つとか取り越して、なんか切ない。

 思春期は色々と感じることがいつもと違うと言われるけれど、本当そうなのかも。

 自分、いつも切ないです。


 そうこうしていたら、誰かの脚が見えた。

 ふっとい脚に白いソックス。でも脚が見えるってことは、女子だ。


 見上げると隣のクラスの女子だった。


 名前は確か「山田愛」。


 でも名前は「あい」とは読まずに「らぶぶ」が正しいらしい。

 入学式の時に呼ばれているのを聞いて、体育館が騒めいたけど、山田本人は平然とした様子で返事をしていた。

 おかっぱに近いショートに、平坦な顔。太めの体。かわいさは、ゼロ。


 でもその山田が、しゃがんでノートを拾い始める。

「え、ありがと」

「いいよ。こまった時は、お互い様」

 そう言い放つ声はややハスキー。初めて話したけれど、なんだか印象的な声だった。二人ですると、ノートもあっという間に集まる。

「はい、これ。クラスまで手伝いたいけど、私も移動教室だから」

 言って、自分の腕にノートを置いて山田はクールに言ってくる。


「あ、ありがと」

 去り行く彼女の背中に向かって、もう一度礼を言うと、山田は首だけで振り向いて頷いた。


「ニノマエ君でしょ。本当は」


 言われて、自分は驚いて声も出ない。


「本当は、ニノマエ、ジョウジ君って読むんでしょ」

 中学に入学して、初めて正しく名前を呼ばれた。


 「一城治」で「にのまえ じょうじ」が正しい自分の名前。

 でも皆、勝手にくぎって「いちじょう おさむ」だと思っている。

 

「私も愛だって思われてること多いからさ。名前は正しく呼ばれないと、なんか切なくなるよね」

 そう言って、山田は去っていった。

 切なくなるよね。

 切なくなるのかよ、ラブブで。とか思ったけど。


 自分は、立ち尽くして山田ラブブの背中を見ていた。

 彼女の体が廊下を曲がって見えなくなっても、まだ立ち尽くしていた。


 名前を読み違えられる度に、変な切なさが胸にあった。

 でも、正しく読まれると、これまた違う切なさが胸に残った。


 なんてこった。

 予鈴の音に体が震えたけれど、自分はそのまま階段の踊り場に立ち尽くしたままだった。


 胸に残る切なさに、なんだかドキドキが止まらなかった

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一城治くんは、いつも切ない。 みなかみもと @minakamimoto

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