第43話 第三の層『裏切りの油汚れ』と、罪悪の乳化

憎悪のサビは、消えた。

 あれほど俺の精神を蝕んだ、二つの魂の終わりなき口論も、今はもう聞こえない。

 川底を埋め尽くしていた赤黒い塊は跡形もなく消え去り、静寂が戻ってきた。


「はぁ……はぁ……お、終わった……」


 今度こそ、本当に終わりだ。

 俺は、安堵のため息をつき、その場に崩れ落ちそうになった。全身の精神力が、もう一滴も残っていないかのように枯渇している。

 だが――

 サビの下から現れた、本当の川底を見た瞬間、俺の動きは、完全に停止した。


 そこに広がっていたのは、綺麗な砂利の川底ではなかった。


 ベットリと。

 まるで、何百年も放置された換気扇のフィルターのように。

 あるいは、決して洗い流すことのできない、罪の記憶そのもののように。


 黒く粘着質で底なしの絶望を感じさせる、『油汚れ』が、川底一面にねっとりと絡みついていた。

 それは鈍い光を放ち、見る者の思考力すら奪っていくような、圧倒的な存在感。

 後悔のヘドロ、憎悪のサビ……それら全ての汚れを、この場所に固着させていた接着剤。全ての元凶。


「……嘘、だろ……」


 俺の口から、乾いた声が漏れた。


「まだ……まだ、あんのかよ……!」


 史上最悪の『複合感情汚染』。

 その、最も厄介で、最も洗い流しにくい、呪いの核。

 初代アークライト公自身の『裏切り』の感情が、ようやく、そのおぞましい姿を、俺の眼前に現したのだった。

 心が、折れそうだ。

 もう、指一本動かす気力も残っていない。

 だが――俺の魂は、まだ燃え尽きてはいなかった。


(……ああ。そうだ。これだ)


 これこそが、俺が本当に洗いたかった『大物』の正体だ。

 この、どうしようもなく頑固で、絶望的なまでに汚れた、粘着質の塊。

 これを洗い流さずして、最高の洗い物屋などと、名乗れるはずがない。


「……上等じゃないか」


 俺は、ふらつく足で、再び立ち上がった。

 その瞳には、消耗しきった中に、最後の炎が宿っていた。

「あんたが……ラスボスってわけか」


 俺は、現実世界の工房で作り上げた、最後の『洗剤』を強くイメージした。

 寸胴鍋の中にあった三層目の透明な液体。

 罪人の悔恨の涙に見立てた薬草の雫から生まれた、最強の『乳化剤』。


(油汚れは、水だけじゃ絶対に落ちない。水と油、相反する二つを混ぜ合わせ、汚れを根本から分解する力が必要だ)


 俺の右手に、新たな洗浄道具が出現した。

 頑固な汚れを削ぎ落とすための金属製のヘラ。

 そして左手には、乳化剤を染み込ませた特殊なマイクロファイバークロス。

 最高の道具は、揃った。


「さあ、最後の『大掃除』だ」


 俺は川の中へ、最後の一歩を踏み出した。

 そして、ヘラを油汚れの層に突き立て、ぐっと力を込める。

 ねちゃり、とした嫌な感触。

 その瞬間、俺の脳内に、初代アークライト公の、心の声が直接流れ込んできた。

 それは、後悔でも、憎悪でもなかった。

 もっと複雑で、矛盾に満ちた、魂の独白だった。


『――友よ、許してくれ。だが、こうするしかなかったのだ』

『この国を統一し、永劫の平和を築くためには、お前の存在は、あまりに危険すぎた』

『お前の理想は崇高だ。だが、それはあまりに純粋すぎて、この泥にまみれた世界では、新たな戦乱の火種にしかならない』

『だから、私が、この手で、お前を……!』


 罪悪感。

 そして、それを塗りつぶそうとする、強烈な自己正当化。

 『友を殺した』という紛れもない事実と、『大義のためだった』という言い訳。

 決して混じり合うはずのない二つの感情が、水と油のように反発しあいながら、この粘着質な汚れを形成している。


「ぐ……ぅ……!」


 これまでの精神攻撃とは、質が違う。

 彼の葛藤が、俺自身の心の奥底に眠る、無力感や自己嫌悪を、無理やり抉り出してくる。

 家族に罵倒され、何も言い返せなかった、あの日の記憶。

 社会のゴミだと、失敗作だと言われ続けた、あの絶望。


(……うるさい)


 俺は、奥歯を噛み締めた。

 あんたの事情なんざ、俺には関係ない。

 俺はただ、目の前の汚ねぇ油を、洗うだけだ。


「あんたの言い訳に、付き合ってる暇はねぇんだよッ!」


 俺は叫び、無心でヘラを動かした。

 ベットリとした油汚れの塊を、少しずつ、少しずつ、川底から引き剥がしていく。

 そして、剥き出しになった部分に、左手のマイクロファイバークロスを押し付け、乳化剤を染み込ませるように、円を描くように丁寧に磨き上げていく。


 ジュッ……と、微かな音がした。

 水と油が、混ざり合う音。

 罪悪感と自己正当化が、乳化剤の力によって、その強固な結びつきを解かれていく。


(……いける!)


 俺は、ひたすらにその作業を繰り返した。

 ヘラで剥がし、クロスで磨く。

 初代公の心の声が、徐々に悲痛なものへと変わっていく。


『――私が間違っていたのか?』

『――いや、間違ってはいない。この国の平和が、その証だ』

『――だが、友よ。私は、毎夜、お前の夢を見る。血に濡れた、お前の、私を責める目を……!』


 俺の意識もまた、限界に近づいていた。

 視界が明滅し、手足の感覚が薄れていく。

 それでも、俺は手を止めなかった。

 最高の『洗い物』を、中途半端に終わらせるわけにはいかない。


 ◇


「……まずい、ですわ」


 工房の外で、エリアーナが青ざめた顔で呟いた。

 リリアたちも、ただならぬ気配に息を呑んでいる。

 工房の扉を覆う光の結界が、バチバチと不吉な音を立てて明滅しているのだ。

 そして、その隙間から、わずかに黒い霧のようなものが、漏れ出し始めていた。


「おい、どうなってるのよ!? アラタは、大丈夫なの!?」

 リリアが、結界の扉に掴みかからんばかりの勢いで叫ぶ。

「アラタ様は、呪いの核……最も濃い穢れに、到達されたのです……! ですが、その怨念の力はあまりに強大で、浄化の過程で抑えきれないエネルギーが、外に漏れ出して……!」


 エリアーナの言葉を裏付けるかのように、店全体が、ミシリ、と嫌な音を立てて軋んだ。

 棚の小物がガタガタと揺れ、工房の中から、おぞましい気配が、じわじわと溢れ出してくる。


「……アラタを、守る」

 クロエが、決意を秘めた瞳で、大盾を構えた。

 リリアとセナも、武器に手をかける。

 彼女たちの顔には、恐怖と、そしてアラタへの揺るぎない信頼が浮かんでいた。


 ◇


 ――あと、少し。

 本当に、あと少しで、この忌まわしい油汚れを、全て洗い流せる。

 俺の意識は、もうろうとしていた。

 だが、職人としての本能だけが、俺の両手を動かし続けていた。


 そして――ついに。


 ズルリ、と。

 最後の一塊となっていた油汚れが、川底から完全に引き剥がされた。


「……やった……か……?」


 俺は、安堵の息を漏らした。

 だが、その瞬間。

 俺の精神力が、完全に底をついた。

 目の前が、真っ暗になる。

 精神世界を維持する力が、消えていく。


(まずい……! 剥がした汚れを、洗い流す前に……意識が……!)


 現実世界で、俺の体から、ガクンと力が抜けた。

 それと同時に、工房の扉を覆っていた光の結界が、ガラスのように砕け散る。


 バリンッ!!


「きゃっ!?」

「結界が……!」


 そして、解放された扉の向こうから、何百年ぶんもの『裏切り』と『罪悪感』が混じり合った、おぞましい怨念の黒い霧が、仲間たちに向かって、牙を剥いたのだった。

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