第37話 父の暴走と、加速する陰謀
アークライト侯爵家の執務室。
その重厚な空間に、影のように佇む男が一人、カイン・フォン・アークライトに深々と頭を下げていた。
「――以上が、ここ数日のギルドマスターのご様子です」
男は、カインが放った密偵の一人だ。
その報告を聞き終えたカインは、組んでいた指を解き、ゆっくりと立ち上がった。その表情は、凍てつく湖面のように静かだったが、その水面下では激しい感情の嵐が吹き荒れていた。
「……王都で最も古い石畳の欠片?」
「はっ。それも、建国時に敷かれたとされる、中央広場のものを」
「夜明けの鐘の音が染み込んだ、教会の聖水……」
「はい。日の出と同時に、大聖堂の鐘楼の真下で汲んだものだと」
「極めつけは……罪人が流した、心からの悔い改めの涙、か。馬鹿馬鹿しい」
「そちらは、さすがに本物は手に入らなかったようで、酷似した魔力特性を持つという特殊な薬草の雫で代用した、との報告が」
一つ、また一つと、意味不明な素材の名が挙げられるたびに、カインの心臓は氷のように冷えていった。
(父上……あなたほどの人が、なぜ……!)
父、レオルドは、カインにとって絶対的な存在だった。
ギルドを統べる者としての威厳、アークライト家当主としての誇り、そして何より、揺るぎない秩序の体現者。その背中を追い、血の滲むような努力を重ねてきたのだ。
だが、今の父の行動は、狂気の沙汰としか思えなかった。
(あの汚物屋……皿井アラタ……! 父上に何を吹き込んだ!? これはもう、惑わされているなどという生易しいレベルではない。洗脳だ! あの男は、父上の精神を蝕む、魔性の何かだ!)
カインの脳裏に、あの忌まわしい浄化の光景が蘇る。
あの光は、人の理性を麻痺させ、判断を狂わせる毒なのだ。
そして、父はその毒に、完全にあてられてしまった。
アークライト家の長たる者が、正体不明の男の戯言を信じ、オカルトじみた呪術の儀式のような準備に手を貸している。
これほどの恥辱が、あってたまるか。
「……分かった。下がれ」
「はっ」
密偵が音もなく消えると、カインは一人、執務室の窓辺に立った。
ガラスに映る自分の顔は、青白い怒りと、そして深い悲しみに歪んでいた。
「父上……」
歪んだ愛情。そして、裏切られたという絶望。
それらが、彼の心をさらに固く、冷たくしていく。
「……あなたを、お救いするためです。そして、地に堕ちたアークライト家の名誉を取り戻すために……。この私が、全てを正さねばならない」
もはや、躊躇いはなかった。
父が正気に戻るのを待つ時間などない。
あの男が、父を利用して、この国にさらなる混沌をもたらす前に、全ての芽を摘み取らねば。
たとえ、それが実の父を断罪する行いだったとしても。
「見ていてください、父上。このカインが、あなたの代わりに、この国の秩序を守ってみせます」
カインは踵を返し、迷いのない足取りで、執務室を後にした。
向かう先は、王城の最奥。
この国の未来を決める、円卓の間である。
◇
「――緊急動議を提出いたします!」
貴族たちのための議場『円卓の間』。
カインの凛とした、しかし切迫した声が、厳かな空間に響き渡った。
予定外の彼の発言に、ざわめきが広がる。
「カイン殿、一体何事だ」
「議題は、先日より継続審議となっている『王立浄化ギルド設立法案』についてのはずだが」
訝しげな視線が集中する中、カインは議場の中央へと進み出た。
「皆様! 本日は、その法案の審議に先立ち、皆様にご報告せねばならぬ、緊急事態が発生いたしました!」
カインは、悲痛な、しかし強い覚悟を秘めた表情で、居並ぶ大貴族たちを見渡した。
「我が父、ギルドマスター、レオルド・フォン・アークライトは……もはや、その重責を担うべき状態にありません! 彼は、正気を失いました!」
その衝撃的な言葉に、議場は水を打ったように静まり返る。
そして、次の瞬間、爆発的な喧騒に包まれた。
「な、何を言うか、カイン殿!」
「レオルド殿が、正気を失っただと!?」
「不敬であるぞ!」
飛び交う怒号と非難。だが、カインは怯まなかった。
「不敬と罵られても構いません! ですが、これは紛れもない事実! 父は……先日来、王都に現れた、あの出自不明の浄化師、皿井アラタという男に、完全に心を奪われているのです!」
カインは、密偵から得た情報を、誇張を交えながら、しかし真実であるかのように語り始めた。
「父は、あの男と極秘裏に密会を重ね、あろうことか、我がアークライト家が代々受け継いできた、国家の根幹に関わるほどの重要機密……いえ、『呪物』と呼ぶべき代物を、あの男に委ねてしまったのです!」
『呪物』という言葉に、貴族たちの顔色が変わる。
「そ、それはまことか!?」
「アークライト家に、そのようなものが……」
「そして、父は今、あの男の言いなりです! 石畳の欠片、教会の聖水……まるで、たちの悪い詐欺師か、あるいは邪教の教祖にでも騙されたかのように、意味不明な素材集めに奔走しております! これが、正気の沙汰と呼べましょうか! 断じて否!」
カインの熱弁は、貴族たちの心に巣食う、得体の知れない力への『恐怖』を、再び巧みに刺激した。
あの奇跡の光。
街を癒したという、神の御業。
だが、その裏に、人の心を惑わす魔性の力が潜んでいるとしたら?
「皆様、考えてもみてください! あの皿井アラタという男は、一体何者なのですか!? どこから来て、何を目的としているのか、我々は何も知らない! そんな男に、この国のギルドの頂点たる我が父が、骨抜きにされている! このままでは、アークライト家の、いえ、この国の栄光は、あの男によって、根こそぎ食い荒らされてしまうでしょう!」
カインの声が、悲壮な響きを帯びる。
それは、父を思う息子の嘆きであり、国を憂う愛国者の叫びのようにも聞こえた。
「もはや、父にギルドマスターの任を委ねておくことは、国家に対する重大な裏切り行為に他なりません!」
決定的な言葉だった。
議場の空気が、完全にカインの言葉に呑まれていく。
「……やむを得ん、か」
「レオルド殿は英雄だが、老いには勝てぬということか……」
「となれば、ギルドマスターの後任は……」
貴族たちの視線が、自然とカインに集まる。
カインは、その視線を一身に受け止めると、静かに、しかし力強く宣言した。
「まずは、早急に『王立浄化ギルド』を設立し、あの男の力を、国家の厳格な管理下に置くべきです! そして、混乱したギルドの指揮系統を立て直すために……この私が、全ての責任を負う覚悟でございます!」
父の解任。
そして、自身のギルドマスター就任の示唆。
彼の陰謀は、父への『失望』という新たな燃料を得て、最終段階へと、一気に加速を始めていた。
カインの口元に、誰にも気づかれぬよう、微かな、歪んだ笑みが浮かぶ。
(これでいい……これでいいのです、父上)
(あなたの名誉は、この私が必ず守りますから)
アラタたちが、王都の片隅で奇妙な素材集めに奔走している、まさにその裏側で。
巨大な権力の歯車は、彼らを捕らえ、その力を奪い尽くすため、無慈悲な音を立てて、回り始めていた。
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