第35話 アークライト家の呪い

「この小箱にかけられた呪いこそが、我がアークライト家が、何百年もの間、抱え続けてきた……忌まわしき『宿痾』そのものなのだ」


 レオルドさんの絞り出すような声が、静まり返った工房に重く響いた。

 宿痾――つまり、長い間治らずに、その家系を苦しめ続けてきた病。

 俺は、ゴクリと喉を鳴らした。目の前の小さな箱に込められた『汚れ』の正体は、それほどまでに根深いものだというのか。


「……どういうことよ、ギルドマスター。アークライト家といえば、この国を建国から支えてきた名門中の名門じゃないの」

 リリアが、信じられないといった様子で問い詰める。俺たちの頭の中も、彼女と同じ疑問でいっぱいだった。


 レオルドさんは、苦々しい表情で一度目を伏せると、重い口を開いた。

「……名門、か。表向きは、そうだろうな。だが、どんな輝かしい歴史にも、光が強ければ強いほど、濃い影が落ちるものだ」


 彼の語りは、まるで古い叙事詩の一節を聞いているかのようだった。

 それは、この王国がまだ生まれる前の、戦乱の時代にまで遡る。


「我が始祖、初代アークライト公は、当時の王と共に、この国を統一した英雄として歴史に名を刻んでいる。だが、その裏で、彼は王位を確固たるものにするため、数多くの政敵を、裏切り、陥れ、その血で手を汚してきた」

「……!」


「この小箱は、その象徴だ」と、レオルドさんはテーブルの上の箱を指さした。

「始祖が最も信頼し、そして最も残酷に裏切った親友の一族から奪った、いわば『戦利品』。その一族の血と、憎悪と、そして決して消えることのない怨念が、この箱に埋め込まれた血石に、今もなお封じられている」


(血と、裏切り……。そして、憎悪の怨念……)


 俺の【万物浄化】の目が、箱の中心で禍々しく輝く赤い宝石を捉える。

 レオルドさんの言葉を聞いて、ようやく理解できた。

 この『汚れ』が、なぜこれほどまでに複雑で、悲しい色をしていたのか。

 これは、ただの呪いじゃない。何百年という時を経て、塗り重ねられ、熟成されてしまった、歴史そのものの『染み』なのだ。


「その呪いは、代々アークライト家の当主に受け継がれてきた」

 レオルドさんの声が、さらに低くなる。

「呪いは、当主の精神を静かに蝕む。誇りを歪ませ、血統への異常な執着を植え付け、そして何よりも……秩序を乱す者を、決して許さないという、歪んだ正義感を増幅させるのだ」


 その言葉に、俺たちは全員、ハッとした。

 血統への執着。歪んだ正義感。秩序を乱す者への、異常なまでの憎悪。

 それは、まさしく――。


「……カインのこと、ですの?」

 セナさんが、震える声で尋ねた。


「そうだ」と、レオルドさんは静かに頷いた。

「息子は、歴代当主の中でも、特にこの呪いの影響を色濃く受けて生まれてきた。彼のあの過剰なまでのエリート意識と、出自の定かではない者を『偽物』と断じて排除しようとする苛烈さは……この呪いが、彼の魂を内側から歪めてしまった結果なのだ」


 工房は、重い沈黙に包まれた。

 あのカインの、俺に対する憎悪の根源が、こんなところにあったなんて。

 同情する気はさらさらないが、話のスケールが大きすぎて、俺の脳の処理が追いつかない。


「では……まさか、カイン様が画策しているという『王立浄化ギルド』の設立も……」

 エリアーナさんが、恐る恐る口を開いた。


「ああ。それこそが、息子の本当の狙いだ」

 レオルドさんは、悔しさに奥歯を噛み締めた。

「アラタ殿の力を国家の管理下に置き、その力を使って、この呪われた小箱を、誰の目にも触れぬよう完全に封印・浄化する。そして、アークライト家の歴史から、この忌まわしき『汚点』を完全に消し去ること……。それこそが、カインの歪んだ『正義』の執行なのだ」


(なるほど……。俺の力を、一族の『シミ抜き』に使おうってわけか……)


 とんでもない話だ。

 だが、そんな政治的な陰謀や、親子間の確執など、今の俺にとっては些細なことだった。

 俺の意識は、ただ一点。

 テーブルの上で、静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、この『汚れ』に釘付けになっていた。


(すごい……。本当にすごい……)


 建国の歴史。血と裏切り。何百年ぶんもの憎悪。

 これほどまでに洗い甲斐のある『大物』は、生まれて初めてだ。

 これを完璧に洗い上げることができたなら、俺は洗い物屋として、一体どんな景色を見ることができるんだろう。

 俺の職人魂が、かつてないほど激しく、ゴオオオッと音を立てて燃え上がっていた。


「……アラタの、邪魔」

 俺の隣で、クロエさんがボソリと呟いた。その瞳には、カインに対する静かな怒りの炎が宿っている。


 俺が、目の前の『獲物』に心を奪われていると、レオルドさんが、意を決したように俺をまっすぐに見つめた。


「アラタ殿。話は、以上だ。これが、我がアークライト家が抱える、全ての闇だ」

 彼の表情は、ギルドマスターとしての威厳ではなく、ただ一人の父親としての、悲痛な覚悟に満ちていた。


「この依頼が、どれほど危険なものか、君にも分かるだろう。この呪いは、これまで何人もの高名な聖職者たちの精神を喰らい、再起不能にしてきた。下手をすれば……君の魂そのものが、この何百年ぶんもの憎悪に呑み込まれてしまうやもしれん」


 レオルドさんは、一度言葉を切ると、テーブルに両手をつき、再び、俺に深く頭を下げた。


「それでも、だ。それでも私は、君に……君のその神の御業に、全てを賭けたい。息子の歪んでしまった魂を、そして我が一族の忌まわしき歴史を、洗い流してはくれまいか」


 彼の声は、震えていた。

 それは、一国のギルドマスターの言葉ではなかった。

 ただ、道を誤った息子を救いたいと願う、一人の父親の、魂からの懇願だった。


 工房の誰もが、固唾を飲んで俺の答えを待っている。

 リリアも、セナも、クロエも、エリアーナも、心配そうな、それでいて俺を信じる強い眼差しを向けてくれていた。


 俺は、彼女たちに一度だけ視線を送り、小さく頷くと、再び目の前の小箱に向き直った。

 歴史の重みも、陰謀も、危険性も、今はどうでもいい。

 ただ、目の前に、洗うべき『汚れ』がある。

 そして、俺は、それを洗う術を知っている。


 俺は、静かに口を開いた。


「レオルドさん。一つだけ、確認させてください」

「……なんだろうか」


「この汚れは、相当に頑固です。これまで俺が洗ってきたどんな汚れよりも、深く、しつこく、こびりついている」

 俺は、指でテーブルをトントンと叩きながら、最高の『洗い方』を脳内でシミュレートする。

「これを洗い上げるには、相応の準備と……そして、覚悟が必要です」


 俺は顔を上げ、真剣な眼差しでレオルドさんを見つめ返した。


「つまり……追加料金が、発生しますけど」

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