第24話 飢餓の怨霊、顕現

(もう少し……! あと少しで、この子の渇きが癒える……!)


 俺は、全身全霊をかけて、浄化エネルギーを注ぎ込み続けていた。

 額からは玉のような汗が流れ落ち、呼吸も荒くなっている。桶の中の聖水は、俺のエネルギーを吸って、まるで生きているかのように銀色の光を明滅させていた。

 だが、俺の心は不思議と穏やかだった。


 聖水に満たされた杖から、これまで感じていた悲痛な叫びが、少しずつ和らいでいくのが分かるからだ。

 それは、長年苦しんできた子供が、ようやく安息の眠りにつくような、安らかな気配だった。


「すごい……杖から出ていた、あの禍々しいオーラが、どんどん薄くなってるわ……」

 工房の入り口で見守ってくれていたリリアが、感嘆の声を漏らす。

「ええ……。まるで、氷が溶けていくようですわ……」

 セナさんも、祈るように両手を胸の前で組んでいた。


 あと、もう少し。

 このまま、完全に汚れの芯がふやけるまで……。

 俺がそう思った、その瞬間だった。


 ブツンッ。


 杖の中心から、何かが切れるような、嫌な感覚。

 それと同時に、あれほど穏やかだった杖の気配が、一変した。

 安らぎではない。

 もっと、純粋で、原始的で、そして底なしの……『飢え』そのものへと。


 ゴポッ……。


 聖水に浸かっていた杖から、黒い気泡が一つ、浮かび上がった。

 そして、それを皮切りに、杖全体から、黒い霧のようなものが、とめどなく噴き出し始めたのだ。

 霧は工房の天井に達すると、まるで意思を持つかのように、一つの場所へと集まり始める。


「な、なによ、あれ……!?」

 リリアの、切羽詰まった声が響いた。

 黒い霧は、ゆっくりと、しかし確実に、人の形をとり始めていた。

 痩せこけた体に、落ち窪んだ眼窩。長く伸びた指先は、何かを求めるように虚空を掻いている。

 それは、憎しみでも、悪意でもない。

 ただ、純粋な『飢え』だけを体現した、絶望の塊だった。


「怨霊……ですの!? なぜ、浄化の最中にこんなものが……!」

 セナさんが、青ざめた顔で叫ぶ。


(しまった……! 浄化で力が戻ったせいで、飢えの『記憶』だけが暴走したのか……!)


 俺が内心で焦るのも構わず、人の形を成した『飢餓の怨霊』は、その空虚な瞳で、ゆっくりと工房の中を見回した。

 そして、その視線が――俺に、ピタリと固定された。


『……ク……レ……』


 それは、声とも呼べない、風が漏れるような音。

 だが、俺たちにはハッキリと聞こえた。

 その魂からの叫びが。


「させないわよッ!」


 最初に動いたのは、リリアだった。

 彼女は一瞬で腰の剣を抜き放つと、怨霊に向かって疾風のごとく駆け出す!


「喰らいなさいッ! 【神速連撃(アクセル・ラッシュ)】!!」


 神速の籠手(ブレイズ・ガントレット)が赤い光を放ち、リリアの剣が目にも留まらぬ速さの斬撃となって怨霊を襲う。

 だが――。


 スッ……。


 剣は、何の手応えもなく、怨霊の体をすり抜けた。

 まるで、霧を斬ったかのように。


「なっ……!?」

 リリアが驚愕に目を見開く。

「物理攻撃が、効かない……!?」


「ならば、これで! 《エア・バインド》!」


 すかさず、セナさんの魔法が発動する。

 怨霊の四肢に、不可視の風の鎖が巻き付く。だが、それも無意味だった。

 風の鎖は、実体のない霧を縛ることなどできず、虚しく霧散していく。


「そんな……! 魔法も……!?」

 セナさんの顔に、絶望の色が浮かぶ。


「……こっちを、見ろ!」


 クロエさんが、俺の前に立ちはだかり、神護の大盾(イージス・プライマル)を床に叩きつけて怨霊を挑発する。

 だが、怨霊はクロエさんには目もくれなかった。

 その空虚な瞳は、ただひたすらに、俺だけを見つめている。

 まるで、極上のご馳走を見つけたかのように。


『……モット……クレ……』


 怨霊は、ふわりと宙に浮くと、仲間たちを意にも介さず、俺に向かってゆっくりと近づいてきた。

 一歩、また一歩と、その距離が縮まっていく。


(やばい、やばい、やばい……!)


 俺は今、浄化槽にエネルギーを注ぎ込み続けているため、一歩も動けない。

 ここで手を離せば、浄化は失敗し、杖は二度と元に戻らないかもしれない。

 だが、このままでは――!


「くそっ、どきなさいよ!」


 リリアが再び斬りかかるが、やはり剣は空を切るだけ。

 怨霊の歩みは、止まらない。


「あ、アラタ様! お逃げください!」

「……ダメ! アラタに、触らせない!」


 セナさんとクロエさんも、必死に俺と怨霊の間に立とうとするが、怨霊は二人をまるで存在しないかのように、すり抜けていく。


 もう、俺と怨霊を隔てるものは、何もなかった。


『……オマエ……ノ……イノチ……』


 怨霊が、骨と皮ばかりの腕を、ゆっくりと俺に向かって伸ばしてくる。

 その指先から、俺の生命力を根こそぎ吸い尽くそうとする、底なしの渇望が伝わってくる。


「や、やめろ……! 来るな……!」


 俺は、恐怖に引きつった声を上げる。

 だが、怨霊は止まらない。

 その指先が、俺の額に触れようとした、その時だった。


「アラタッ!」

「アラタ様!」

「……逃げて!」


 仲間たちの悲痛な叫びが、工房に木霊した。

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