イクリール・サーガ
アルフライラ
1章 軋轢はいつしか、埋まらない溝に
1話 眠れない夜
聖ガイア歴292年 炎竜の月 5日
コンコルディア地方 クローネ領
クローネ家屋敷
陽射しが頬を焼きそうなほど暑いが、風は清涼で心地よい夏。
クローネ家の屋敷の修練場にて、母が男の子に弓の手ほどきをしていた。
「羽根をしっかり持って……呼吸に合わせて右肘を引き、自分のタイミングで打ちなさい」
「ふぅ……」
ーーギリ、ギリ、ギリ
ーーカッ
ーーズッ
矢は的のやや右を逸れ、近くの地面に突き刺さった。
「外した……」
少年は地面に刺さる矢を見つめ、項垂れた。
「外しても、ちゃんと残身はとりなさい。敵はいつでもあなたを狙っているわ」
母は少年に矢の先を向け、脅しかける。
「わかりました」
少年--ライオットは二の矢を構えながら母を仰ぐ。
ミセリアは笑顔を向ける。
優しいが、どこか計算高い笑顔。
「あ、シャラそれ取ってこい」
「はい、ただいま」
外した矢を、臣下の少女シャラに拾ってくるように命じた。
黒髪の可愛らしい少女は小走りで地面に刺さった矢を拾いに行く。
その様子にミセリアは目を見開き、大きく息を吸い込んだ。
「人に対して、その口の聞き方はないんじゃ無いッ?! 何様なのッ?!」
「……ッ! ごめんなさい」
ライオットは首をすくめ、嵐が過ぎるのを待つ。
「……私もきつく言ってごめんね。今後、人に物を頼む時は礼儀正しくしなさい。それが臣下であったのなら、なおの事」
「分かりました母様。ですが、それはなぜですか?」
ミセリアは小声で
「えっとね……その方が、相手は気持ち良く頼みを聞いてくれるの……ちょっとした言葉一つで、相手は快く従ってくれる……これは便利な魔法よ」
「はい、わかりました」
「これで、ライオットも魔法使いよ……うっ……ゴホゴホッ」
「母様。大丈夫?」
ライオットは心配そうに母の背中をさする。
「……ええ、大丈夫よ」
「病気、早く治してください!」
「……げほげほ。ライオットの子どもを見るまでには治してみせるわ!」
ミセリアは病を患っていた。
彼女は昔『魔弓』として鳴らしていたが、療養を余儀なくされていた。
「……さ、今日は終わり。お茶にしましょう! シャラちゃんも行くわよ」
「はい母様。本日もご指導、ありがとうございました」
「私まで、お茶に呼んで頂きありがとうございます」
---
数名の黒い重装騎士とカイゼル髭を蓄えた男がクローネ家を訪ねてきた。
お茶を終えたライオットは、その様子を階段下のスペースから静かに見つめていた。
クローネ家領主ファーゼンが出迎えようとすると、カイゼル髭は「補給活動の途中に寄ったまで」として、軒先での立ち話を選んだ。
カイゼル髭の男――ダイモスは声を張り上げる。
「ファーゼン殿ッ! そなたほどの力がありながら、何故、その力を十字軍にて振るわないのだッ!」
ダイモスは口を一文字に、ファーゼンの返答を待つ。
他の騎士達は身じろぎもせず、整然と静観していた。
「ダイモス卿。申し訳ないが、十字軍には戻れぬ」
ダイモスは残念そうに首を横に振る。
「我が黒曜騎士団が意に介さぬと申すのか? ならば、残念だが、他騎士団でも……」
「いえ、そうではありませぬ。我が細君が、私の支えを必要としているのだ」
「……いずれ、そなたには十字軍に戻って貰うぞッ!」
黒い騎士達が遠ざかっていくのを確認してから、ファーゼンは扉を閉めた。
「帰ったか……」
ファーゼンは小さく嘆息する。
「父様、あいつらワルモノ?」
ライオットは遠ざかって行く黒曜騎士団の背中を見つめていた。
旗印にはクロスした剣のマークが見え、その下には勇ましき黒い獅子。
子ども心をくすぐる意匠。
「ライオット……彼らは悪者ではなく、イイモノだぞ」
「英雄?」
「そうだ」
「俺もなれる?」
「なれるとも。なってくれないと困る。父さんは面倒だからならんがな。ガハハ」
「ガハハ」
ファーゼンは手を腰に当てて笑い、ライオットもそれを真似した。
「父様、いつものアレやって!」
「あぁ。任せておけ!」
ファーゼンはそう言うと、彼を肩車した。
窓からは、先ほどの黒い騎士団が見えた。
「あ、さっきの黒いやつらだ!」
「良く見えるか?」
窓から見える黒曜騎士は、道端の共同墓地に向かい、祈りを捧げている。
「うん。なんか祈ってる」
「そうか、似合わんな」
「似合わない」
「いい奴らだろ?」
「うん、多分!」
---
夜の帳が下りてくると、この季節はバルコニーから蛍が望める。
最近は、弟ローレルの世話が必要な事もあり、母が来るのは遅い。
不満。
「母様……ローレルのとこか?」
弟ローレルはすやすや眠っていた。頬をつついて弟の部屋を出ると、母が来ないことに胸がざわついた。
「……また、父様とお酒を飲んでいるのかな」
母に本を読んで貰えないと、よく眠れない。
お気に入りは騎士物語。
廊下の窓の外では、蛍が一斉に飛び立った。光が消える。
「……う、母様、どこにいるんだよ」
---
いつもより、居間がやけに遠く感じた。
居間を覗くと、母が床にうつ伏せで横たわっていた。
「ん、なんでこんなところで寝ているんだ?」
近寄ると、腹部に短剣が突き刺さっていた。
血はまだ温かく、床に滴る。
「……っ! 母様!! 母様ッ!!」
「ながいかみ……あの、ながいかみ……」
「かみって何の事ッ!? 母様! しっかりしてよッ! お願いだから……う、う、……」
「…………あ、ライオ……ト……ごめんね……」
ミセリアは辛うじて息があったが、握っている手は冷たい。
直に息絶えることが、子どもでも分かる。
「おいどうした! ……ミセリアッ!! 直ぐに助けるッ!!」
寝巻き姿のファーゼンが駆け寄る。
ファーゼンの姿を認めた途端、ミセリアの手から力が抜けた。
最後に、音声を発さない言葉を話す。
その言葉は「ありがとう」だと理解できた。
彼女は神の
全身から力が抜けて、心臓に穴が空いた様だった。
--ドサッ
ファーゼンは、力無くその場に崩れ落ちていた。
「ミセリア……」
短剣には聖騎士のエムブレムが彫られている。
「……あぁ……母様……」
ライオットは母のまだ暖かい
良き師、良き母を同時に失ったのだ。
心は悲嘆に満ちている。
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