第2話
先ほどの話を現代風にアレンジしたものをここに著す。これが現実にならないことを願う。
北海道・南富良野町幾寅。
雄大な大雪山系の山々に囲まれ、空知川の清流がわたるこの土地は、令和の時代になってもなお、自然の息吹を濃く残している。観光化が進んだとはいえ、森は深く、獣道が蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
令和七年七月二十日――その日、村に静かに忍び寄っていた“影”を、誰も知らなかった。
◆
小学五年生の坂本美桜(みお・11)は、夏休みの初日を迎えていた。両親は朝から畑に出ており、自宅にひとりで残るのは珍しいことではない。
リビングのテレビでは、地方ニュースが淡々と流れ、蝉の声が窓の外で重なっていた。
昼過ぎ、美桜はスマホで友達から送られてきた動画を見ながら、麦茶を飲んでいた。玄関のほうで「ガタ…」と何かが揺れるような音がしたのは、そのときだった。
(風かな……?)
そう思ったが、胸の奥に小さなざわつきが残った。
次の瞬間、廊下に“重い影”が落ちた。足音ではない。何かが床を押しつけるような気配。
美桜が玄関へ目を向けると、視界に飛び込んできたのは、信じがたい黒い巨体だった。
ヒグマ――。
それは、観光ポスターで見る穏やかな姿ではなかった。濡れた土の匂いを漂わせ、野生の息を荒く噴き、まっすぐ少女を見据えた。
悲鳴を上げる暇はなかった。獣は玄関を押し破る勢いで室内に入り、家具を弾き飛ばしながら美桜へ突進した。
スマホが手から落ちる乾いた音が、家の中に虚しく響いた。
◆
午後四時、畑から戻った坂本夫妻は、家の前に広がる異様な光景に立ち尽くした。
玄関の扉は破れ、土がついた大きな足跡が家の中へ続いている。
「……美桜?」
呼んでも返事はない。嫌な汗が背中を流れた。
すぐに110番と町内の有志グループへ連絡が入り、捜索が開始された。北海道は近年、人里にヒグマが出没する事例が急増しており、住民も危機感を抱いていた。
数十分後、自宅から50メートル離れた草地で、点々とした血痕が見つかった。ドローンが飛ばされ、警察犬が投入される。
さらに50メートル先、イバラの茂みに白地の布きれが絡まっていた。
母はその場で膝を崩した。
「これ……美桜の……Tシャツ……」
村の空気が凍りついた。
日没が迫る中、捜索隊は林の奥へと足を踏み入れた。熊よけの銃声が遠くで鳴り、ヘッドライトが笹の密林を照らす。
そして――自宅からおよそ700メートルの笹藪で、最悪の形で発見は訪れた。
隊員の無線が震えた声で告げる。
「……対象、発見……意識なし……」
保護具に身を包んだ数名が近づき、光を当てた。
そこには、激しい攻撃の痕跡が生々しく残る“現実”が横たわっていた。
母の泣き叫ぶ声は、夏の森にいつまでもこだました。
◆
事件後、町と警察はヒグマの追跡に全力を注いだが、個体の特定は困難だった。山の奥深くへ戻ったのか、範囲外へ移動したのか、確かな手がかりは得られないまま、捜索は縮小された。
ニュースは連日、この事件を伝えた。
「幾寅のヒグマ襲撃事件」――そう呼ばれ、一部の週刊誌は事件の詳細を過度に強調した形で報じていた。臀部と両足の肉はほとんど食い尽くされ、周囲には内臓が飛び散り、全身には無数の爪痕が残されていたなどとし、ヒグマの残虐性を示すものだと煽るような論調も見られた。
また、ヒグマが他の肉食獣と同様に柔らかい部位を優先して捕食する習性を持つ点にも言及し、今回の状況がその結果である可能性を示唆していた。さらに、ヒグマは犬以上とも言われる嗅覚と高い記憶力を備えており、人間の味を覚えたヒグマにより今後も被害が拡大するおそれがあると、危機感を煽るような文章が続いていた。
また、最近SNSでは、山中でヒグマに襲われた少女のニュースをめぐって激しい議論が巻き起こっている。
さらに、ヒグマは犬以上の嗅覚を持ち、記憶力も高いとされることから、
「同じ地域で被害が連鎖するのでは」
「学習した個体は危険度が増すのでは」
といった不安が広がり、SNS上では連日議論と情報共有が続いている。
しかし、坂本家にとってその議論は、あまりにも遠い場所の出来事だった。
自然と共に生きるということは、優しさと豊かさを享受する一方で、時に残酷な刃を突きつけられるということでもある。
ただ、人々は静かに願った。
――この土地に暮らす誰もが、もう二度と同じ悲しみを背負いませんように、と。
北海道羆事件 @Nogishuya
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