第5話 プロの指先
風呂上がりの火照った身体をパイル地のバスローブが吸い取っていく。
浴室の鏡に映る自分の顔は湯気でぼやけているが目の下のクマが薄くなっていることだけは確認できた。
血行促進。
副交感神経の優位化。
医学的に正しいリラックス状態。
(よし。これで明日のパフォーマンスは確保できた)
私は濡れた髪をタオルで包みながら洗面所を出る。
思考回路がまだ《効率》や《成果》という単語にしがみついている。
そうでもしないとこの過剰な安らぎに足元を
寝室のドアを開ける。
そこは私の知っている寝室ではなかった。
「お待ちしておりました」
大和なでしこがベッドサイドに立っている。
部屋の照明は極限まで落とされキャンドルライトのような揺らぎのある光源だけが四隅に配置されている。
空気清浄機からはラベンダーではなくもっと重厚で官能的なイランイランとサンダルウッドの香りが漂っていた。
ベッドの上には大判のバスタオルが敷かれその横には琥珀色のオイルが入った小瓶が並んでいる。
「……何これ」
「本日のメインディッシュです」
彼女は小瓶を手に取り体温で温めるように掌の中で転がした。
「オプション《ディープ・ティシュー・マッサージ》。凝り固まった深層筋肉へのアプローチ。貴女の背中は鉄板を通り越してコンクリートのようですから」
「そんなに酷くないわよ」
「いいえ。呼吸が浅い。肩が上がっている。歩くたびに
彼女は断定した。
プロの診断。
反論の余地を与えない声色。
「バスローブを脱いでうつ伏せになってください。大丈夫、タオルは掛けておきますから」
命令ではない。
けれど拒否権のない提案。
私は言われるがままにローブの紐を解く。
肌が空気に触れて粟立つのを感じながらベッドに横たわる。
シーツの冷たさと掛けられたタオルの温かさ。
視界が枕に埋まり聴覚と触覚だけが鋭敏になる。
「失礼します」
衣擦れの音。
彼女がベッドに乗り上げてきた気配。
私の
重くない。
むしろその重みが心地よい圧となって私をマットレスに縫い付ける。
「……ひゃ」
背中に垂らされたオイルの感触に思わず声が出た。
冷たいかと思いきや人肌よりも少し熱い。
粘度の高い液体が肩甲骨の窪みに溜まり重力に従って脇腹へと流れていく。
「力を抜いてください。貴女は戦場にいるわけじゃありません」
彼女の両手が私の背中に触れる。
最初は優しく全体にオイルを馴染ませるようなストローク。
大きな波が寄せては返すようなリズム。
私の背中は海岸線だ。
彼女の手のひらが波となって私の輪郭を侵食していく。
(気持ちいい……けど、くすぐったい)
まだ理性が抵抗している。
私は無意識に奥歯を噛み締めていた。
「……頑固ですね」
なでしこが小さく笑った気配がした。
「そこまで鎧を着込んで、重くなかったですか?」
不意に彼女の親指が沈み込んだ。
肩甲骨と背骨の隙間。
神経が密集するサンクチュアリ。
「っぐ、ぅ……!」
激痛ではない。
けれど脳天まで突き抜けるような鋭い響き。
「ここ。
彼女の指は正確無比だった。
ミリ単位のズレもなく私の疲労の核(コア)を捉えている。
グリ、グリ、と指先が螺旋を描くたびに私の内側に蓄積されていた錆びついた感情が強制的に剥がれ落ちていく。
「あ、ぅ……そこ、は……」
「痛いですか? それとも気持ちいい?」
「わか、らない……変な、感じ……」
「それが《解毒》です」
彼女は体重を乗せてさらに深く指を沈める。
私の筋肉繊維の一本一本を解きほぐし再構築していく作業。
それはマッサージというよりは精密機械のオーバーホールに近かった。
私の身体は壊れかけた機械だ。
油を差され歪みを矯正され本来あるべき形へと戻されていく。
(だめ。思考がまとまらない)
明日のスケジュールのことを考えようとする。
M&Aの資料。
クライアントへのメール。
けれどそれらの単語が泡のように浮かんでは消える。
彼女の指が動くたびに脳内の配線がショートし強制再起動を繰り返しているようだ。
「玲奈さん」
耳元で名前を呼ばれた。
いつの間にか彼女の顔がすぐ近くにある。
「貴女は頑張り屋さんです。でも、頑張るのと無理をするのは違います」
彼女の手が首筋へと移動する。
私の最大の弱点。
後頭部の生え際。
そこに親指が添えられた瞬間私は完全に白旗を上げた。
「ぁ……」
「力を抜いて。頭の中を空っぽにして。全部私に預けて」
巧みな話術(ヒプノシス)。
彼女の言葉は暗示となって私の脳幹に直接染み渡る。
首筋を撫で上げる手つきは官能的ですらあった。
性的な意味ではない。
もっと根源的な、母胎に回帰するような安心感と快楽。
「ん……ふぅ……」
口から漏れる吐息が熱い。
彼女の指先が私の頭皮を捉え円を描くように揉みほぐす。
頭蓋骨の中で凝り固まっていた思考の泥が溶け出し耳から流れ出ていくような感覚。
(溶ける)
(私が、私じゃなくなる)
バリキャリとしての如月玲奈。
年収二千万円のシニアアナリスト。
そんな肩書きはどうでもいい。
今の私はただの肉塊。
彼女の手によって愛でられケアされるだけの無力な有機生命体。
「……んっ、あ……」
「いい声です。もっと素直になっていいんですよ」
彼女は私の反応を楽しんでいる。
サディスティックなほどに丁寧な愛撫。
逃げ場はない。
ベッドという檻の中で私は彼女の指先に支配されている。
「玲奈さん。ここ、気持ちいいでしょう?」
「ん、んぅ……すき……」
「はい?」
「それ……すき……」
語彙力の崩壊。
私は自分が何を口走っているのかも分からなかった。
ただ快楽の発生源をもっと刺激してほしいという本能的な欲求だけがあった。
「ふふ。正直でよろしい」
彼女は満足げに囁き、最後の仕上げとばかりに首筋から肩にかけてを強く、長く、愛おしげにさすり上げた。
その一撫でで私の意識のスイッチは完全にオフになった。
暗転。
深い、泥のような眠りの底へ。
……
…………
……
気がつくと私は仰向けに寝かされていた。
部屋の明かりは消えベッドサイドのランプだけが温かく灯っている。
身体が軽い。
重力から解放されたように浮遊している。
「……起きましたか?」
枕元で声がした。
なでしこが座っている。
私の髪を乾かしてくれていたのだとドライヤーの音で気づいた。
最新の静音モデル。
風は熱すぎず冷たすぎず人肌の温度で私の髪を
「……わたし、寝てた?」
「ええ。三十分ほど。泥のように」
彼女は櫛を通しながら微笑む。
「髪、サラサラになりましたよ。明日の朝はセットが楽になるはずです」
彼女の指が髪の間を滑る。
その感触があまりに心地よくて私はまた
「……ありがとう」
「お礼には及びません。これが私の仕事ですから」
仕事。
その言葉に一瞬だけ胸が痛んだ。
これほどの快楽も安らぎも全ては契約に基づくサービスなのだという事実。
けれど今の私にはそれを悲しむ気力さえ残っていない。
むしろ感謝していた。
仕事でよかった。
もしこれが愛なら私はきっと重すぎて潰れてしまう。
仕事だからこそ私は対価を払いこの快楽を
「ねえ、なでしこ」
「はい」
「来週も……これ、やってくれる?」
「オプション料金が発生しますが?」
「……構わない。言い値でいい」
「ふふ。毎度あり」
彼女は私の額に落ちた前髪を払い、そっと、本当にそっと指先で触れた。
「おやすみなさい、玲奈さん。良い夢を」
その指先の感触を最後に私は再び深い眠りへと落ちていった。
夢は見なかった。
ただ彼女のイランイランの香りだけが、朝まで私を守る結界のように漂っていた。
私の鎧は今夜完全に溶解した。
そして明日また私は新しい鎧を着て戦場へ向かうのだろう。
彼女という帰る場所がある限り私は何度でも戦える。
それが依存の始まりだとも知らずに。
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限界バリキャリ、月額50万で「プロのヒモ女子」を飼う。 〜天国か地獄か?帰宅即、全肯定甘やかし生活〜 lilylibrary @lilylibrary
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