社会はそれぞれの我慢が制御している

ささみ

第1話

 渋谷駅のホームには落下防止を防ぐためのホームドアがついていない。

 誰でも知っているが渋谷駅はバカみたいに人の量が多く、それはよくニュースなどで映るスクランブル交差点を見ればよくわかることだろう。

 早朝となればさすがにそこまで人は多くないがちょうど夕方から夜にかけては、できることならこんな場所にはきたくない思うほどの人口密度だ。

 改札を通るまでにおっさんの加齢臭と整形おばけの香水が四方八方から襲い掛かってくるし、いざホームに上がってもどこに並べばいいかもわからないほど人で埋め尽くされている。

 しっかり並んでも電車が来た途端割り込まれることは多々ある。特に、電車がきたと同時くらいにホームにきた人は割り込むケースが多い。

 たまに、こんな渋谷駅のホームでも先頭を陣取れることもある。俺の帰る時間はいつもホームに人がパンパンだから仕事が遅れて数本電車を逃した時にこれが起きるのだ。

 無論、駅に向かう人の量はさほど変わらない。だがちょうど電車が出る直前に到着しホームへ上がるため人がみんな乗ったばっかで、ホームの人はまばらなのだ。

 ただ、先頭に立って電車を待っているとよくないことばかり頭に浮かんでしまうことがある。


 会社でこっぴどく怒られたり仕事がうまく進んでいないと気分がひどく落ち込む。

 女性の上司なのだが少しヒステリック気味でなんでわからないの、どうしてできないの、って捲し立てるように金切り声を浴びせてくる。

 そんな日々が続いた時にホームに立つと、まるで線路に吸い込まれるような引力を感じることがある。

 この引力に身を任せれば眠れない夜を過ごさずにすむ、もうあの嫌な声を聞かなくてすむ。

 そう思うと、自ら一歩を踏み出すことさえ容易な気がしてしまうのだ。

 体が一歩前へと進もうとした時、警笛が鳴り響き目の前に電車が現れる。

 警笛は俺に向けられたものではなく、ホームと線路のギリギリを歩いていた別の人に向けられたものだ。

 おかげで線路に吸い込まれずにすんだが、同時に解放されない日々がまた続くのだと絶望も感じる。


 ある日、また上司の金切り声を浴びせられていた。

 今回は自分のミスではなく上司の伝達不足から起きてしまったことだ。

 だというのに、上司ときたらその程度も察せないのかと自身のミスを棚に上げてこちらにばかり責任を押し付けてくる。

 ふと、悪い考えが頭をよぎった。

 もしここで俺が狂って上司に手を上げたらどうなるだろうかって。

 クビは免れないだろうし傷害事件として扱われるかもしれない。

 でも、それこそが解放の一歩なんじゃないかとさえ考えてしまう。

 だって、上司の体はスタイルがいいというよりもただ痩せているだけのよくいるおばさんだ。

 年齢も四十過ぎくらいだろう。正確には知らない。

 俺は体育会系ではないが身長は頭一つ分以上高いし、そこそこ力には自信がある。

 

 イメージしてみた。

 デスクの向こう側で座っている上司の横まで行き、いきなり襟をつかんで引き寄せ持ち上げて、顔面に一発お見舞いするイメージだ。

 きっと見たことない表情をすることだろう。まさか殴ってくるとは思わなかったと。

 すぐに正気にもどって大問題になると捲し立ててくるだろう。

 そんなの構いはしない。まだ痛みがひいてない中、話を聞かずまた一発、そしてもう一発。

 倒れたなら蹴ってしまえばいい。

 さて、周りの人が止めるまでにどれほど時間がかかるだろうか。

 おそらく、最初は何が起きたのかと状況把握に数秒、止めなきゃと言う思いをもちながらも自分が殴られたら嫌だと止まってる時間が数秒。

 動けない人と警備を呼んでくる人が確定し、やりすぎればようやく誰かが止めてくるだろう。

 その人を皮切りにあと何人か止めに来るだろう。

 でも、それまで結構な回数殴れるし蹴れる。

 その後俺は警察に捕まるだろうが気になるのは上司だ。

 いままでと同じように振る舞えるのだろうか。

 立場が上だから横柄な態度をとることもわからなくはない。

 だが、もしその態度が自分を傷つける原因になっていたならどうするだろうか。


 あ、そうか。

 俺はいつでもこの人を殺せるんだ。

 ナイフなんてもたなくてもこの身一つでいつだって殺せる。

 金切り声を浴びせられる中、俺はいつもよりもデスクへ一歩近づいた。

 その時、上司が一瞬どもるように言葉を止めたがそこはさすが上司だ。プライドが心の揺れを止めて再び捲し立ててくる。

 俺はまた半歩前に出た。

 まるで、座っている上司を見下すように。

 その瞬間、さっきまで鬼のように思えていた上司がなんだか声だけはうるさいチワワのようにみえてきた。

 上司の顔がいつもと違うのがわかる。

 どこか探り探り言葉を多少選びながら、威勢を落とさないようにしている。

 そうか、社会ってのは一人一人が我慢してあげてるから平和に回っているんだ。


 もし、みんなが常に懐にナイフを忍ばせていて、いつでも使っていいなら、迷わず使う場面は少なくないんじゃないか。

 こいつのために自殺するなんてどうかしている。

 こいつのことでいつも悩むなんてどうかしている。

 こいつのことを考える一分一秒が無駄だ。

 だから、感謝してほしい。

 まだこのナイフは使わないで起きます。

 ただ、またあんたのミスでこんな風に責任を押し付けられるなら、抜く覚悟はできてますよ。

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社会はそれぞれの我慢が制御している ささみ @experiments1998

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