傘ひとつ

阿羅田しい

第1話 祭り

 あれは、私が十歳とおになったばかりのころでしょうか。

 その日は朝からカンカン照りで、入間川を渡るお昼時分にはすっかりうだるような暑さになっておりました。前の日から歩き詰めだった私は、そのころにはもうへとへとです。


「おさよ、あとちっとんべぇの辛抱だべ。この川を渡れば江戸はすぐだんべ」


 揺れる舟の上で、私の様子を心配した父が笑いかけました。ええ、もちろん、今ならわかりますとも。狭山の入間川から江戸までまだまだ随分先だということは。でもね、上州で生まれ、上州から出たことのない子どもがそんなこと知るよしもありません。私は父の言葉をただただ信じてついていくしかなかったのです。


 向こう岸に降り立つと、すぐそばには大きな宿場がありました。いろいろなお店屋さんが立ち並び、活気に満ち溢れ、大勢の人が行き交う光景にびっくりしたのを覚えています。

 目を丸くしながら父の後を歩いていると、どこからともなくお囃子の音が聴こえてきました。


「祭りだいね。おさよ、行っでみんべ」

「うん!」


 私はもう嬉しくって嬉しくって、さっきまでの疲れが赤城山まで吹っ飛んでしまったかのようでした。ピーヒャラテンテン、ピーヒャラテンテン、と響きわたる笛と太鼓にもう大興奮。

 心を躍らせてキョロキョロしていたところへ、父がお団子を買ってきてくれました。


「うんめぇ! おとう、なっからうんめぇなぁ」

「そうか、うんめぇか。ほれ、おとうのも食え。うんと食え」


 勧められるがままにお団子を頬張り、あっという間にぺろりと平らげてしまいました。ご存じの通りうちは貧しい百姓でして、これほど美味しいお団子など食べたことがなかったのでございます。

 そうですね……。貧しい百姓なのに、なぜ舟に乗ったりお団子を買ったりするお金があったのか、幼い私には考えも及びませんでした。今思えば、ですがね。


 そのまましばらくお祭りを楽しんでいたところ、突然父が鼻をひくつかせました。私も真似して鼻をひくひくさせました。すると、すぐに父が立ち上がり、言ったのです。


「行ぐべ。おっつけひっつけ雨が降る」


 走り出す父の背中を追いかけながら、不意に空を見上げました。西の方から真っ黒な雲が迫ってくるのが見えまして。私らは根っからの百姓ですから、雨が降るときはすぐにわかるんですよ。

 ほどなくしてゴロゴロと雷が鳴りはじめ、案の定、ポツリ、ポツリと雨粒が落ちてきました。私たちは急いで軒を貸してくれそうなところを探しました。祭りにいた人たちも皆雨宿りしようと、一斉に駆け出していましたね。


 土地鑑もなくウロウロする父の背中を見失うまいと、私も必死になっていましたが、そのときふと、あることに気づいたのです。よくよく見れば、祭りのお客たちが皆同じ方向へ走っていくではありませんか。はじめは気のせいかとも思ったのですが、どこからどう見ても同じ方へと駆けていく。不思議に思った私は父にそのことを伝えました。


「おとう、みんなあっちに飛んでぐべ。ぼっとかすると、でっかい木でもあるんだべか?」

「木の下は駄目だ。雷が落っこちる。けんど……」


 一様に同じ方向へと走る人波が父も気になったようで、とりあえず私ら親子も皆の後をついていくことにしたのです。

 しばらく行くと、長蛇の列に出くわしました。並んでいたのはさっきの祭りにいた人たちです。父が、一番後ろに並んでいた人に尋ねました。


「もし、皆さま、なにを並んでいなさるんきゃ?」

「あんた、旅のお人かい? 知らんのも無理ねぇ。こちらの山下屋さんはお大尽さまだで、こうして雨が降ると傘を貸してくださるんだ」


 傘、と聞いて私は頭に乗せる笠を思い浮かべていました。なにしろ貧しい百姓でしたからね。雨が降れば笠と蓑でしのぐものですが、それすらもなく濡れるがまま。そんなのが当たり前で、笠を貸してくれるというだけで仏様のようなものです。


 その仏様、いえ、山下屋さんというのは、狭山の入間川では有名な大金持ちで、その頃は十五代目の綿貫淑之というお方がご当主とのこと。西の鴻池、東の綿貫と並び称されるほどの豪商だとか。あ、ほら、神田にあった山下屋さん、あれがそうですよ。神田は支店で入間川が本店なのです。

 まぁ、豪商と言ったって、どれほどのお金持ちかなんて私にはとんと想像もつきません。とにかくお金をたくさん持っているから、みんなが借りに来ましてね。お金を貸した相手はお大名や旗本などのお武家さんが多くて、中には徳川幕府のご老中なんてのもいらしたそうですよ。そうそう、昔は、名裁きで有名なあの大岡越前とか、江戸の豪商茶屋四郎次郎にも貸したことがあるとか。豪商が豪商にお金を貸すとかって、どれだけお金持ってるんだって話ですよね、ふふふ……。


 ああ、話が逸れてしまいましたね。そんなわけで私たち親子も、その傘を貸してもらえるという列に並んだのです。

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