第23話 共同生活空間の創造
**視点:美咲(私)**
大掃除を終えた高橋家の二階の元客室は、真新しい生活の匂いに満ちていた。窓ガラスは拭き清められ、湘南の海が青く輝く光が、部屋の隅々まで差し込んでいる。ここは、もはや埃を被った元客室ではない。雅美(悠人の母)と香織(私の母)の冷徹な契約によって、私たち二人に強制的に与えられた、愛の共同生活空間となったのだ。この部屋は、私たち二人が、これから四年間、夫婦として修行に励むための、逃げ場のない道場となった。
悠人は、私から受け取った小さなリュックの中の私物を取り出し始めた。私の服は数日分しかなく、雅美と共に選んだ高橋家の体面にふさわしい普段着が大部分を占めている。私は、自分の過去の甘えと、未来の責任の対比を、この荷物の少なさに見た。リュックの底に残された、幼い頃の写真が、私の人生の転換点を静かに証明している。
「美咲、これ、どこに置く?」
悠人が取り出したのは、私が実家から持ってきた、色褪せた家族写真と、私たち二人が幼い頃に撮ったスナップ写真数枚だった。それは、私が「過去のすべて」として選んだ、たった一つの大切なものだ。
私は、部屋の隅にある、背の高い本棚の横に置かれた、小さなサイドテーブルを指差した。
「そこ。色褪せの原因になる外光が直接当たらず、それでいて一番室内光が当たる場所。でも、一番目立たない場所。私たちの、過去の秘密の場所よ」
悠人は、私の意図をすぐに理解し、写真を丁寧に並べた。彼の言葉は、常に私の独占欲という名の要求を、彼の責任という名の献身で受け止めてくれる。私は、その彼の一挙手一投足に、私への愛の証を探していた。この小さな写真の配置一つにも、これから始まる私たちの共同生活における、力学と秘密の共有が暗示されている。
次に、悠人は自身の荷物を取り出し始めた。彼が持ってきたのは、大学で使う建築学科の専門書、高橋建設のロゴが入った社章、そして父親から贈られた、職人向けの丈夫な腕時計だった。彼の荷物は、私とは対照的に、すべてが「責任」と「未来」に繋がる、実用的なものばかりだ。彼の荷物の一つ一つが、私との愛の契約が、彼の人生にとってどれほど重い意味を持っているかを、静かに物語っていた。彼という存在が、この高橋家という巨大な組織の中で、私という小さな存在を受け入れるために、自ら進んで責任を背負っているのだ。
私は、彼の荷物の一つである、高橋建設のロゴが入った社章を手に取った。冷たい金属の質感は、私という存在が、今、この家と、この会社という巨大な組織に、正式に組み込まれようとしていることを教えてくれた。私の永久就職は、彼という個人だけでなく、彼の背後にある、社会的な重みと、完全に結合したのだ。この結合は、私に、Bカップのコンプレックスを凌駕する、強烈なアイデンティティの獲得をもたらした。
「ねえ、悠人。この部屋、私たち二人だけの匂いにしたい。彼の部屋の匂い、そして私の新しいインナーウェアの匂いで、上書きしたいの」
私は、そう言って、彼の汗ばんだTシャツの匂いを嗅いだ。彼の匂いは、私にとって最高の安心の匂いであり、彼の存在がこの部屋の隅々まで満たされていることを確認したかった。私は、この部屋のすべての空間を、彼という存在で満たしたかった。
悠人は、私の衝動的な要求を、優しく受け止めた。彼は私を抱きしめ、額を私の額に押し付けた。
「ああ、そうしよう。美咲の匂いと、俺の匂いで、この部屋を、私たちだけの城にするんだ。誰にも立ち入れない、俺たちだけの空間を。この部屋は、雅美にも、香織さんにも、立ち入り禁止の聖域だ」
私たちは、新しい生活の場である元客室を、私たち二人の私物と、愛の痕跡で埋めていった。ベッドには、雅美が用意した真新しいシーツが敷かれ、私の部屋着と、彼のスウェットが並んで掛けられる。窓の外には、隣の川上家の屋根が見え、もう実家には帰れないという現実が、この部屋の窓から、鮮やかに突きつけられていた。しかし、その突きつけられた現実こそが、私の独占欲を満たす、揺るぎない城壁だった。
二人の私物が混ざり合い、この部屋は、もはやどちらか一人のものではない。悠人という夫と、美咲という妻の、共同責任の空間となったのだ。私の身体的コンプレックスや生活能力の欠如など、この愛の城を築く共同作業の前では、もはや無力だった。私たちは、今夜の宴会という最終決定の儀式を前に、この空間の創造によって、夫婦としての共同生活を、一足先に始めた。この部屋の静けさと、私たち二人の熱が、私たちだけの未来を約束していた。
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