第7話 母親の発見と衝撃

**視点:美咲(私)**


 ゆっくりと、しかし確実に回されるドアノブの音が、密室に響いた。それは、私たち二人が夜をかけて築き上げた、愛と責任の契約空間が、外部の現実、すなわち社会的な圧力によって侵食される瞬間を意味していた。ドアの蝶番が、微かに軋む音を立て、ドアが内側へ向かって、ゆっくりと開いていく。逆光が、私と悠人の裸の身体を、白く照らした。


 私は完全に硬直し、彼の逞しい胸に顔を埋めたまま、目だけを必死に開けた。開いたドアの隙間から、逆光の中、悠人の母親である雅美(まさみ)の姿が見えた。高橋建設の社長夫人として、常に体面を重んじ、厳格な秩序を要求する人だ。その彼女が、今、息子の部屋の、この状況を目撃しようとしている。その緊張感は、昨夜の快感とは比べ物にならないほど、私を震えさせた。


 雅美の視線は、まず床に落ちた。彼女は、規則的な足音を止めたまま、一瞬、完全に静止した。その視線の先には、昨夜の愛の交渉の激しさを証明する、無造作に脱ぎ捨てられた彼のスウェットと、その横に転がる使用済みのコンドームがあった。銀色の包装紙から覗く、熱と粘性の高い愛の証。それが、私たち二人の犯した罪と、その行為の確実性を、最も露骨な形で雅美に突きつけた。


 雅美は、次の瞬間、視線をベッドへと移した。私と悠人が、熱い肌を寄せ合い、昨夜の誓約の熱を未だ帯びたまま、完全に裸で抱き合っている姿を捉えた。隣同士の幼馴染という関係性は、彼女にとって、まさかこんな事態に発展するとは、夢にも思っていなかっただろう。


 雅美の顔から、すべての表情が抜け落ちた。驚愕、怒り、そして何よりも、体面を重んじる彼女が感じたであろう激しい羞恥心が、その白い顔に張り付いていた。彼女は、声を発することなく、数秒間、その場に立ち尽くした。部屋の中には、私たち二人の汗と、愛の行為の後の生々しい匂いが充満している。その匂いが、雅美の怒りの導火線に火をつけた。


 (ああ、どうしよう。契約書が、公衆の面前で晒された……!)


 私は、羞恥心と、契約を破られたことへの恐れで、身体が震え始めた。昨夜、悠人と交わした「生涯の保証」という誓約は、私たち二人だけの秘密であったからこそ、絶対的な効力を持っていた。それが今、社会的なルール(家族、体面、責任)を代表する雅美という存在によって、公共の契約へと強制的に書き換えられようとしている。


 雅美は、ふいに大きく息を吸い込んだ。その静止した時間の中で、彼女の瞳の色が、怒りや悲しみから、ある種の冷徹な計算の色へと変わったのを、私は感じ取った。彼女は、この状況がもたらす体面上のダメージと、息子を婿としての責任に縛り付け、美咲を将来の妻として囲い込む機会を、一瞬にして天秤にかけたのだ。彼女の心の中で、「大学四年間の自由な恋愛期間」が、「後継者夫婦の早期育成期間」へと効率的に書き換えられたのが見て取れた。


 「あなたたち……」


 雅美の声は、普段の厳格なトーンよりもさらに低く、冷たかった。感情を完全に排除した、社長夫人の事務的な命令だった。


 「いい加減にしなさい。着替えなさい。すぐに。そして、リビングへ降りてきなさい。美咲さんのお母さんには、私が連絡するわ。こういう中途半端な関係は、高橋家として、絶対に認められない。これは、あなたたちだけの問題ではないのよ」


 雅美が発した「中途半端な関係」という言葉が、美咲の胸に鋭く突き刺さる。私たちにとっては生涯の誓約であり、絶対的な契約だったのに、雅美の視点では、それはただの無責任な衝動に過ぎない。しかし、同時に彼女が「認められない」ということは、裏を返せば「正式な形を取れ」という要求に他ならないことを、私は直感的に理解した。


 雅美はドアを勢いよく閉め、その足音は一階へと遠ざかっていった。その足音は、もはや優しさを欠片も含まない、私たちに責任という名の鎖を巻きつけるための、現実の駆動音だった。


 私は、ようやく声を取り戻し、悠人の名を呼んだ。


「ゆうと……! 雅美おばさんに、見られちゃった……」


 悠人は、まだ覚醒しきっていない瞳を開け、私を抱きしめ直した。彼の身体からは、まだ夜の熱が立ち上っている。彼は、床に転がるコンドームを一瞥すると、その顔に、一瞬だけ逃げ場のない戸惑いの表情を浮かべた。彼の目には、昨夜の愛の誓いと、今突きつけられた社会的な責任の重さが、激しく葛藤しているのが見て取れた。しかし、その戸惑いはすぐに消え失せ、深い決意の光が宿った。彼は、自分が家業を継ぐ者として、この責任から逃げられないことを、一瞬で悟ったのだ。


 彼は私にキスをすると、静かに言った。


「大丈夫だ。逃げない。お前との契約は、誰にも破らせない。だが、これはもう、俺たちだけの問題じゃない。高橋家の問題だ。責任を取るぞ、美咲」


 二人は、急いで裸の身体をシーツから引き剥がし、衣服を探し始めた。部屋の空気は、愛の甘さから、冷たい現実の緊張感へと完全に切り替わっていた。


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