ゼロとレイアの名界創世記(ジェネシス)
夢ノ命マキヤ
第1章 世界の継ぎ目に住む少年
夏の終わりに近い午後三時、
橙色の陽がゆっくり傾きはじめた頃だった。
街のはずれ、誰も使わなくなった旧線路のそばに、
一軒だけぽつんと残された赤レンガの図書館がある。
図書館といっても、もう本は置かれていない。
窓は半分以上が割れ、
入り口の看板は、風に揺られるたびに
ため息みたいな音を立てる。
その廃図書館に、
毎日のように通っている少年がひとりいた。
名前は――三ノ宮(さんのみや)ハル。
十三歳。
人見知りで、無口で、
「いるのかいないのか分からない子」と、
クラスで密かに呼ばれている。
ハル自身も、それを否定できないでいた。
別に嫌われているわけでもない。
怒られたことも、ほめられたことも、ほとんどない。
まるで世界の継ぎ目にだけ存在しているような、
そんな、あいまいな少年だった。
だからだろう。
彼が毎日向かうこの廃図書館が、
なぜかとても落ち着くのだ。
図書館の扉は、
押すとぐにゃりと歪むように開く。
物理的な理由ではない。
扉の表面そのものが、
まるで別の方向へ逃げようとしているように揺れるのだ。
近所の大人たちは言う。
「あそこには昔、変な本が置いてあったらしいぞ」
「中に入ると、時間が少しだけずれるんだとよ」
誰も確かめようとはしない。
面白半分の噂話にすぎないのだから。
けれど、ハルは知っていた。
この図書館は――生きている。
その日も、扉を押すと、
ハルの靴先が別の空気へすり抜けた。
埃っぽいのに、澄んでいて、
古い紙の匂いのはずなのに、どこか甘い。
そして、いつものように、
どこからともなくぱちぱちと音がした。
「……いるの?」
返事の代わりに、
奥の棚からもぞっと揺れる影が飛び出した。
ハルは息をのむ。
それは、図鑑と漫画と辞書を合わせて
小さく丸めたみたいな生き物――
ブックモグラと呼んでいるやつだった。
この図書館には、変な生き物が住んでいる。
誰も信じてくれなかったが、ハルは毎日見ている。
ブックモグラは、
読み捨てられた言葉のカスを食べて生きる存在で、
とても臆病だ。
ハルが近づくと、
紙の切れ端を口にくわえたまま、
慌てて棚の陰へ隠れてしまった。
「ごめん、ごめん。驚かせた?」
棚の奥で、
ぱちっと一回だけ返事の音がした。
ハルはいつもの席に座る。
窓際に置かれた古い木製の机。
誰が置いたのか分からないランプが一つ。
机の上には、一冊だけ残された
革表紙のノートがある。
どのページにも何も書かれていない。
ただの古いノート……のはずだった。
しかし、ハルが触れた瞬間、
ページが勝手に光の文字で埋まっていく。
今日浮かび上がったのは、こんな一文だった。
「世界の継ぎ目に気をつけよ。
そこには、忘れられた物語たちが落ちている。」
「……また、これか」
ハルがため息をついた瞬間だった。
背後で、図書館全体が
みしりと鳴った。
床がわずかに沈む。
空気がゆっくり回転する。
そして――
天井からぶら下がる巨大な歯車の影が、
ゆっくりと動きはじめた。
図書館の時間が、
またどこかへズレたのだ。
ハルはノートを開いたまま、
立ち上がった。
「……今日は、何が落ちてくるんだろ」
次の瞬間、
空中にひとつの封筒がふわりと現れた。
そしてハルの目の前へ、
滑るように降りてきた。
封筒には、
黒いインクでこう書かれていた。
三ノ宮ハル様
―世界の裂け目管理局・第一通知―
ハルが息を呑んだ瞬間、
図書館の奥で、
ぱちん!と本棚が弾けた。
そこから姿を現したのは――
本の帯をマントにした、妙に偉そうな小さな老人。
「ようやく見える子が来たな。
三ノ宮ハル、君だね?」
老人は唐突に言った。
「世界がそろそろ、継ぎ目から落ちる。
急いでくれ。
君の出番だよ。」
ハルは、目を丸くしたまま固まった。
「……ぼ、僕の……?」
老人は、にやりと笑った。
「君は、選ばれなかった子の中の、
もっとも特別な――
読者(リーダー) だ。」
図書館の空気が震えた。
ハルの平凡な毎日は、
ここから一気に継ぎ目の外へと引きずり出されることになる。
廃図書館の静けさの中で、
時計の針だけが聞こえるような気がした。
……いや、この建物にはもう時計なんてなかったはずだ。
聞こえているのは、
きっとハルの心臓の音だ。
「読者、って……本を読むリーダーのことですか?」
ようやく絞り出したハルの声は、
自分でも驚くほど、ひょろひょろしていた。
老人は、鼻の下の少しだけ残った髭を指でつまみ、
「ふむ」と意味ありげにうなずく。
「そうとも言うし、
世界を読み替える者という意味でもある」
「読み替える……?」
「そう。
世界は物語でできている。
なのに最近の人間どもときたら、
物語を読みもせず、
『現実がすべてだ』なんて
ひどくつまらないことを言い出した」
老人は、
足元の床を杖の先でこつんと突いた。
その瞬間、
床板の隙間から、
紙の切れ端のような光が一筋、
ふわりと浮かび上がった。
「ほら、こぼれているだろう?」
「……こぼれてる?」
「置き去りにされた夢、
途中でやめられた物語、
誰にも言われなかったありがとう。
そういうものが、
世界の継ぎ目からぽろぽろ落ちているのさ」
老人は、光の切れ端を指でつまむと、
あっさりと口に放り込んだ。
ハルは目を見開いた。
「た、食べた……!」
「まずいな。
最近の未完の物語はカロリーが低い」
ぶつぶつ文句を言いながら、
老人はふたたびハルの方へ向き直る。
「自己紹介がまだだったな。
わしは――」
そこで不意に、
天井の見えない高さから、
声が降ってきた。
《正式名称を省略しました》
《面倒くさいので、愛称で自己紹介してください》
老人は顔をしかめ、
天井を睨み上げた。
「最近の管理システムは、
老人に厳しい……」
ぶつぶつ言いながら、
小さく咳払いをする。
「――ではあらためて。
わしは、世界の裂け目管理局・仮出張所長、
コハク・ページ と申す」
「こはく……ページ?」
「そう。
琥珀色のページ。
過去を封じ込める役目さ」
老人――コハクは、
パラパラと空中をめくるような仕草をすると、
ハルの目の前の封筒を指さした。
「それを開けるといい。
正式な通知だからな。
たぶん」
「たぶん、って……」
ハルの手は、汗で少しだけ滑っていた。
封筒の紙は、
触れると冷たいのに、
指先に吸い付いてくるような感触がした。
――本当に、開けていいのか?
一瞬、迷いが胸をかすめたとき、
ブックモグラが足元をちょんちょんとつついた。
まるで、「開けろ」と言っているようだ。
「……分かりました」
ハルは、
小さく息を吸ってから、
封を切った。
中から出てきたのは、
一枚の薄い紙きれ。
そこには、
非常に簡潔な文が、くねくねとした字で書かれていた。
【第一通知】
三ノ宮ハル 殿
あなたは本日付で、
世界の継ぎ目異常値への
臨時対応者候補として認識されました。
※拒否権は、
現時点では
存在しないものとみなされます。
世界の裂け目管理局
「……拒否権が、ない?」
「そう書いてあるだろう」
コハクは、悪びれもせずうなずく。
「ま、安心しなさい。
命まで取られはしない」
「はしないって……
じゃあ、何かは取られるんですか?」
「そうだな」
老人は少しだけ考えるふりをしてから、
さらりと言った。
「宿題をしている時間とか、
授業中にぼんやりする時間とか、
そういうすでに世界から半分消えかけている時間を
すこーしだけ、ね」
「それ、ぼくの貴重なぼんやり時間なんですけど……」
「大丈夫。そのかわり、
世界の裏側で思う存分ぼんやりできる」
「え、裏側でもぼんやりするの前提なんですか?」
「君の脳の構造を見れば分かる」
いつの間にか、
コハクはハルの頭の周りを
ぐるりと一周していた。
「……どういう意味ですか、それ」
「深く考えると頭が痛くなるから、
今は考えなくていい。
大事なのは――
世界の継ぎ目が、
いま、いつもより危険なほど緩んでいるということだ」
コハクの声色が、
そこでふっと低くなる。
「君の街だけじゃない。
この国も、この星も、
少しずつほころびを隠しきれなくなってきている」
ハルは思わず窓の外を見た。
夕方の光はまだ穏やかだ。
校舎の屋上、
団地のベランダ、
バス停でぼんやりスマホを見ている人たち。
誰もほころびなんて気づいていないように見える。
「……本当に、そんなことが?」
「君には、もう見えているはずだよ」
コハクは、
杖の先で、
ハルの目の横をちょんと突いた。
その瞬間――
世界の輪郭が
すこしだけにじんだ。
窓の外。
団地の壁の隅に、
細く黒いひびのようなものが走っている。
いや、ひびではない。
そこだけ、
景色が二枚重ねになって見えた。
片方は見慣れた灰色のコンクリート。
もう片方は――
見たこともない、深い深い夜空のような色。
「いま、何か見えたかね?」
「……ひび、みたいな。
でも、向こう側が、空みたいで」
「それが世界の継ぎ目さ」
コハクは、
満足げにうなずいた。
「君のような読者だけが、
この二重露光みたいな景色を
はっきり見ることができる」
「読者って……」
「世界の本文と、
その裏に書きこまれた書き足しを
両方読める者のことだよ」
老人は、くるりと身を翻し、
図書館の奥へ杖を向けた。
「では、第一回現地見学といこうか。
世界の継ぎ目ツアー、無料ご招待だ」
「ツアーって、そんな軽いノリで……」
「重く案内すると、
たいていの子どもは途中で逃げる」
「逃げてもいいんですか?」
「ここまで来たら、もう遅い」
コハクが杖を振ると、
図書館の奥の壁が
ざざっとノイズを走らせたように揺れた。
本棚の列が左右に分かれ、
その隙間に、
細長い闇の廊下が現れた。
闇といっても、
真っ暗ではない。
遠くのほうで、
星のかけらのような光が
ぽつぽつと瞬いている。
「さ、三ノ宮ハル。
ここから先は、君の足で歩きなさい」
老人はそれ以上前に進まず、
入り口の手前で立ち止まった。
ハルは、ごくりと唾を飲み込む。
足が、
少し震えていた。
(ぼくなんかが、
こんなところに踏み込んで、
いいんだろうか)
クラスで目立ったことなど
一度もない。
運動もできないし、
テストで満点を取ったこともない。
「ぼくは、普通以下だ」
そう思ってきた。
そんな自分が世界の継ぎ目なんて
大げさな場所に関わっていいのか、
躊躇はあった。
だが、
足元でブックモグラが、
ハルの靴紐を軽くかじった。
「……押してくれるんだね」
ハルは小さく笑った。
そして、一歩、前へ踏み出した。
空気が変わった。
図書館の埃っぽさとは違う、
ひんやりと澄んだ、
でもどこか懐かしい匂い。
耳の奥で、
誰かの読みかけの声が、
重なり合っている。
「――ようこそ。
世界と世界のあいだへ」
コハクの声が、
ずっと遠くの方から響いてきた。
ハルは振り返らなかった。
振り返ったら、
きっともう、
戻ってしまう。
だから前だけを見る。
闇の中に浮かぶ、
ぽつり、ぽつりとした光を目指して。
それが、
ハルと世界の継ぎ目との
最初の正式な出会いだった。
――そしてこの出会いが、
やがて九つの鍵と、
忘れられた神話と、
選ばれなかった者たちの物語を、
すべて巻き込んでいくことになる。
ハルはまだ、そのことを知らない。
今はただ、
胸の中の不安と、
少しのわくわくだけを抱えて、
一歩ずつ、暗い廊下を進んでいった。
廊下は、歩くたびにゆっくりと呼吸した。
息を吸うように、ほんの少し広がり、
吐くように、すこしだけ狭まる。
ハルは最初、それを錯覚だと思った。
だが三歩目を踏んだとき、
靴の裏に柔らかい紙のたわみを感じた。
「……床、動いてる?」
足元をそっと見下ろす。
黒い廊下だと思っていたその表面には、
細かい活字がみっしり並んでいた。
新聞とも本とも違う、
聞いたことのない言語の活字。
しかも、
その活字が――泳いでいた。
(ここ、本当に廊下なの?)
背筋に冷たいものが走ったが、
不思議と恐怖よりも好奇心が勝つ。
ハルはそっと指先を伸ばし、
廊下の表面に触れてみた。
その瞬間。
ぱちん。
まるで静電気のような感触が走り、
床の文字たちが一斉に光を放った。
黒い廊下が、
ざざっと光の粒を跳ね上げて、
次の瞬間――
ハルの視界は一気に白い風景へと変わった。
そこは、
雪でも砂でも霧でもない、
名前のない白い粒子が舞う世界だった。
足元から空まで、
すべてが白の濃淡だけで形作られている。
その中に、
ぽつん、と黒い影が立っていた。
最初は木のように見えたが、
近づくにつれて、それが標識だと分かった。
標識には、
たった一行だけ、こう書かれていた。
《継ぎ目世界・第一層》
—— 迷子は自己責任
「……責任て」
思わずツッコむと、
標識の裏から声がした。
「ようこそ、旅のひよこよ」
ひよこ?
ハルが言葉を飲み込む間もなく、
白い粒子の中から、
何かがゆっくりと姿を現した。
それは――
大きな羽根ペンの形をした生き物だった。
全長はハルの背丈ほど。
羽根の部分がふわふわ動くたびに、
背中から細いインクのしぶきが落ちる。
先端には、
目のような二つの黒い点があり、
こちらをじっと見ている。
「……鳥、ですか?」
「ちがう」
「ペン?」
「おしい」
羽根ペンの生き物は、
インクを一滴床に落としながら言った。
「わたしは スクライブ・ウィング。
この第一層の案内係である」
「案内係……?」
「そうだ。
継ぎ目世界は複雑で、
誤字脱字のように迷子が多い。
だが安心しろ。
案内に追加料金はかからない」
「追加料金……?」
「オプションをつければ話は別だ」
「オプション……?」
スクライブ・ウィングは、
羽根の先端を器用にひらひらと揺らした。
「たとえば、
帰り道保証とか、
名前を忘れないセットとか、
精神崩壊時のクッションサービスとか」
「必要そうで必要なさそうで……
いや必要そうな……?」
「いらんならいい。
ひよこはひよこらしく、
ただ前を見て進むといい」
「なんでずっとひよこって言うんですか?」
「羽化前だからだ」
「ぼく、人間なんですけど?」
「羽化前の人間だろう?」
「……話が通じているようで通じていない……」
スクライブ・ウィングは、
ひときわ大きく羽根を広げた。
白い粒子がふわりふわりと舞い上がり、
視界が薄い光に満たされる。
「三ノ宮ハル」
「……名前知ってるんだ」
「案内係だ。
名前くらい把握しておく」
「便利ですね……」
「便利でなければ案内できん」
スクライブ・ウィングは、
ぴたりと動きを止め、
ハルをまっすぐ見た。
「君は、読者(リーダー)だ」
「またそれ……」
「読者とは、
まだ未来の本文が空白になっている者のことだ」
「……どういう意味?」
「継ぎ目世界に来る者のほとんどは、
もう物語が固まっている。
選んだ道も、後悔も、
だいたい一枚の紙に収まる程度だ」
スクライブ・ウィングは、
自身の羽根の影で地面に一本線を描いた。
「だが君の紙は――
まだほとんど白紙だ」
ハルは息をのむ。
自分の人生は
普通よりももっと普通で、
どこかで決まってしまっているようにすら思っていた。
だけど今、
この奇妙な生き物は言う。
君の物語はまだ始まっていない、と。
「……それって、いいことなんですか?」
「悪くはない」
「じゃあ……?」
「ただし、
白紙は便利だが脆い。
誰かに書き込まれれば、
それが君の物語になってしまう」
「……ひとごとみたいに決められるのは嫌ですね」
「だからこそ、
君が自分の意思で書くのだ」
スクライブ・ウィングは、
羽根を軽くしならせて言った。
「さて。
第一層は、
忘れられた道だ」
「忘れられた……?」
「誰かが歩くはずだった道。
選ばれたかもしれない未来。
諦めた夢。
折れた選択。」
白い粒子がふわりと揺れる。
「ここを抜ければ、
継ぎ目に潜む異常にも近づけるだろう」
「異常……?」
「君が呼ばれた理由だ。
世界の継ぎ目が、
妙なざわめきを見せている」
スクライブ・ウィングの声色が
ふっと低くなった。
「そして、
この第一層には――
異常に最も近い存在が
すでに入り込んでいる」
「えっ、もう誰かいるんですか?」
「いや。
誰かではない」
羽根ペンの先が、
遠くの白の奥を指した。
「なにかだ」
ハルは、ごくりと息を飲んだ。
「見に行く準備はできているか?」
スクライブ・ウィングが問う。
ハルは、
心臓がどきどきしているのを感じながら、
ゆっくりと答えた。
「……たぶん、まだできてないです」
「誠実な答えだ」
スクライブ・ウィングはうなずく。
「だが、行くのだろう?」
ハルは黙って前を見た。
白い世界は、
やさしさと寂しさがまざったような光で、
静かに広がっている。
その奥に、
なにがいるのか分からない。
けれど――
(もう、この歩き出した足は止められない)
ハルは、
ほんの少しだけ笑った。
「……はい。行きます。」
スクライブ・ウィングは、
満足したように羽根を震わせた。
「では――案内を始めよう」
二人(ひとりと一本?)は、
白い粒子の舞う道を
ゆっくりと歩き始めた。
その先で待つものが
どれほど大きな運命を背負っているのか、
ハルはまだ知らない。
ただ、
静かな第一歩が、
世界を揺るがす九つの鍵の冒険への
最初の扉を開きつつあった。
白い粒子が舞う第一層の道を、
ハルとスクライブ・ウィングはゆっくり進んでいた。
音は何ひとつ無いはずなのに、
なぜか読みかけのページをめくる音が
ずっと背後から追いかけてくるような感覚があった。
「ねえ、スクライブさん」
「なんだ」
「この道……誰かが歩くはずだった道って言いましたよね?」
「言った」
「じゃあ、これ全部……
誰かの未来なんですか?」
スクライブ・ウィングは羽根を一度ふるふると震わせた。
「正確には、
選ばれなかった未来だ」
「選ばれなかった……」
「人は人生を選ぶたび、
一つの未来を取り、
無数の未来を置き去りにする」
白の粒子が静かに渦を描いた。
「この層は、
その置き去りにされた未来が積もり、
道として固まった場所だ」
「じゃあ……ぼくの置いてきた未来も……?」
「もちろん、ある」
ハルは思わず足を止めた。
ぼくの未来が積もった道――
想像したこともなかった。
(ぼくにも、そんな未来があったのか……)
(いや、たぶん、いっぱいあったんだろうな……)
胸の奥が、
言葉にできないほど静かに揺れた。
スクライブ・ウィングは、
そんなハルの表情を横目で見ながら呟いた。
「白紙は、
それだけで希望にも絶望にもなる」
どちらの言葉にも優しさがあった。
そのときだった。
“――ざ……ざりっ”
空気をひっかくような、
乾いた音が遠くから届いた。
白の世界が、
ほんのわずかにくぼむ。
「……来たな」
スクライブ・ウィングが羽根を立てた。
「な、何が?」
「異常だ」
ハルはごくりと唾を飲んだ。
白い空間の向こう側で、
ひとつの黒い点が揺れていた。
最初は虫か何かだと思った。
しかし、違う。
黒い点は、
揺れながら、
形を変え、
そしてゆっくりと膨らんでいく。
まるで――
インクのしみのようだ。
「なに、あれ……」
「読まれなかった物語の残骸だ」
「残骸……?」
「物語が、誰にも読まれず、
誰の心にも届かず、
完全に忘れられたとき――
その物語は、怒る」
ハルは息をのむ。
「怒る?」
「読まれたかったのだ。
どんな物語も、
誰かの目に触れたかった」
スクライブ・ウィングは、
低い羽音を響かせ、
ハルの前に立った。
「残骸は、
だれかの白紙を食べることで、
自分を埋めようとする」
「白紙……ぼくの未来を?」
「そうだ」
黒いしみは、
じわりと広がり、
地面に溶け込むように伸びてきた。
ハルの足元に近づくにつれ、
胸の奥に、
妙な息苦しさがこみあげてきた。
何かを忘れそうな感じ。
何かの道が消えていく感じ。
「やば……っ」
「ハル、下がれ!」
スクライブ・ウィングが羽根を広げ、
インクの防壁をつくる。
しかし――
黒いしみはそのインクを吸い、
さらに濃くなった。
「まずいな。
この個体、腹が減りすぎている」
スクライブ・ウィングが後退した。
黒いしみは、
生き物のようにうねりながら、
ハルににじり寄ってくる。
(嫌だ……!
ぼくの未来を勝手に食べないで……!)
ハルの胸の奥で、
熱い何かがふつふつと沸いた。
恐怖ではない。
怒りでもない。
ただ――
「ぼくの物語は、ぼくのものだ」
という、
小さくて強い想い。
その瞬間だった。
ハルの視界の端に、
文字が浮かんだ。
黒いしみの上に、
白い字が一行、すっと現れた。
《この対象は、
読者の意思により再記述可能です》
「……え?」
自分の頭の中に流れ込んでくるような感覚。
初めて会ったときのあのノートと同じ――
世界が文字で見えるあの感覚が、
今度はハル自身の視界に広がった。
黒いしみの輪郭に、
うっすらと文章が浮かび始める。
「これは、
かつて誰かが書こうとして書けなかった物語。
しかし、まだ完全に消えてはいない。」
「読者によって読まれれば、
しみではなく形を取り戻す。」
(……読める?
僕、読んでる?
いや……書き直せる?)
ハルの中で何かがぱちんと開いたようだった。
無意識に、手が伸びる。
「ハル! 触るな!
読者であっても危険だ!」
スクライブ・ウィングの叫びは届かなかった。
ハルの指先が、
黒いしみに触れた瞬間――
世界が、
紙のようにめくれた。
白い粒子が渦になり、
黒いしみが言葉になり、
言葉が光に変わる。
ハルの胸の内から、
ひとつのフレーズが、
自然とあふれた。
「――君はもう、しみじゃない」
黒は震え、
白字が一気に走る。
「物語は、
読まれたいんだろ……?
じゃあ――
読まれたことにしてあげる!」
瞬間。
黒いしみは、
光の紙片となって四散した。
それはまるで、
読まれたくて仕方なかった物語が
ようやく形を取り戻したかのように
きらきらと舞い散った。
スクライブ・ウィングは息をのんだ。
「……やりおったな、ひよこ……」
「な、なんでぼく……こんなこと……」
「読者だからだ」
羽根ペンの生き物は、
ゆっくりハルの前に降りてきた。
「世界を読み替え、
物語を救う力――
これが、読者の初期能力だ」
ハルは呆然としていた。
だって自分は、
特に優れたところなんて何もない子だった。
なのに、
世界の破片みたいな黒いしみを、
読み替えた。
書き換えた。
救った。
「……ぼくでも、できるんだ」
「ひよこは、
羽化すれば誰よりも高く飛ぶ」
スクライブ・ウィングは静かに告げる。
「さあ、戻るぞハル。
第一層の異常値は、
まだこれで終わりではない」
白い粒子が風のように舞い、
道がふたたび伸びていく。
ハルは、一度だけその場を見回した。
黒いしみはもういない。
代わりに、
光の紙片だけが残り、
どこかへ吸い込まれるように消えていった。
(ぼくの読者としての力……
これからどうなるんだろう)
胸がどくんと脈打つ。
怖い。
でもワクワクする。
その両方が混じった、
初めて感じる心の高鳴りだった。
「行こう。
次は第二層――
言いかけた言葉の谷だ」
スクライブ・ウィングが先を飛ぶ。
ハルは、
その背中(背中なのか?)を追って歩き出した。
こうしてハルは、
初めて自分の意思で、
物語の奥へ続く道を進むことになる。
やがて、
この一歩が世界を揺るがす大冒険の
最初の伏線になることも知らずに。
――第1章 完――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます