珈琲の香りと君の微笑4完結編 ビター&スイート・ビーンズハート
南條 綾
珈琲の香りと君の微笑4完結編 ビター&スイート・ビーンズハート
三月、桜のつぼみが膨らみ始める頃。
まだコートは手放せないけれど、朝いちばんにドアを開けると、冷たい空気の奥に少しだけ春の匂いが混じっているのがわかる。
カフェ「ビーンズ・ハート」も、ゆっくりと冬から目を覚まそうとしていた。
カウンターを拭きながら、私はガラス越しに街路樹を見上げる。
枝先に並んだ小さなつぼみたちが、まだ遠慮がちに丸まっている。
その向こうを、大学へ向かう学生たちやスーツ姿の人たちが、足早に通り過ぎていく。
ここから見る朝の景色は、五年前に店を始めた時から、少しずつ変わって、少しずつ同じ感じだった。
クリスマスの夜から、香織ちゃんと私は、少しずつ気持ちを確かめ直してきた。
誤解を生んだあの出来事は、やっぱり完全には消えてくれなくて、ときどき胸の奥で鈍く疼く。
でも、それでも前に進みたくて、私たちは何度も言葉を重ねてきたと思う。
正直なところを言えば、まだ「前みたいに」と胸を張って言えるほどではなかった。
仕事の指示を出す時の自分の声が、妙によそよそしく響く。
「砂糖の補充、お願いね」
「ランチメニュー、黒板書き換えておいて」
どれも必要なことばかりなのに、口をついて出てくるのは、当たり障りのない言葉ばかりだった。
本当は、もっとどうでもいい話をしたい。今日のゼミはどうだったとか、最近ハマってる曲とか、昨日見たドラマの続きとか。
でもどこかでブレーキをかけてしまう。
踏み込んで、もしまた傷つけてしまったらと思うと、怖くて足がすくんでしまう。
本当は、自分に自信がないのと、傷つく私が嫌なんだ。
香織ちゃんも、そんな私の変化に気づいているのはわかっていた。
カウンター越しに視線がぶつかる瞬間が前より増えたのに、どちらも何かを飲み込むように笑って、すぐに目をそらしてしまう。
笑顔は増えたのに、心だけが、少し距離を測っているみたいだった。
そんな日々が、じわじわと積み重なっていった。
そんな状況が続いていたある日、店のピンチがやってきた。
常連のお客様が、いつもの席でカップを揺らしながら言った。
「ここのビル、家賃上がるって噂、聞いたわよ。こんないいお店、なくなったら困るわねえ」
カウンターの中で、心臓が跳ねる。
私は、顔色が変わらないように、必死で笑みを貼り付けた。
「まあ、そういう話も、ちょっとは……」
ごまかすように言葉を濁すと、常連のお客様は、ふうん、と意味ありげに目を細めた。
その視線の先には、片付けをしている香織ちゃんの姿がある。
店長なのに、経営が苦しいなんて悟られたらまずい。香織ちゃんにまで、余計な心配はさせたくない。
ビルのオーナーから家賃の値上げの通知が届いたのは、数日前のことだ。
更新の時期が近いのは知っていたけれど、上がるとしても、もう少し穏やかな数字を想像していた。
封を切って、提示された金額を見た瞬間、頭の中で何かが真っ白になった。
毎日立ってきたカウンターも、淹れたての珈琲の匂いも、全部、私の手からこぼれ落ちていく未来が、はっきりと形を持って迫ってきた。
それでも私は、その紙を机の引き出しに押し込んで、なかったことにしようとした。
昼の忙しさや夜の仕込みに自分を紛れ込ませて、見ないふりを続けた。
見なければ、まだ終わらない気がした。
そんな願いを叶えてくれる魔法なんて、現実には存在しないのはわかっている。
香織ちゃんに話さなきゃ、と何度も思った。
頭の中で相談の言葉を組み立てては、口を開く前に、心が萎んでしまう。
もし「なら、お別れですね」って言われたらどうしよう。
そんなありもしない最悪の想像ばかりが膨らんで、私はますます口を閉ざしていった。
もしここを手放したら、私はどこに帰ればいいんだろう。
家はある。寝る場所も、生活はできる。
でも、心が帰る場所は、きっとここで、カウンターの内側で、香織ちゃんが「お疲れさまです」と笑うこの空間だけだった。
そこを失ったら、自分が自分でいられなくなる気がして、息が苦しくなる
香織ちゃんも、そんな私の変化に気づいているのはわかっていた。
カウンター越しに視線がぶつかる瞬間が前より増えたのに、どちらも何かを飲み込むように笑って、すぐに目をそらしてしまう。
笑顔は増えたのに、心だけが、少し距離を測っているみたいだった。
そんな日々が、じわじわと積み重なっていった。
そんな私の変化に、香織ちゃんが気づかないはずがなかった。
ある日の閉店後、最後のお客さんを見送って、シャッターを半分下ろす。
店内には、珈琲とミルクと、今日一日の人の声の余韻が薄く残っていた。
カウンターの中で、私は片付けるふりをしながら、ずっと落ち着かなかった。
背中のあたりに、香織ちゃんの視線を感じる。
振り向いたら、何かが決定的に変わってしまいそうで、怖くて、ふきんを握る手に力が入っっていく。
「綾さん」
呼ばれて、私はようやく顔を上げた。
そこには、真剣な顔をした香織ちゃんが立っていた。
先ほどまでのバイトモードの笑顔ではなくて、私だけに向けられる、素の表情。
「待って。私、前からなんとなくわかってたの。
この前のお客様の話も耳に入ってたし……綾さんの様子、最近ずっと変だったから」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
隠していたつもりのものが、あっさりと見抜かれていた、そんな感覚。
私は何か言い訳を探そうとして、でも言葉が喉につかえて出てこない。
「だから、一人で抱え込まないで……一緒に考えよう。クリスマスの約束、覚えてる?」
香織ちゃんが、カウンター越しに身を乗り出す。
あの冬の夜、イルミネーションの下でつないだ手の温度が、鮮やかに蘇る。
寒さでかじかんだ指先と、震える心を、あの時、彼女がぎゅっと包んでくれたことを思い出す。
「二人で、乗り越えるって言ったよね。イルミネーションの下で手をつないで、『これから大変なことがあったら、一緒にいよう』って」
そこまで聞いた瞬間、何かがぷつんと切れた。
ずっと我慢していたものが、堰を切ったみたいに溢れ出す。
「……ごめん」
最初に出てきたのは、その一言だけだった。
情けないくらい弱い声で、やっとの思いで呟いた。
視界がじわっと滲んで、カウンターの木目が、水の中みたいにぼやけていく。
「ごめんね、香織ちゃん。怖かったの。店のことも、香織ちゃんとのことも、全部失うのが怖くて……話したら、本当に終わっちゃう気がして……」
言葉にした瞬間、胸の奥で固まっていた不安が、形を持って崩れていく。
香織ちゃんがカウンターを回り込んで、そっと私を抱きしめた。
私は、その胸の中で子どもみたいに泣き出していた。
みっともなくて格好悪かった。
そんな冷静な声は、届かなかった。
背中をゆっくり撫でてくれる手が、震えた息をなだめていく。
その温かさに、張り詰めていたものが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「怖いのは、私も同じだよ」
耳元で、静かな声がする。
「でも、綾さんが一人で怖がってるのは、もっと嫌。一緒に震えて、悩もう。そうじゃないと、あの約束の意味、なくなっちゃうから」
その言葉が、涙でぐしゃぐしゃになった心に、優しく染みこんでいく。
私は、彼女の腕をぎゅっと抱きしめ返しながら、何度も何度も頷いた。
それから私たちは、テーブルいっぱいに書類とノートパソコンを広げて、店の未来について本気で話し合った。
売上データを見直し、ランチセットの回転率をチェックして、仕入れ先のリストも洗い直す。
現実的な数字に向き合う時間は、正直、胃がキリキリするほどしんどかったけれど、隣で一緒に眉間に皺を寄せてくれる人がいるだけで、世界の見え方はこんなにも違うんだと実感した。
「うーん……だったら、新しいお客さんに来てもらう企画も必要ですね」
ペンをくるくる回しながら、香織ちゃんが言う。目は真剣だけど、その口元には、少し楽しそうな色が戻っている。
「例えば、SNSで限定メニューのキャンペーンとか。私、大学の友達にも宣伝できます。春だし、桜イベントとかどうですか?」
「桜イベント?」
「はい。桜のラテとか、桜のシフォンケーキとか。春休み中なら、みんな時間もあるし。ここ、映えると思うんですよ。ほら、この窓から見える桜並木とか」
そう言って、香織ちゃんは窓の外を指さした。
夜の街路樹はまだ花を咲かせていないけれど、そこに未来の景色を見ているみたいに、目がきらきらしていた。
私は、その横顔を見つめながら、ふっと笑ってしまう。
さっきまで「どうしよう」としか浮かばなかった頭の中に、「こうしたらどうだろう」が少しずつ増えていく。
絶望のすぐ隣に、ちゃんと可能性を並べてくれる。香織ちゃんは、そういう人だった。
「……やってみようか。 桜イベント」
「やりましょう。 絶対、楽しいですよ」
そうして私たちは、チラシのデザインやSNS用の写真の案を、夜更けまで語り合った。
途中でコーヒーを淹れ直して、試作の桜シロップを混ぜたラテを作ってみたり、ラテアートの練習をして笑い合ったり。
数字とにらめっこしていた時間が、いつの間にか、未来のための準備に変わっていた。
数日後、緊張しながら臨んだオーナーとの交渉は、決して楽なものじゃなかった。
提示された条件に飲み込まれそうになりながら、それでも私は、資料を握りしめて食い下がった。
「この店には常連さんが多いこと」
「学生街としての需要があること」
「イベントで集客を伸ばしていく計画があること」
震える声でそれを伝えるたび、心の中で香織ちゃんの「大丈夫です」という声が支えになった。
結果として、家賃の値上げは避けられなかったけれど、最初の提示額よりもずっと低いラインでまとまった。
合意のサインを書いた瞬間、全身の力が抜けて、椅子の背にもたれかかる。
ギリギリだけど、この店はまだ続けられる。
「ビーンズ・ハート」は、すぐには消えない。その事実だけで、目頭がじんと熱くなった。
オーナーの事務所を出た帰り道、私はすぐスマホを取り出して、香織ちゃんにメッセージを送った。
「話し合い、うまくいったよ」
数秒後に返ってきたのは、満面の笑みで両手を突き上げているキャラクターのスタンプだった。
その画面を見ながら、私は歩道の真ん中で、小さくガッツポーズを返した。
そして迎えた、桜が満開の日。
昼間はイベントで大賑わいだった店内も、閉店時間を過ぎると、急に静かになる。
テーブルの上に並んでいた桜色のカップや、写真を撮るために飾った小さな花びらのピックを片付けながら、私は今日一日を巻き戻すみたいに思い返していた。
大学の友達を連れて来てくれた学生たち。「インスタ見て来ました」と照れながら注文してくれたカップル。
常連のお客様も、「やっぱりこの店、捨てたもんじゃないわねえ」と笑いながら、桜ラテをおかわりしていった。
片付けが一段落すると、香織ちゃんが店先のベンチを指さした。
「綾さん、ちょっと、外で一息つきませんか? 今日くらい、ごほうびタイムにしましょう」
私は頷き、二人分の桜風味の珈琲をマグカップに注ぐ。
ドアを開けると、夜風がふわりと頬を撫でた。
街路樹の桜はちょうど今が見頃で、街灯に照らされた花びらが、淡い光の粒みたいに揺れている。
二人でベンチに腰掛け、カップを手の中で温める。
鼻先に、珈琲の香りと桜の甘い匂いが重なる。
さっきまで店内にいた時よりも、ずっと音が少ない。
遠くで車が走る音と、歩道を歩く人の靴音が、ゆっくりと夜の中に溶けていく。
「……綾さん、今日、本当にお疲れさまでした」
隣から、柔らかい声がする。
香織ちゃんの横顔は、街灯の光に縁取られて、少し大人びて見えた。
あの日、初めてアルバイトの面接に来た時の彼女とは、もう違う。
でも、私が救われる瞬間にそばにいてくれることだけは、ずっと変わらない。
「香織ちゃんこそ。宣伝も、友達呼んでくれたのも、ありがとね。あれがなかったら、多分今日みたいな売上、出せなかった」
「えへへ。嬉しいです。みんな、『ここ落ち着くね』って言ってましたよ」
そう言って笑う顔を見ていると、胸が温かくなって、少しくすぐったい。
色々な問題はあったけど、それ以上に、私たちの絆を確かめてくれた気がした。
風が少し強く吹いて、桜の花びらがひとひら、ふたひらと舞い落ちてくる。
そのうちの一枚が、私の膝の上に落ちた。
私はそっとそれを指でつまみ上げて、掌の上で眺める。
薄い花びらは光を透かして、心臓の鼓動に合わせて、ほんの少しだけ震えているように見えた。
その時、香織ちゃんが、私の手をぎゅっと握りしめてきた。
マグカップを持っていない方の手と手が、自然に絡まる。
「綾さん」
「ん?」
「これからもね。誤解も、いろんな問題も、一緒に乗り越えていきたいです」
言葉を選ぶみたいに、ゆっくりと続けている感じがした。
「珈琲みたいに、苦いときも甘いときも、綾さんと一緒に味わいたい。季節が変わっても、ずっと隣にいたいです」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
怖くて言えなかった言葉を、彼女が先に言ってくれる。
私は、握られた手に力を込めながら、小さく笑った。
「……うん。私も、そうなりたい。これから何があっても、一緒に驚いて、一緒に悩んで、一緒に笑いたい」
言葉に乗せた気持ちが、そのまま彼女に届いていくのを感じた。
私は体を少しだけ傾けて、香織ちゃんの唇にそっとキスを落とした。
触れるだけの短いキスなのに、世界が静かになって、耳の奥で心臓の音だけが響いていた。
春風が二人の髪を優しく揺らした。
頭上で桜の枝がさらさらと揺れ、花びらがまたひとつ、私たちの肩に落ちた。
その小さな重さが、これから先も続いていく日々の約束みたいに感じられて、私はもう一度だけ、香織ちゃんの手をぎゅっと握った。
珈琲の香りと君の微笑4完結編 ビター&スイート・ビーンズハート 南條 綾 @Aya_Nanjo
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