悪夢の騎士
楓坂
プロローグ 悪夢を斬る騎士
夜が深まるほど、ヴィルヘルム村の空気は重たく淀んでいった。
遠くの森から吹き下ろす冷たい風は、まるで何かが這い寄ってくるように湿っている。村人たちは灯りをすべて落とし、戸締まりを済ませ、それぞれの家に閉じこもっていた。
なぜなら――ここ数週間、この村では“悪夢に喰われる”者が続出しているのだ。
眠っている間に突然うなされ、朝になると衰弱し、ひどい時はそのまま息を引き取る。
医者にも治せない。聖教会の祈祷でも効果がない。
誰もが恐れていた。
そして今夜もまた、ひとりの少女が悪夢に囚われていた。
◆
少女の名はリーシャ。まだ十一歳。
薄暗い寝室で、彼女の小さな体が震えていた。閉じた瞼の奥で走る影、荒ぶる風、聞いたこともない笑い声。夢の中で何かが迫るたび、リーシャの喉から細い悲鳴が漏れる。
「いや……やめて……こないで……」
母親は隣の部屋で祈り続けていたが、娘の震えは止まらなかった。
あまりに続く悪夢の症状に、村人はささやく。
――あの子はもう助からない。
――悪夢に喰われたら、最後だ。
だが、その夜だけは、違った。
村に、ひとりの騎士が来ていた。
◆
銀の鎧に赤いマント。
黒髪の若い男。
彼の名を知る者はほとんどいない。
彼は村の入り口で、静かに眠るような目で空を見上げていた。
月に薄雲がかかり、村全体がまるで闇に溶けるようになっている。
男はただ一言、低く呟いた。
「……今夜もか。」
まるで“悪夢が増えていることを知っている”かのように。
彼は村人の案内もなく目的の家へ向かった。家々の灯りが消えている中、彼の足音だけが、固い土を踏む規則的な音となって響く。
リーシャの家の扉をノックすることなく、彼は立ち止まった。
中から、確かに悪夢の気配がしていた。
母親が戸口を開けた瞬間、騎士の姿に息を飲んだ。
「あなたは……?騎士様…ですか?」
「娘さんは、今も夢に囚われている。」
「え……なぜ、それを……?」
「放っておけば、夜明け前に命を奪われる。」
母親の顔色が一気に青ざめた。
「助けて……あの子を助けてください!」
彼は無言のまま頷いた。それは静かな肯定だった。
◆
リーシャの寝室に入ると、空気が凍りついていた。
部屋の中心にある小さなベッドで、少女は汗に濡れながら体をよじり続けている。
そして――騎士には“見えていた”。
少女の体の上に、黒い影がまとわりつき、細い煙のように彼女の意識へ侵入しているのを。
それは普通の人間には見えない。
だが彼は、悪夢の正体を知っていた。
騎士は腰の剣に手をかけた。それは曇りのない刃を持ち、鍔だけが古びている。
彼がその剣を抜くと、部屋に影がざわめいた。
まるで“剣を恐れて逃げようとしている”かのように。
「……こっちだ。」
彼はベッド脇に膝をつき、剣を水平に構えた。
少女の寝息が途切れた瞬間、騎士の瞳が鋭く光った。
そして――存在しないはずの“夢の中の敵”へ向かって、剣を振るった。
「――斬ッ!」
空を裂いたはずの一撃が、確かに何かを切り裂いた。
部屋に黒い煙が弾け、とてつもない叫び声が響いた。
それは夢と現実のはざまで、確かに響いた悲鳴だった。
母親には聞こえなかったが、騎士には聞こえた。
悪夢そのもの――“悪夢族”の声だ。
「キ、キ、貴様……! また邪魔をするのか……!」
「悪夢に囚われた者を……俺は見過ごさない。」
悪夢族が煙となり、窓辺へ逃げようとする。
だが、騎士は足元から疾風のように踏み込み、一閃。
黒煙は悲鳴をあげながら霧散し、空気は静まり返った。
リーシャの体が、ふっと軽くなったように見えた。
呼吸も穏やかに戻っていく。
◆
すべてが終わると、騎士は剣を収めた。
リーシャは、まるで深い眠りから覚めたように瞼を開いた。
「……ここは……? お母さん……?」
「リーシャ! 大丈夫なの!? よかった、よかった……!」
母親は涙をこぼしながら娘を抱きしめた。
少女の頬には色が戻り、生気が蘇っていた。
騎士は静かに立ち上がった。
「これでしばらくは大丈夫だ。」
「あなたは……いったい何者なんですか?」
母親の問いに、彼は少しだけ迷ったように視線を落とした。
名乗る必要はない。
名乗っても意味がない。
そう思っていた。
だが少女が布団から顔を出し、小さな声で尋ねる。
「おにいさん……ありがとう。わたし、すっごくこわかった……」
騎士はわずかに柔らかな表情を浮かべた。
「もう悪夢はこない。眠りなさい。」
彼はそれだけ告げると踵を返した。
「待ってください! せめてお礼を――」
「……いらない。」
それだけ残し、彼は夜の中へ溶けるように去っていった。
◆
村の外れまで来たところで、騎士は足を止めた。
空を見上げる。
月が低く、異様に赤い。
赤い月――それは、悪夢族が活動を強めている兆候だ。
そして、騎士は確信していた。
「……やはり、連中の動きが早い。」
悪夢が世界中で増えている理由。
ただの病ではない。環境の変化でもない。
“黒幕”がいる。
悪夢族を束ね、人々に恐怖と絶望を植え付けようとしている存在。
騎士は剣の柄を強く握った。
「必ず見つける……そして、すべてを終わらせる。」
風が吹いた。
赤いマントが夜空へとたなびく。
若い騎士の瞳には、迷いひとつない炎が宿っていた。
◆
その夜、ヴィルヘルム村に広まっていた“悪夢の死”は止まった。
翌朝、村人は口々に噂した。
――昨夜、赤いマントの騎士が悪夢を斬って救ってくれたらしい。
――名も名乗らず、ただ去って行ったとか。
――一体、誰なのだろう?
誰一人、彼の名を知らない。
だが噂は、静かに、そして確実に広がり始めていた。
“悪夢を斬り裂く謎の騎士がいる”――と。
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