アニマの聖火

ヤグラ

第1話 記憶喪失

 水滴が落ちる音が、どこからともなく響いていた。ぽたり、ぽたり……と、規則もなく落ちるその音がやけに大きく聴こえる。意識が徐々に浮上しゆっくりとまぶたを開けたが、視界はほとんど変わらなかった。光の無い真っ暗な空間が広がっている。目が多少慣れたのか少しずつ輪郭だけが見えてくる。床は岩。冷たく、硬く、ゴツゴツしている。背中に触れる感触がじわりと冷気を吸い取り、ぞわりと寒気が這い上がった。あたりの空気は湿っていて、肺に冷たい水が流れ込むような重さがある。匂いは……石。濡れた岩の匂い。土とも苔ともつかない、どこか古びた匂いが鼻にまとわりつく。耳を澄ますと、遠くで風のような音が、かすかに暗闇の奥へ吸い込まれていく。手探りで床に触れると、砂と小石が散らばっていて、指にざらつきが残った。床を這いながら移動し壁にも触れてみた。冷たく湿っている。岩の床、湿った壁、反響する水音。周囲の情報をひとつずつ拾い、繋げていく。……結果、ここは洞窟と判断するしかなかった。

 だが、肝心なことが何ひとつ分からない。どうして自分がこんな場所に横たわっていたのか。ここまでどうやって来たのか。そもそも自分が誰なのか一切の記憶が無いのだ。考えようとしても、頭の奥に霧がかかったようで、何も掴めない。鼓動がじわじわと速くなっていく。腕と足は……ある。動く。痛みもない。服は、触るとボロボロで、何度も裂けた跡があった。何かの攻撃を受けたのか、長い時間さまよっていたのか、それすら想像できない。ポケットも袋もない。持ち物は一切ない。自分だけが、何も分からない。その事実だけが、じわじわと胸の奥を締めつける。闇。冷気。湿気。水滴の音。世界のすべてが、自分から遠ざかっていくような感覚。喉の奥に冷たい恐怖が這い上がってくる。暗闇の奥へ視線を向けても、何も見えない。黒い壁があるわけでも、霧がかかっているわけでもない。ただ、どこまでも、終わりがないように暗い。その暗さを見つめているうちに、胸の奥で何かがぞわりと蠢いた。不安……いや、それよりもっと原始的な恐怖だった。理由もなく、今すぐ逃げ出さなければならないような焦燥が膝のあたりからせり上がってくる。呼吸が妙に浅い。肺に空気が入っていない気がする。自分の体なのに、誰か別の人間の体を外側から見ているような、そんな奇妙な感覚に襲われた。考えようとしても、頭の中の霧がぐちゃぐちゃにかき乱され、思考の形にならない。胸が苦しい。心臓の鼓動が速すぎる。手を胸に当ててみたが、震えてうまく触れられなかった。体全体が冷えているのに、額には汗が滲んでいる。

 「誰か! 誰か助けてくれ!!!」

 叫んでいるのに、誰も来ない。それがさらに恐怖を呼ぶ。息が荒くなり、指先がしびれ、足に力が入らなかった。洞窟全体が自分の叫びを吸い込み、飲み込み、静かに返してくるだけだった。その静けさが、何よりも怖い。

 叫び声が洞窟に吸い込まれるように消えていく。耳鳴りのような静けさが戻ったそのとき、

 チッ……チッ……

 暗闇の奥で、何かが砂利を踏むような微かな音がした。息が止まる。最初は反響かと思った。だが、違う。音は、一定のリズムで、こちらへ向かって確実に近づいてきている。そして、暗闇の奥に、かすかな揺らぎが生まれた。光だ。ぼんやりとした橙色の光が、岩肌を舐めるように照らしながらこちらへと歩いてくる。誰かが……いる?助けを呼んだんだ。人間かもしれない、そんな希望が一瞬胸をかすめた。だが、その光の揺れは不規則で、人間の持つ松明よりも明らかに低い位置でふらついていた。まるで、小さな誰かが、不慣れに腕を振り回しながら歩いてくるようだった。心臓が再び早鐘のように鳴る。光が近づくにつれ、岩壁に落ちる影が形を帯びてくる。小柄な体。ゆっくりとした二足歩行。しかし歩幅は妙に短く、ぎこちない。やがて松明の火が視界の端から明確に姿を見せた。光に照らされた“影”は、明らかに人間ではなかった。前に突き出た鼻。後ろに尖って反り上がった耳。まばらな体毛と、乾いた土のような肌。片手には松明、もう片方には石を削って作ったような粗雑な刃物を握っている。暗闇に慣れていないのか、火の光をこちらに向けすぎたり、顔をしかめて目を細めたりしている。目が合った――そう思った瞬間だった。

 ギッ――!

 喉の奥で鳴る、獣のような声。そいつは唐突に姿勢を崩し、一歩、二歩と後ずさったかと思うと次の瞬間、四足へと切り替えて地面を蹴り、獲物を狩る獣のような速度で突進してきた。石の刃が、火の光を反射してギラリと光る。恐怖で体が固まった。とっさに周囲を見回すが、武器になりそうなものは何もない。自分の手は震え、力がうまく入らず、まともに動かない。光は一直線に迫り、その中心にある小さな影は確かに自分を殺しに来ていた。

 反応が遅れ、咄嗟に腕を突き出す。刃が深く刺さり、熱い痛みとともに血が噴き出した。殺される──そう思ったのはほんの一瞬。考えるよりも早く、体が勝手に動いていた。まるで、何度も同じような敵と渡り合ってきたかのように。刺さったままの腕を押し込み、その勢いのままそいつの体を岩壁へ叩きつける。小柄な体格からは想像できないほど激しく暴れ、獣じみた唸り声をあげる。しかし、その素早い足さえ封じてしまえば逃げ道はない。抵抗する胴を押しつけながら、ぼんやりとした記憶がふっとよみがえった。


 ゴブリンの弱点は、頭。そこを狙え。

 誰かに、確かにそう教わった。男だったか、女だったか。顔は霞んでいて思い出せない。けれどその声には、不思議なほどの安心感があった。大切な人だったのだろうか。再び襲いかかる叫び声に思考を遮られ、獣のように咆哮し返す。もう片方の拳を振り上げ、ありったけの力で頭部へ叩きつけた。

 ドグッ。

 それでもそいつは動く。掠れた悲鳴とともに暴れ、石の刃を抜こうともがく。腕に埋まった刃がさらに肉を裂き、血が熱を帯びてあふれ続ける。だが逃がしてはならない。腕を押し込んで刃を固定する。痛みが視界を歪ませるが、関係ない。

動かなくなるまで――何度でも殴る。拳が濡れ、滑り、皮が剥けても、殴る。殴る。殴る。

 やがて、そいつの体から力が抜けた。息が止まり、二度と動かなかった。勝った。だが、腕からの出血は止まらない。このままでは――死ぬ。


 脳裏に別の声が流れ込んできた。

「スライムの中に腕を突っ込め。あいつらは体内で毒素も血も分解してくれる。焦るな、慣れれば痛くない」

 誰の声だ。思い出せない。けれど確かに昔、こうして治療していた。敵と戦い、血を流し、そして生き延びてきた。自分は、魔物と戦う術を知っている。誰かに、それを教わっていた。記憶の断片が、戦いの衝撃に揺さぶられて戻ってくる。何をしていたのか。どこで生きていたのか。なぜ記憶を失っているのか。すべて闇の中だが、ひとつだけは分かった。

 戦えば、思い出せる。

 落下していた松明と石の刃を拾い上げる。揺れる炎が壁を照らし、奥へと続く道を浮かび上がらせた。ここから先に、自分の記憶が隠れている、そんな確信が湧いてくる。敵を倒し、記憶を取り戻す。自分が誰なのかを知るために。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎週 日曜日 15:00 予定は変更される可能性があります

アニマの聖火 ヤグラ @syouganaina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ