創作1周年 短編群
鈑金屋
サヤとカスミ
玄関の鍵が、削れた軸で無理やり回したみたいな音を立てた。
サヤは片手でバッグを抱え、もう片方の手でハイヒールをつまんでいる。扉を閉めた瞬間、背中に張りついていた「今日」という皮膜が、ふっと剝がれる。壁に額を預け、細く長い息を吐く。頭の芯は蛍光灯の色のままで、会議室の乾いた空気がまだ粘っている。
「……おかえり」
風より軽い気配が、すぐ目の前に現れた。
カスミだ。スリッパの音もしない。影だけが近づいて、重力の向きを少し変える。小柄な身体が、まっすぐにサヤの胸へ滑り込む。無表情の顔。けれど、抱きしめる腕の力は迷いがない。
「ただいま」
言ってみて、やっと喉が潤った。
カスミは答えない。顎を少し上げ、視線を正面から受け止める。
唇が触れる。短い、確認のような口づけが一度。呼吸を挟んで、もう一度。
音のない小さな衝突が、胸の奥の拍を一つ、確かに大きくする。
「ごはん、つくった」
「手伝うよ」
「ううん。座ってて」
ヒールをそろえ、肩を並べて廊下を進む。途中でカスミが立ち止まり、振り返る。
うなじが近づく。頬が触れ、離れる。
その一瞬で、外の騒音が輪郭を失った。
キッチンの蛍光灯が鍋の縁に白い輪をつくる。
カスミはエプロンの紐を後ろ手で結び、冷蔵庫からタッパーをいくつか取り出してカウンターに並べる。
ぎこちない手つき。けれど、切るリズムだけは一定だ。
トントン――トン。
包丁の拍子が、心臓の鼓動と同期していく。
「味見して」
木の匙が差し出される。サヤは湯気に顔を寄せて、ふーと一度息をかけ、少しだけ掬う。
「おいしい。ちょっと塩を足す?」
カスミは真面目に頷き、塩をひとつまみ。
ひとつ鍋を一緒に覗き込む。上がった湯気がまつ毛を濡らす距離。
サヤの肩に、カスミの額がコツンと当たり、すぐ離れた。癖のような、確かめのような小さな仕草。
テーブルには、白いご飯、湯気の立つ味噌汁、バターで焼いた鮭、胡麻の香りのほうれん草、刻んだトマトのサラダ。豪華ではない。けれど、必要なものがそろっている。
「いただきます」
声が揃った。揃うという出来事が、固く結ばれていた胸の糸に、やさしく指をかける。
「きょうは、どうだった」
「うん……無事に終わった。終わった、って思えるだけで充分」
「えらい」
そのひとことがテーブルの真ん中に置かれ、皿より先にサヤの喉がそれを飲み込む。
温度が胸に落ちて、ひらく。
食べながら、カスミはときどきサヤの袖口をつまむ。離して、また触れる。
指先の軽い昇降が、背中にたまった固い電気を抜いていくみたいだ。
サヤは久しぶりに、笑う筋肉の使い方を思い出す。
皿を下げ、流しに水を落とす。蛇口を叩く水音が、外界とこちらの境目に緩やかなカーテンを立てる。
「お風呂、入ろう」
「一緒に」
二人の声が重なって、同時に少し上ずる。
浴室の灯りをつけると、鏡が白く曇る。指で円を描くと、二人分の顔がふわり現れて、すぐまた霞んだ。
シャワーの音は雨より太く、川より細い。
サヤは深く息を吸って吐き、肩を落とす。肩甲骨が本来の場所に戻る感じ。
カスミがスポンジに泡を立てる。
「背中、洗う」
背中に触れる指は、楽器を調律するときのように慎重だ。
強すぎず、弱すぎず。筋の流れに沿って、音のない旋律をなぞる。
泡は白い地図になり、重たかった一日の破片が、指の腹に小さく集められていく。
湯をかける。泡の筋が太ももを伝い、排水口へ吸い込まれる。
「くすぐったい……けど、気持ちいい」
「よかった」
その二音で、手つきがほんの少し確信を帯びる。
湯気の中で輪郭が薄くなる。代わりに、呼吸の密度が増える。
肩越しに目が合い、短いキスがひとつ、湯面を揺らした。
湯船に肩まで浸かる。世界は低い音の中に整列する。
サヤが目を閉じる。カスミは濡れた指先を頬に添えて、温度と鼓動を確かめるみたいにゆっくり押す。
「おかえり」
さっきと同じ言葉なのに、水の中を通って届くと、別の重みを持つ。
ドライヤーの風が、髪の根元から空気を運ぶ。
機械の音が心拍の外側でもう一つの規則を刻む。
サヤの髪から零れた水が首筋を滑り、タオルがそれを追いかける。
カスミは掌全体で「ここにいる」を伝えるみたいに根元を包む。
湿度が減っていくのに、温度は下がらない。鏡の中で視線が合い、サヤは笑う。
カスミは、笑わない。瞬きを一度ゆっくりする。
それが彼女の微笑みの代わりだと、サヤは知っている。
寝室。
白いシーツの皺をカスミが指先で伸ばす。
その細い作業全部に「準備する気持ち」が入っている。
サヤはその手を止め、指を絡める。
「来て」
声は低く、熱を含んで、迷わない。
カスミは膝で近づき、呼吸の距離に収まる。額と額が触れ、鼻先がかすめ、キスが始まる。
急がない。舌先は慎重で、確かめるたび速度を落とす。
サヤの指がカスミの背を撫で、肩甲骨の内側の薄い骨を、羽根の輪郭のように探る。
灯りを一段落とす。
影が深くなり、視線より体温のほうが頼りになる。
布の擦れる音、シーツのきしみ。
小さな音がひとつ起こるたび、空気の重さが僅かに変わる。
カスミはサヤの呼吸を数える。
吸って、吐いて。
そのリズムに合わせ、肩に手を置き、鎖骨をなぞり、胸の上へ。
掌が触れるたび、要らない言葉が溶ける。
口づけは途切れず、深さが増すほどに境界線が曖昧になっていく。
サヤの太ももに、カスミの小さな脚が絡む。
下腹部同士がそっと擦れ、押し合い、呼吸の拍がぴたりと揃った瞬間、じん、と内部から灯るような熱が走る。
腰が自然に引き寄せられ、太ももと腰のすり合わせが、ゆっくりとした波をつくる。
波は小さい。けれど確実で、繰り返すたび体の奥へ届く角度が変わる。
「……カスミ」
名前を呼ぶ声が、苦しさと甘さを同時に含んで震える。
カスミは答えず、力を込めて押しつけ、リズムを合わせる。
太ももと腰が擦れ合うたび、波紋みたいに熱が広がり、震えが二人のあいだを巡る。
息が絡み、汗が薄い膜になって、触れ合う場所を熱源に変えていく。
サヤの声は小さい。けれど、胸の芯を直撃する。
カスミはその声を抱きしめるように腕を回し、逃がさない。
急がない。
どこに不安が残り、どこが応えるか、指の腹で確かめるように速度を調節する。
やがて、呼吸も脈も一つの合図に揃う。
じわじわ押し寄せる熱が、最後の硬い結び目をやわらかく解いていく。
背が弓なりに浮く。視界の端でかすかな閃光が瞬く。
サヤの小さな声と、カスミの静かな吐息が、夜の奥で重なって、しずかにほどける。
カスミは離れない。汗の重なりも、涙の湿りも、そのまま抱きとめる。
脈が落ち着くまで、解けきるまで、ただ「ここにいる」を体で伝え続ける。
窓の外を横切る車の光が、天井に細い帯を引く。
二人は横向きに重なり、サヤの掌にカスミの指が整列している。
隙間がない。隙間がないことが、こんなにも静けさを連れてくる。
「ありがと」
囁くと、カスミは目を細める代わりに額をコツンと合わせる。
それだけで十分だった。
瞼の裏に小さな熱源が残り、心臓は深い水底で規則正しく揺れる。
「明日の朝、早い?」
「うん。でも、起きられる」
「起こす」
「頼りにしてる」
言葉は少ない。足りない分は呼吸が補い、呼吸で足りなければ体温が補う。
もう、説明のための長い文章はいらない。
眠りに落ちる直前、サヤは思う。
自分は確かに帰ってきたのだと。住所のある場所にではなく、脈の合う場所に。
目覚ましが鳴る一瞬前、布団の上で気配がそっと動く。
サヤは目を開ける。カーテンの隙間から薄い光。枕元の水。ベッド脇に畳まれたカーディガン。
夜の続きが朝の風景に紛れている。
「おはよう」
「おはよう」
カスミはいつも通り無表情のまま、サヤの額に短いキスを落とす。
それが朝のサイン。体が先に、今日を受け入れる。
キッチンに立つと、ドリップの湯気に昨夜の味噌の記憶が混じる。
パンが焼ける間、カスミはサヤのネクタイを結ぶ。
結び目を最後に指で整える。その結び目は昨日よりも柔らかい。
柔らかいことで、世界の回り方まで少し変わる。
「今日、帰りが遅くなるかも」
「帰ってくる時間、教えて」
「うん。駅を出るとき連絡する」
「わかった」
玄関の段差のところで、カスミの足が止まる。
マットの縁――そこが目に見えない境界線になっている。
外に続く扉の隙間から、冷たい空気が流れ込む。
カスミは片足を少し上げて、また戻す。
ほんの一歩の、その短さが、海峡の距離に感じられるときがある。
インターホンの赤いランプは消えたまま、でも昨夜の応答履歴の数字が「1」で止まっている。宅配の不在票はポストに置かれたまま。
オンライン教材の箱は開封の切れ目だけが細くついて、内容物はまだ光を浴びていない。
玄関の外に伸びる靴跡は、サヤのものだけが重なって濃い。
「ここまでで、いい」
カスミは自分に言い聞かせるみたいに小さく言い、サヤのコートの襟を直す。
「行ってきて」
「行ってくる。……戻ってくるよ」
サヤは振り返り、短いキスを二度。
扉が閉まる。鍵が回る。
その音を聞いて、カスミは胸の前に掌を当てる。脈がゆっくり落ち着いていくのを確かめると、まだ温かいマグカップを両手で包む。
サヤは駅までの道で吸い込む空気の温度を意識する。
今朝は、少しだけやわらかい。
スマホの画面には、カスミからの短い絵文字だけのメッセージ。
珈琲の絵文字
それだけ。けれど、脈の速さを整えるには十分だった。
昼、会議室の時計が遅く進む。
サヤはノートの余白に、無意識に「ただいま」の文字を書いて、気づいて指で消す。
消した跡が紙に残り、その凹凸を親指でなぞると、昨夜のシーツの皺まで指が思い出してしまう。
喉が乾いて水を飲む。冷たい水が器官を通る感覚がやけに鋭い。
心はどこにもいかず、きちんと胸のなかに座っている。
奇妙なほど、落ち着いている。
夕方、外の風が強くなり、遠くで救急車の音が反響する。
サヤは短い休憩でスマホを開き、
「帰りに牛乳買っていく?」と送る。
数秒後に「買う、重い。ありがとう」と返ってくる。
「重い」という言葉の中に、物理の意味と、生活の意味と、ほんの少しの孤独の意味が重なっているのを感じる。
それでも重いものを持つのは、悪くない。帰る理由が、手に触れる形を持つから。
夜、もう一度鍵が回る音。
今日の軸は昼より滑らかに回る。
サヤが靴を脱ぐ。冷たい外気を背中に閉じ込め、扉を押し戻す。
奥から足音。
カスミが、また風のように現れる。
ひと呼吸の距離で、腕が回る。
抱擁は短くない。
短くないという出来事が、その日の外のざわめきを凝縮させて、掌の中に収める。
「おかえり」
「ただいま」
今日は、味噌汁のかわりにスープ。
冷蔵庫に並ぶタッパーのうち、いくつかが空になっている。
インターホンのランプは静かだ。
玄関の境界線は、もう見慣れた川のようにそこに流れている。
渡れない川。その手前に、温かい場所。
帰る場所は二つあって、住所と、脈の合う場所。
サヤは、その両方を今日も確かに踏んだ、と胸の中で指折り数える。
「牛乳、ありがとう」
「どういたしまして」
二人はコップを持ち上げ、同じ高さで軽く触れ合わせる。音が鳴る。
その薄い音を合図に、また夜が始まる。
今夜も、解ける手順から。
呼吸を合わせ、温度を寄せ、言葉を置き、要らない音をひとつずつ沈めていく。
波は小さく、でも確実で、太ももと腰が擦れるたび、体の奥にゆっくりした熱が灯る。
じんわり、内側から。
急がず、壊さず、ただ確かめる速度で。
ほどけるたびに、結び直さずに、余白を残す。
その余白に、明日の朝の光が入り込む場所をつくっておく。
やがて、夜は落ち着き、二人の脈は深いところで揃う。
眠りの前に、短い言葉が交換される。
「おやすみ」
「おやすみ」
カスミはサヤの手の甲に指先を置き、一定のリズムで小さく触れる。
灯台の光みたいに。
目覚めの方角を、夜の間じゅう示し続ける微弱な明滅。
そして朝は、また来る。
扉の向こうの世界は、相変わらず大きくて速い。
玄関のマットの縁は、今日も川のままだ。
それでも、ここでは呼吸が合う。
帰るたび、体が覚える。
「おかえり」と「ただいま」が、同じ温度で交換される家の重さを。
ここが、わたしたちの住所より前にある、帰着の場所だと。
エピローグ
湯気に包まれた浴室は、静かな夜の密室だった。
サヤは湯船の縁にもたれ、濡れた髪を指で梳きながら、隣に寄り添うカスミの肩に頬を寄せた。
肌と肌が触れ合った瞬間、その境目が熱を帯び、まるで小さな灯火が点ったようにじんわり広がる。
「……カスミ」
サヤの声は湯気にかすれ、胸の奥の迷いを隠しきれない。
濡れた指先で探るように、小さな箱を差し出す。
「これ……つけてもらえたら、嬉しい」
開かれた箱の中には、シンプルなペアリング。
銀の細い輪が、湯気の光に淡く瞬いた。
カスミは視線を逸らし、無表情のまま小さく頷く。
けれど耳の先まで赤く染まっていて、その仕草はどこまでもぎこちない。
「……はめて」
かすかな声。
サヤは微笑み、カスミの左手を取り、その薬指に指輪を滑らせる。
冷たい金属が一瞬だけ肌を走り、すぐに温もりを吸い込む。
カスミはリングをじっと見つめる。
うっとりと、まるで夢を確かめるように。
「……きれい」
その声は指輪よりも、今ここにいる人に向いていた。
そして、彼女は自ら唇を重ねた。
短くは終わらない。深く、熱を確かめるように。
触れたところから肌が熱を持ち、境界が消えていく。
「……だいすき」
言葉に合わせて、もう一度。
濃いキス。胸に触れる素肌が熱を増し、重なりはさらに深くなる。
「だいすき……」
再び唇を重ねる。肩と肩が、腕と腕が、腹と腹が――触れるごとに新しい熱を灯していく。
「だいすき……」
今度は涙を浮かべながら。震える声とともに、息を奪うほどの口づけ。
濡れた頬を伝った雫が二人の胸の間に落ち、湯に溶ける。
サヤはその涙を拭うより先に、抱き寄せて応えた。
「私も。大好きだよ、カスミ」
何度も繰り返される「大好き」の言葉。
そのたびに深まるキスと、素肌の触れ合い。
浴室の湯気はやがて曇りきり、二人の熱を隠すように漂い続けた。
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