潮風に消えた夏
沢 一人
短編小説
序章:石畳の上の記憶
あれは、私が高校生だった頃、父の運転する車で東名高速道路を走った夏の日のことだ。
私たちは、テーマパーク「明治の郷」に到着した。
その明治の郷の片隅に、源吉(げんきち)の家という一軒の古い町家が移築されていた。魚屋だったというその家の前で、私たちは説明書きを読んでいた。
「この家で、かの有名な文豪、佐伯 櫂(さえき かい)先生が毎夏を過ごしたんだってさ」
父がそう言った時、背後から、杖をついた小柄な老人が私たちを追い抜いて、その土間に向かって歩み寄った。老人は、立ち入りを禁じるロープや、「畳の部屋に上がらないでください」と書かれた立て札を見ても気に留める様子がない。
「ああ、懐かしいなあ、トシちゃんの家だ。ワシは子どもの頃あそこでよく遊んだんだ」
老人はそう独り言を呟いて、すたすたと土間から、そのまま上がり、畳の間に足をかけようとした。
「おじいさん、だめだよ! 入っちゃいけないって書いてあるでしょう!」
私が慌てて止めると、老人はきょとんとした顔で振り返った。彼の目には、そこが博物館の展示物ではなく、ただの昔の近所の家として映っていたのだろう。
その時、源吉の家と、そこに暮らした人々の魂が、私の胸に深く刻み込まれた。この家は、遠い異国からやって来た文豪が、束の間、心と体を開放した「日本の理想郷」そのものなのだ。
そして、その旅は、一本の汽車旅から始まる。
第一章:水泳家の夏の始まり
奥松から潮浜へ
時は明治三十年(1897年)の夏。
文豪、佐伯 櫂は、故郷のアイルランドで水泳選手だった過去を持つほどの水泳の達人だった。彼は毎年、猛烈な日本の夏を避けるため、家族と共に涼しい海辺の町を探していた。
最初に訪れた奥松の海は、遠浅で静かすぎる。水深の浅い海では、胸に抱えた熱を洗い流すことができない。櫂は、満足することなく、さらに西へ、さらに西へと汽車を乗り継いだ。
そしてついに、辿り着いたのが潮浜だった。
駅に降り立つと、磯の匂いと共に、波の音が聞こえてくる。櫂が案内された海は、奥松とは全く違った。急に深くなり、強い黒潮の影響で波が荒い。櫂は嬉々として着物を脱ぎ捨て、海に飛び込んだ。水は深い青色をしており、波に揉まれ、全身の疲れと共に、長年の心の垢まで洗い流されるような感覚を覚えた。
「素晴らしい!これこそが求めていた海だ!」
櫂は、たちまち潮浜の海を気に入り、ここを夏の定宿とすることを決めた。
旅館から源吉の家へ
最初は、浜通りの「福の屋」という小さな旅館に身を寄せた櫂一家だったが、すぐに問題が発生した。旅館の女将は、櫂が有名人だと知るや否や、宿泊料を不当に釣り上げ、さらに櫂を珍しい客として他の宿泊客に見せるような真似をし始めた。
人目を嫌い、静けさを求める櫂にとって、それは耐えがたい屈辱だった。
「ふさ、ここはいかん。私は静かにこの潮浜の海と、人々の生活を見たいだけなのだ」
憤慨した櫂は、すぐさま旅館を出ることを決意する。
その窮地を救ったのが、地元の魚屋、源吉だった。源吉は、有名な文豪が困っていると聞きつけ、自分の家の二階を貸すことを申し出た。源吉の差し出す心は偽りないものだった。
「先生様、どうぞ、心行くまでゆっくりなさってくだせぇ。ここは静かな家でございます」
櫂は源吉の純朴な厚意に深く心を打たれた。こうして、文豪とその家族の、潮浜での「第二の人生」が始まったのである。
第二章:源吉と潮浜の日常
1. 潮浜の床屋
ある日の朝、櫂は身なりを整えるため、源吉に紹介された町の床屋を訪ねた。片目に障害を持つ櫂は、自分の顔に刃物を近づける行為に常に神経を使っていたが、この床屋の主人の手つきは、驚くほど慎重で正確だった。
主人は、櫂の繊細な気持ちを察しているかのように、会話も最小限で、ただひたすら丁寧に鋏と剃刀を動かした。
櫂は深く感動した。支払いをする際、彼は規定の料金の他、もう倍ほどの銀貨を主人に差し出した。
「これは、君の技量に対する私の敬意だ。素晴らしい手だ。ぜひ受け取ってくれ」
主人は戸惑いつつも、恐縮してそれを受け取った。櫂は、金銭的な価値以上に、職人の誇りや技術そのものを尊重する人間だった。この話がすぐに潮浜の小さな町に伝わり、人々は「佐伯先生様は、見かけによらず、心根の優しい、情け深い御仁だ」と囁き合った。
2. 海と氷菓と父親の顔
櫂は、水泳の腕前を披露するかのように、毎日のように荒い潮浜の海に潜った。海から上がると、彼は一転して、三人の子どもの良き父親に戻った。
強い日差しを嫌い、日傘をさしながら、子供たちを連れて海沿いの石を積んだ防波堤を歩くのが日課だった。彼らが辿り着くのは、漁師町特有の、海の香りが濃く漂う小さな商店だった。
「さあ、上がったあとはこれだ」
櫂は、ふさが用意した小銭で、子どもたちに冷たい氷菓(アイスキャンデー)を買ってやった。その時だけは、文豪としての重責も、大学教授としての煩わしさも消え、ただ潮浜の太陽と家族の笑い声に包まれた、穏やかな父親が存在するだけだった。
3. 源吉様と鰻の楽しみ
源吉は、朝の味噌汁や煮豆といった素朴な食事を用意する一方で、時にはご馳走で櫂をもてなした。櫂が日本食の中で特に好んだのは、鰻だった。
源吉は、櫂を小さな船に乗せて川を遡り、地元の鰻料理専門の小料理屋まで案内することもあった。櫂は源吉のことを心から「源吉様は、神様のような仁です」と称賛し、その信頼は回を重ねるごとに深まっていった。
源吉の家での生活は、櫂にとって、日本の古典的な美しさや人々の純粋さを再発見するための、掛け替えのない夏の学舎となっていったのである。
第三章:潮浜の信仰と達磨の魂
1. 潮浜の荒祭り
櫂の滞在中に、町の中心にある潮浜神社の大きな祭りがやって来た。神輿が海へ突っ込む荒々しい祭りを観察した櫂は、それが共同体が持つ強固な魂の現れであり、何世紀も前の古代的な日本の姿そのものだと感じた。彼はこの祭りの様子を書き記し、異国の読者に潮浜の生命力を伝えようとした。
2. 波除け地蔵と漂流の物語
潮浜の海岸には、海難から人々を守ると信じられる波除け地蔵が祀られていた。櫂は、地元の老人から、嵐で船が難破した際、一枚の板子にしがみついて命が助かった漁師の話を聞き出す。この話は、櫂の心に深く響き、彼はすぐにこれを作品『漂流』として昇華させた。
3. 源吉だるまの不思議
櫂の滞在する源吉の家の奥、魚を売る土間の隅には、煤けて古びた達磨(だるま)の像が置かれていた。
櫂は、その達磨を眺めながら、思索に耽った。この達磨には、この家で何十年も繰り返されてきた生活、源吉一家の願いや喜び、悲しみが全て染みついているのではないか。彼は、この達磨に魂が宿っているかのような感覚を覚えた。
『源吉だるま』と題された彼の随筆には、この達磨が源吉の店の賑わいを見つめ、店に訪れる人々の様子をつぶさに記憶している、その「物言わぬ魂」についての考察が綴られた。
櫂は潮浜で、単なる避暑ではなく、生きた日本の魂を掘り起こしていたのである。
第四章:潮風に結ばれた永遠の絆
1. 最後の夏
1904年(明治37年)の夏がやってきたとき、櫂の体は明らかに衰えていた。心臓の苦しみは増し、水泳もままならず、二階の畳の上で静かに過ごす時間が増えていた。源吉は、献身的に世話を焼いたが、櫂が二度と潮浜の海に戻らない予感など、誰も抱いていなかった。
8月の終わり、櫂は今年の避暑を終え、東京へ帰る準備をした。源吉は駅まで見送りに来た。
「源吉様。この夏も、誠に感謝いたします。私は、あなた様に出会えて本当に幸せだ」
櫂はそう言い、深く頭を下げた。源吉もまた涙ぐみ、「先生様、来年もお待ちしております」と返すのが精一杯だった。
それが、櫂が潮浜で過ごした最後の夏となった。
2. 突然の別れと誓い
潮浜を去ってわずか数週間後の9月、佐伯 櫂は東京の自宅で、心臓の病により突然、息を引き取った。享年54歳。
訃報は、潮浜の源吉の家にもすぐに届いた。源吉一家は、その突然の悲報に深い衝撃を受けた。
妻のふさは、夫の死後も、夫が心から慕った源吉との絆を決して切らなかった。毎年夏になると、ふさは子どもたちを連れて潮浜を訪れた。それは避暑ではなく、追憶と感謝のための旅であり、源吉の家は、ふさ一家にとって永遠に「心の故郷」であり続けた。
3. 受け継がれる潮浜の魂
源吉もまた、その生涯を通じて、櫂が滞在した家を大切に守り続けた。
時が流れ、その家は「佐伯櫂避暑の家」として世に知られるようになり、潮浜の町の誇りとなった。
源吉は、別れを惜しみながらも、その家が多くの人々に佐伯先生と潮浜の魂を伝え続けることを知っていた。
「源吉だるまは、先生様がここに残してくれた魂じゃ」
源吉はそう独り言を呟き、潮浜の潮風に消えた夏の思い出を、静かに、そして誇らしく胸に抱き続けた。
終章:帰り道
過ぎ去った夏の日、父がハンドルを握る車は、
思い出を乗せ、夕焼けに車体を染めながら潮浜へと走っていた。
車中、夕闇が迫る頃、古びたカーステレオから、プロ野球中継が流れてきた。
「王が、世界のホームラン記録に並びました! ハンク・アーロンの偉大な記録と肩を並べた、この瞬間!」
父は「おう、やったな!」とハンドルを叩いた。
私は、その偉業を耳にしながら、ふと、明治の郷で聞いた老人の独り言を思い出していた。
佐伯 櫂、ふさ、源吉。彼らの生きた明治の夏は、とうの昔に終わっている。
しかし、私は、ぼんやり感じとっていた。
あの源吉の家の達磨と老人の口から出た懐かしい響きが、遠い異国の文豪と潮浜の人々の間を
温かく純粋な絆で結び、今も記憶し続けていると。
あの日、高速道路で感じた夏の終焉のような寂しさは、今、私の心を満たし、潮浜の魂を思い起こした。
(完)
潮風に消えた夏 沢 一人 @s-hitori
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