オレンジ色の車で(金色の虹彩 最終章)
柚木平 亮
D+3d AM(第1話)
一ノ宮家の広い居間は、飾られている美術品を除くと、とても、殺風景だった。壁は、コンクリートの打ちっぱなしで、天井には埋め込まれた数多くの白色のLEDの電球、掛けられた絵画には柔らかなスポットライトが当たり、大きな窓の外の風景すら絵に見えた。部屋の中央にあるソファは、四、五人が眠れそうなくらい大きいのに、この部屋に置くと小さく見える。葉月の父と母はそれぞれ一人掛けに座り、裕也は三人掛けに座って二人と向かい合っていた。裕也は、葉月の失踪を二人に報告していた。彼女は三日間家に帰ってきておらず、そのお気に入りの服や持ち物が部屋から無くなっていたのだった。
「心当たりはないんだね。」葉月の父が組んでいた腕を解いて右手を軽く顎に当てた。葉月の母は何も話さず少し遠くを見ていた。
「はい、今、思いつくところはありません。」裕也は組んでいた手を解いて五本の指の先を合わせた。
「こちらにも、連絡は無いのですね。」葉月の父と母のそれぞれに目を配って裕也は尋ねた。
「会社には三日前に体調が悪いから週末まで休むと連絡があったらしい。それからは、連絡が無いそうだ。綾さんは何か知らないのかい。」葉月の父は、ここにやって来た綾に何度か会っていた。
「...今、綾さんは体を壊していまして...最近は葉月とも連絡を取っていないようです。」裕也は嘘をついた。
「そうなのか。悪いのか?」葉月の父は綾に対する気遣いを見せた。
「あまり良くはないようです。」裕也はこの点は正直に話した。
「機会があったら見舞いに行ってやってくれ。」葉月の父は、裕也から少し目をそらして言った。
「はい。分りました。」
「それで、警察へは連絡したのか?」葉月の父は改めて裕也に視線を向けて言った。裕也は腰を引いて座り直し、姿勢を正して言った。
「いいえ、ご両親を前に、こんなことを私が言うのもおかしいのですが、私は、これは葉月が意志をもって行動していることなのだと思っています。だから、その行動には何かの意味があるはずなんです。葉月はそういう人だと思うんです。」
「私も、もし、事件や事故じゃないとすれば、同感だが...」葉月の父の右手は顎から唇の前までずれて、人差し指が頬骨に当てられた。
「明日の朝まで、お時間を下さい。これが葉月の意志で、何かの意味を持つのであれば、私はその意味が何なのか突き止めなければなりません。明日の朝までに、何かを見つけて報告をします。何も見つからなければ、私が警察に届けます。」裕也は葉月の父の目を真っ直ぐ見て言った。
「わかった。でも、本当に明日の朝までだよ。君から連絡が無ければ、私が届けるからね。」葉月の父は顔から右手を離し、腕組みを解いて言った。
「はい、分りました。ありがとうございます。」
葉月はきっと何かを残しているはずだ。そして、それは恐らく家の中にある。裕也はそう考えていた。
時々、渋滞に巻込まれながら、郊外の一ノ宮家から、都心の自宅へ車を走らせた。普通なら目を奪われるくらい見事に紅葉している街路樹の銀杏も、裕也には、ただ後ろにゆっくりと流れていく風景の一つに過ぎなかった。裕也は、そんなふうに車を運転しながら三日前のことを思い出していた。
夜中に拓磨から電話があった。眠ろうと思っていたところだった。葉月はまだ家に帰って来ていなかった。それは、酷く、要領を得ない電話だった。拓磨は取り乱していた。辛うじてわかったのは、拓磨はここ暫く、何度も葉月と二人で会っていたこと、そこで、彼女の過去を聞き取り、彼女と物語を作っていたこと、そして、今日も葉月とHOTEL L'ÉTOILE NOIREのフロントロビーで会い、そこで、葉月にこう言われたということ。
「今日はこのまま帰って。綾のことを看てあげて。私、綾を変えてしまったの。私、あなたが作った物語を演じて、綾を変えてしまったの。」そして、拓磨を置いてホテルを出て行ったと。これが裕也が理解した拓磨の電話での話しだった。それだけ聞いて、裕也はすぐに、拓磨の家に向った。裕也には、漠然と、最近の葉月は、このままでは彼女の何かが崩れ去ってしまうような予感があって、拓磨の電話が、その時がやって来たことを告げたように感じた。
拓磨と綾が住むマンションに着いて、その入り口のインターフォンで二人の部屋の番号を押した。反応がなかった。もう一度押した。すると、声の応答がないまま扉が開いた。エレベーターに乗って二人の部屋に向かい、その部屋のインターフォンを押したが応答がなかった。ドアノブに手を掛けると、鍵は掛かっていなかった。裕也は、「拓磨?」と少しだけ強めの声で呼びかけながら、玄関から廊下を抜けて居間に入った。そこに拓磨と綾がいた。
裕也がそこで見たのは、ソファに座って腕をだらんと下げ、目は虚空を彷徨っている綾を抱きしめ、小声で、しかし、必死で何かを話しかけている拓磨だった。裕也には、厳密には何が起こったのかは分からなかったが、その想像は付いた。葉月が拓磨と会っているのは知っていた。裕也にとってそれは、一面では、愛する者の裏切りであり、赦し難く耐え難いものだった。しかし、葉月のあるがままの姿と振る舞いを守ってきた騎士としては、それが念願の成就に向う葉月であれば、見守ることがその本分だった。ただ、葉月の逢瀬は、裕也が思っていたようなものではなく、何か特殊な密会だったらしい。そこで二人は物語を作っていたという。そして、それを葉月が演じたという。そのことが綾をこのようにしてしまった。そういうことなのだろう。
その時の裕也は、拓磨に何も言えず、何も出来ず、そのままそこを離れ自宅に戻った。正気ではなかった綾の姿が頭から離れなかった。それは裕也にこう思わせた。これは自分の選択が招いたことなのではないのかと。そして、虚空を彷徨う綾の瞳に見た金色の環を思い出していた。
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