海亀の夢

守智月 茶沙

貝殻が招いた夢

 この島には、やっぱり何もない。


 宿題は終わってしまったし、家にいても退屈だから散歩に出てきたけれど、特に面白いものは見つからなかった。

 テレビはほとんど映らないし、母さんに「せっかく田舎なんだから外で遊びなさい」と言われてゲームも持って来られなかった。

 島には公園もあるらしいが、流峡(るか)の自転車では遠すぎる。

 電話で文句を言っても、母さんは「海も山もあるんだから、することなんてたくさんあるでしょ」と笑うだけだ。


 俺からすれば、その“海と山しかない”ことが困っている理由なのに。

 海と山がキラキラして見えるのは、大人だけなんじゃないかと思った。


 目的もなく、防波堤沿いの道を歩く。

 麦わら帽子の影が、丸く足元に落ちている。

 この麦わら帽子は、外に出るならとおばあちゃんが貸してくれたものだ。

 おばあちゃんはいつも美味しいごはんを作ってくれたり、宿題を手伝ってくれたりするから優しいと思う。

 でも、あまり話したことがなくて、どこか距離がある。

 静かで、海みたいにおだやかな人だ。


「暇だなあ……」


 声にしてみても、急に楽しいことが出てくるわけじゃない。

 防波堤から波止場へ降りると、風が一気に強くなった。

 大きいつばの麦わら帽子があおられ、ひやっとする。

 あご紐のおかげで飛ばされずに済んだが、背中まで落ちた帽子をかぶり直し、押さえながら先端へ向かう。


 柵も何もない波止場の先に立つと、海の向こうを眺めた。

 向こう岸には、背の高い建物がぼんやりと見える。

 手前では、大きなタンカーがゆっくりと通り過ぎていった。


 代わり映えのしない景色にも飽きて、ふと足元の海をのぞき込む。

 青とも緑ともつかない、不透明な水面が揺れている。

 魚影は見えず、ただ水の色だけがそこにあった。


「……ほんとになにもないな」


 波止場の先でしばらく座り込んでいたが、やっぱり暇になって立ち上がる。

 そろそろ戻ろうかと防波堤のほうへ歩き出し、階段に足をかけたときだ。

 足元に、大きな貝殻が落ちているのに気づいた。


「ん、これ……貝? でっかいな」


 見たことのない大きさだった。

 どんな貝なのかはわからないが、なぜか気になって、拾い上げると思わず手の中でじっと見つめてしまう。

 形が面白かったので、そのまま持って帰ることにした。


 夕飯はカレーだった。

 家で食べるのよりずっと甘口で、細切れの肉がたくさん入っている。

 おばあちゃんは肉が苦手らしく、自分の分には全く入れていない。

 こっちに来てからの食事は、流峡が好きそうなものばかり作ってくれるけれど、おばあちゃん自身は別のものをよく食べている。

 それが少し不思議だった。


 風呂に入り、早めに布団に潜り込む。

 夜はすることもないので、最近は自然と早寝になってしまっていた。

 昼に拾った貝殻を枕元に置きながら、おばあちゃんに聞いた言葉を思い出す。


「アカニシの大きいのやと思うよ」


 聞き慣れない名前だけれど、どこか響きが気に入った。

 窓の外からはカエルの声が続いている。

 最初は気になって仕方がなかったのに、今はもう気にもならない。

 歩き回った疲れがどっと出てきて、まぶたが重くなっていった。




 海が見える。

 けれど、昼間のように向こう岸までは見渡せない。

 白い靄のようなものが、水平線の先をすっぽりと覆っている。

 手前の海は不思議なほど静かで、波ひとつ立っていない。

 流木すら落ちていない、真っさらな砂浜。

 そして、景色全体が白くにじむようにぼやけていた。


  ――ここは、夢だ。


「どこなんだろ……」


 あたりを見回しても、知っている景色は一つもなかった。

 右を向いても左を向いても靄ばかりで、どっちへ歩いても同じように思えてしまう。

 それでも、とりあえず足を前に出してみることにした。


 どちらへ進もうか迷っていたそのとき、海の方で何かが動いた。

 ゆっくりと、暗い影が水の中からこちらへ近づいてくる。

 最初は大きなウキでも流れてきたのかと思ったが、背中のあたりで何かが金色にきらりと光った。


 影は波打ち際までくると、ふっと水面から浮かび上がった。

 海水がぱあっと散って、その姿がはっきりと現れる。


  ――巨大な海亀だった。


 背中には、黄金の観音像のようなものが乗っていて、そこから柔らかい光がこぼれている。

 光が海面に反射して、周りの靄の中にゆらゆら揺れていた。


 海亀は宙に浮かんだまま、ゆっくりとこちらへ向きを変えた。

 観音像の光が背中でほのかに揺れる。

 その口元が、ふいに動いた。


「こんばんは、迷子の童(わらし)よ」


 低くて落ち着いた声だった。


 思わず息をのむ。

 夢の中だからか、海亀が話していても不思議と怖くはない。


「こ、こんばんは。……迷子って、俺のこと?」


 流峡は戸惑いながらも挨拶を返した。

 「童」が子どもを指す言葉なのは知っていたが、迷子と言われたことが気になって仕方がなかった。


「そうとも。夢の中とはいえ、人の子がこんな場所まで迷い込んでくるのは珍しいことだ」


 亀はゆっくりと流峡の手元へ視線を落とす。

 流峡が握っているのは、あの大きなアカニシの貝殻だ。


「……なるほど。おまえがここへ来られたのは、それを持っていたからかもしれない。となれば、これも不思議な縁(えにし)というもの」


 そう言うと、亀は小さく頷きながら近づき、流峡の隣に並ぶように漂った。


「迷子の童よ。少し、話をしよう」


「話って……何を?」


「そうだな。まずは――あなたの心に立ちこめている、この“靄(もや)”について、か」


 亀は前のヒレをゆるく動かし、周囲の白い靄を示した。


「この……白いのが、“靄”ってこと?」


 流峡が周りの白い景色を見回すと、亀はゆっくりうなずいた。


「ああ。ここは、迷い込んだ者の心をそのまま映す場所。今ここにいるのはおまえだけ。ということは、この景色も――おまえの心の中、ということになる」


「俺の……心?」


 そう言われても、流峡にはぴんとこなかった。

 さっき会ったばかりの亀に話すほどの悩みなんて、特にない気がしていたからだ。


「でも、そんなに話すことなんて……ないと思う」


 流峡が視線を落とすと、亀は少しだけ首をかしげた。


「本当にそうか? 」

「悩みや不満、あるいは言葉にならない“嫌なもの”。そういうものが積もらないかぎり、ここまで濃い靄に包まれはせんよ」


 その声音は、責めるでもなく、ただ困ったように優しかった。


「……嫌なもの、か。うん、ちょっとあるかも」


 流峡はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。


「この島に来たの、夏休みに入ってすぐで。母さんも父さんも仕事が忙しくて……。だから、おばあちゃんちに預けられたんだと思う」


 言葉にすると、胸の奥が少しざわついた。


「友だちもいないし、宿題も自由研究以外終わっちゃったし。やることなくて、毎日ひま。おばあちゃんは優しいけど、あんまり話したことないし……どうしたらいいのか、よくわからない」


 言いながら、流峡は自分の手元を見つめた。

 握ったままの貝殻の冷たさが、やけにくっきりと伝わってくる。


「なんか……ずっと、もやもやしてた」


 そう言い終えると、胸の奥から空気が抜けていくようだった。


 亀は静かにうなずきながら話を聞いていた。

 途中で口をはさむことは一度もなく、ただゆっくりと、寄り添うように耳を傾けていた。


 流峡の言葉が途切れたのを見て、亀はしばらく静かに漂っていた。

 背中の観音像の光が、ゆらりと靄の中で揺れている。


「なるほど……。では、ひとつ尋ねてもよいか。お前のいう“自由研究”というものは――本当に、何を調べてもよいのか?」


 思いがけない質問に、流峡は少し目を丸くした。


「えっと……学校のしおりには、なんでもいいって書いてあった。みんな理科のやつとか作るみたいだけど、別に決まってないよ」


 答えると、亀は満足したようにうなずいた。


「それは良い。ならば、私も少し話をしよう。おまえが心を見せてくれた礼として。――実は私も、ここしばらく退屈していたところだったのだ」


 そう言って、亀はそっと砂浜へ降り立った。

 観音像の光に照らされた甲羅が、砂の上でゆっくりと落ち着いた輝きを放つ。


「さあ、こっちだ。座って聞くとよい」


 穏やかな声に促され、流峡もその隣へ腰を下ろした。




「では――まずは一つ、“安産石”の話から始めよう」


 亀は静かに語り出した。背中の観音像の光が、砂の上でほのかに揺れる。


「この島の泊という場所の近くに、“安産石”と呼ばれる大きな石がある。今は郵便局の北側にあるのだが、もとは大山という部落にあったものが、いつの頃からか移されたと言われている」


 流峡は思わず息をのみ、亀の方へ身を寄せた。

 亀の声は、砂浜に静かに落ちていく波のように淡々としていて、けれどどこか温かい。


「その石の上で、大山祇神(おおやまずみのかみ)が生まれた――と、古くから語られてきた。子を授かりにくい者、難産になりそうな者が、その石に祈ると安らかに産めるようになる、という話も多く残っている。昔は命がけのことだったから、きっと皆、その石にすがるように願ったのだろう」


 亀は遠い昔の出来事を目の前に静かに浮かび上 がらせるように語っていた。




「では、もう一つ。これは――神様が“機(はた)”を織ったという話」


 亀はゆっくりと続けた。

 背中の観音像の光が、波のように砂の上で揺れ始める。


「さきほどの大山祇神(おおやまずみのかみ)は、昔、大山の神屋敷に住んでいた。時代が移り変わる中で、山から下へ降りることにしたと言われている」


 流峡はそっと耳を傾けた。


「神は相田川の北側にある小高い丘まで降り、そこから泊の海岸に伸びる波止に糸を渡して、暇があれば機を織っておられた。私も、ほんの一度だけだが、その布を見たことがある。とても美しい、縦じまの模様だった」


 亀の声が静かに落ちていく。


「やがてその布は、海の中で岩になった。しかし――神が大三島へ渡ったあと、どこかの石屋がその岩をすべて切り出してしまい、今では見ることができんと聞く」


 流峡は少し残念そうにまばたきをした。


「そういえば、その大山祇神が大三島へ渡るときのこと。年二つの女の子が海に落ち、命を落としてしまったという話がある。それ以来、“二歳の女の子を大山祇神社へ連れて行くと、神が妬んで病にさせる”と言われ、今でも気にする者は多いそうだ」


 亀はふっと目を細めた。


「もしあの頃、私が泊の方へ向かっていれば……助けられたかもしれんが。まあ、今となっては考えても仕方のないことだ」


 淡々と語る声に、遠い昔の風がふっと通り抜けたような気がした。




「では、最後に――少し、怖い話をしてやろう」


 亀は静かに目を細める。

 観音像の光が背中でゆらりと揺れ、その影が砂の上に伸びていった。


「田ノ浦の荒戸という場所には、昔よく海亀がやって来たそうだ。海亀は漁師にとって縁起もの。酒をふるまい、海へ帰すのが習わしであった」


 そこまでは朗らかな調子だったが、亀の声はゆっくりと落ち着いていく。


「けれど、ある年――作物が実らず、人々が苦しい思いをしていた頃のこと。ひときわ大きな海亀が砂浜へ上がってきてしまった。人々は最初こそ喜んだ。が……飢えには勝てず、その海亀を食べてしまった」


 流峡は思わず息をのんだ。


「それからしばらくして、海亀を食べた家々で、不思議とつまずきごとが続いた。祈祷師を呼んで祈ってもらうと、海亀の霊が現れ、こう告げたという」


 亀は声を少しだけ低くした。


「“わたしは傷つけられ、奪われた。許しを望むなら、わたしの失ったものを返し、祠を建てて祀れ”」


 流峡はごくりと喉を鳴らした。


「人々は困った。自分たちの身を傷つけることなどできん、と。そんな折、冬の嵐の夜に、一人の男が『船が難破した、助けてくれ』と戸を叩いた。しかし……疑いから誰も助けず、男は夜の海で命を落とした」


 風のない砂浜に、ひんやりとした気配が落ちる。


「人々は悔やみながらも、男の亡骸を“手向け”として海亀の祠に供えた。すると、それ以来、海亀の霊は姿を見せなかった――そう語り伝えられているのだ」


 亀は静かに息をついた。


「今も田ノ浦には、その祠が残っている。海亀の遺骸も、祀られたままと聞くな」




 流峡は、亀の語りを最後まで黙って聞いていた。

 砂浜の上に落ちる観音像の光が、物語の余韻のようにゆらゆら揺れる。


「……さて。今日の話は、このあたりにしておこう」


 亀がそう言うと、まわりの白い靄がいつのまにか薄くなっていることに流峡は気づいた。


「夜も更けてきたし、おまえの心の靄もずいぶん晴れた」


 亀はふわりと浮かび上がり、海のほうへゆっくり進んでいく。


「ねえ、亀さん。今の話を……自由研究にすればいいの?」


 流峡は思わず立ち上がり、あとを追うように声をかけた。


「そうしてもよいだろう。おまえの暇つぶしになればと思って、少し話しただけだ」


 亀は楽しげに小さく目を細めた。


「もし他にも気になることがあれば、春枝に聞くといい。――おまえの祖母だ。彼女は色々とよく知っている」


「おばあちゃん……?」


 流峡がつぶやくと、亀は海面すれすれまで近づきながら続けた。


「ああ、それと。亀老山に登ってみるといい。あそこは私にゆかりのある場所だからな。きっと何か見えるだろう」


 観音像の光が、最後にふっと強く揺れた。


「では――また、機会があれば」


 その言葉を残し、亀は静かに海へ沈んでいった。


 流峡はしばらく、消えていった海面を見つめていた。

 靄はほとんど晴れ、遠くには昼間見た向こう岸の景色が広がっている。

 寄せては返す波が足元を冷たく撫でた。


 景色がゆらりと動き、空が白んでいく。

 朝が近づいていた。




 まぶたの裏の白い光がゆっくり薄れていき、気がつくと流峡は布団の中にいた。

 窓の向こうで、鳥の声が小さく鳴いている。


「おはよう。今日も早起きやねえ。朝ごはん、もうちょっと待ってね」


 台所の方から、おばあちゃんのやわらかい声が聞こえた。

 いつも通りの朝なのに、どこか少しだけ明るく感じる。


「……うん。おはよう。顔、洗ってくる」


 流峡が答えると、おばあちゃんは

「行っといで」

と笑って、鍋の火を弱めた。


 洗面所で水をすくい、顔にあてる。

 冷たさで頭がすっと冴えていく。

 鏡に映る自分の顔を見ながら、流峡は昨夜の夢を思い返した。


「春枝に聞いてみるといい――って、言ってたな」


 胸の奥が、ほんの少しだけそわそわする。

 昨日までは“どう話していいかわからない人”だったのに、 今はちょっとだけ、近づいてみたい気がした。


 流峡はタオルで顔を拭くと、くるりと振り返って台所の方へ声を張った。


「―――ねえ、おばあちゃーん!」


 さあ、新しい一日の始まりだ。

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