好きということ
告白したわけでもないのに、クラスメイトの間でひそかに有名な質問がある。
「ねえ、今、誰のことが好き?」
昼休みの教室で、放課後の廊下で、帰り道のコンビニで。
誰かがふとした拍子に口にして、そのたびに名前の候補が何人か頭の中を駆け抜けていく。
でも私は、いつもそこでつまずいてしまう。
好きって、どこからが好きなんだろう。
かわいいと思うこと。 気になること。
目で追ってしまうこと。
一緒にいると落ち着くこと。
どれかひとつでも当てはまったら、もう「好き」と呼んでしまっていいのか。
それとも、全部そろって初めて、胸を張ってそう言えるのか。
そんなことを考えているうちに、質問は通り過ぎていく。
私はいつもみたいに、笑ってごまかす。
「今は特にいないかな」
ほんとうは、ひとりだけ、すぐに顔が浮かぶ人がいるのに。
日曜日の朝、図書館の自習室はまだ静かだった。
テスト前のラスト一週間。家ではまったく集中できなくて、私は早めに家を出た。
窓際の席に、先客がひとり。
イヤホンを片耳だけして、シャーペンをくるくる回しながらノートと向き合っている。
同じクラスの、佐伯くん。
彼は、真面目というより「ちゃんとしている」人だ。 休み時間は少し眠そうにしているのに、授業中はきちんと板書を写している。
体育のとき、ボールが当たりそうになった子にさりげなく手を伸ばしてかばったりする。
そういうところを、ちゃんと見てしまう自分がいる。
「あ、おはよう」
目が合うと、佐伯くんが軽く手を上げた。
「おはよう。早いね」
「そっちこそ。てっきり、誰もいないと思ってた」
「同じこと思ってた」
そう言いながら、私は彼の斜め後ろの席に座る。 横だと近すぎて、後ろだと遠すぎる。
斜め後ろは、私の中でのちょうどいい距離だった。
しばらくはお互いに勉強に集中していた。
ページをめくる音と、シャーペンの芯が紙を走る音だけが、静かな空間に落ちていく。
ふと、前の席から小さなため息が聞こえた。
「英語?」
思わず声をかけると、佐伯くんは笑って首を振る。
「いや、日本史。年号が、どうも」
「にがて?」
「苦手というか、好きじゃない」
好きじゃない、という言い方が、妙に耳に残る。
「好きじゃないけど、覚えなきゃいけないやつって、しんどいよね」
「分かる。というか、それ勉強そのものでは」
「うわ、図星」
私が笑うと、前の席からも小さな笑い声が返ってきた。
その音を聞いているだけで、少しだけ眠気が遠のく。
「じゃあさ」
佐伯くんが振り向かずに言う。
「好きな教科は、ある?」
「国語。物語読むのは好き」
「だと思った」
「え、なんで」
「昼休み、よく本読んでるから」
そんなところを見られていたことに驚いて、胸が少しざわつく。
「じゃあ、佐伯くんは?」
「うーん」
しばらく考えてから、彼はぽつりと言った。
「体育のバスケ。あと、コンビニの新商品のお菓子」
「それ、教科?」
「人生の必修科目」
「ずるい」
思わず声が大きくなって、慌てて口を押さえる。
隣の席のおじさんが一瞬こちらを見たので、ふたりで小さく頭を下げた。
昼近く、窓から差し込む日差しが少し強くなったころ。
私のお腹が、ぐう、と情けない音を立てた。
しまった、と思ったときにはもう遅くて、前の席の彼の肩が小さく震える。
「今の、聞こえた?」
「しっかりと」
「さいあく」
「いや、ちょうどよかった」
佐伯くんは、机の横のリュックをがさごそと探った。
そこから出てきたのは、小さなチョコレートバーが三本。
「休憩しない? 俺もそろそろ限界」
「それ、さっき言ってた必修科目?」
「そうそう。味見しようと思って買いすぎたから、よかったら」
「いいの?」
「うん。好きな教科の人とは、分け合いたくなるし」
「なにその基準」
文句を言いつつも、一本受け取る。
包み紙を開けた瞬間に広がる甘い匂いに、お腹がさらに騒ぎ出す。
「これ、おいしいね」
「でしょ。甘いだけじゃなくて、ちゃんとコーヒーっぽいのもいい」
「コンビニの人?」
「ほぼ常連。新商品は、とりあえず一回食べてみたいタイプ」
「そういうの、“好き”なんだね」
私が言うと、彼は少し目を細めた。
「うん。好きだね」
その言い方が、不思議と印象に残った。 軽くもなく、重すぎるわけでもなく。
ちょうど、さっきのチョコの甘さみたいに、後味のいい口調だった。
午後、いったん外に出てコンビニでおにぎりを買い、また同じ席に戻る。
夕方が近づくころには、自習室の席もだいぶ埋まってきた。
英語の長文に行き詰まり、私はペンを置いて天井を見上げる。
前を見ると、佐伯くんも同じように、シャーペンを指に挟んだまま止まっていた。
「ねえ」
彼が、少しだけ声を落とす。
「なにかを好きになるときってさ」
急にそんな前置きをしたから、私は姿勢を正した。
「うん」
「最初から“好きだ”って分かるもん?」
「どうだろう」
私は、今までの自分を思い返す。 アイドルの曲を毎日聴いていた時期。
小説家の名前を見つけるたびに本屋で探した作家さん。
それから、目の前の、この人。
「あとから気づくことの方が、多いかも」
そう答えると、彼は小さく「だよね」とうなずいた。
「どれくらい考えたら、“好き”って言っていいんだろうなって、最近たまに思うんだよね」
「最近?」
「最近」
その言葉だけで、胸の奥がざわざわする。 最近、彼の周りにそんな人が現れたのだろうか、とか。
それを真剣に悩むくらいには、相手のことを大事に思っているのだろうか、とか。
「私もさ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「いつも“誰か好きな人いるの”って聞かれて、よく分からなくて。
この気持ちはもう“好き”って呼んでいいのか、迷うことが多い」
「へえ」
佐伯くんは、振り返らずに聞いている。
「でも、今日ちょっとだけ分かった気がする」
「何が」
「好きって、たぶん、“知りたい”が増えることかなって」
「知りたい?」
「その人の好きなものとか、苦手なものとか。
テストで何点取ったとか、朝ごはん何食べたとか、どうでもいいことまで」
そこまで言って、私は慌てて付け足す。
「べつに、誰か特定の人の話じゃなくて」
「うん」
「一般論として、ね」
「なるほど」
彼は笑っているのか、真顔なのか、背中からは読めない。
ただ、シャーペンの回る音が少しだけ止んだ。
「じゃあさ」
「うん」
「今日、お前のこと、今までより少し知れたのは、つまりそういうこと?」
「え」
「好きな教科とか、本読むのが好きなこととか。
お腹が鳴るタイミングとか、甘い物に弱いところとか」
「待って、最後のいらない」
「でも、一番印象に残ってる」
「やめて」
思わず顔を覆うと、前の席から小さな笑い声が聞こえた。
「じゃあ、おれは」
少しだけ真面目な声になる。
「今日、お前の“好き”が増えたってことでいい?」
「……どういう意味」
「さっき言ってただろ。好きは“知りたい”が増えることだって」
彼はゆっくりと振り返った。
自習室の白い光の中で、いつもより少しだけ真剣な顔をしている。
「まだ、全部を知りたいってほどじゃないかもしれないけどさ」
その言葉の選び方が、この人らしいと思う。
「これからも、ちょっとずつ知れたらいいなって。そう思ってる時点で、たぶん、おれはお前のこと好きなんだと思う」
一瞬、自習室の音が全部遠くなった。
「ここで言うなって怒る?」
「……ううん」
本当は、心臓がうるさくて、怒るどころじゃなかった。
でも、ようやく気づいた。
私がこの人のことを目で追ってしまうのは。 ふとした仕草まで覚えてしまうのは。
今日のように、日曜日の朝に図書館へ行く気になれたのは。
全部、「知りたい」が増え続けていたからだ。
「じゃあ、私も」
言葉がこぼれ出る。
「佐伯くんの好きなもの、もっと知りたいから。
たぶん、私も佐伯くんのこと、好きなんだと思う」
言ってから、机に突っ伏したくなるほど恥ずかしくなった。
でも、もう取り消せない。
少しの沈黙のあと、彼がほんの少し照れた声で返す。
「じゃあ、来週の図書館も、予約していい?」
「図書館の席って、予約制だっけ」
「暗黙の」
「誰との」
「お前との」
馬鹿みたいなやり取りをしているのに、涙がにじみそうなのはどうしてだろう。
たぶんそれも、好きということの一部なのかもしれない。
夕方、窓の外がすこしオレンジに染まり始めたころ。
私たちは勉強道具を片付けて、同じタイミングで席を立った。
「じゃあ、帰りにコンビニ寄ろうぜ」
「また新商品?」
「いや、今日はお前のおすすめ聞きたい」
「私の?」
「好きなもの、ひとつずつ教え合うのも、悪くないでしょ」
彼がそう言って笑ったとき。
胸の中で、はっきりとひとつの線が引かれた気がした。
ああ、これが「好き」ということなんだ。
誰かとコンビニに寄るだけで、こんなにうれしくなること。 来週の日曜日の約束を、カレンダーに何度も確認してしまうこと。
テスト範囲よりも、その人の好き嫌いを覚えてしまうこと。
全部まとめて、好きということ。
図書館の自動ドアをくぐるとき、私は小さく深呼吸をした。
横に並ぶ足音が、来週も、その先も続いていけばいい。
そんな未来を少しだけ信じてみようと思えた日曜日だった。
恋愛掌篇小説集 髙橋P.モンゴメリー @shousetsukaminarai
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