第27話 8年前の約束

12月


「大学の推薦、どこにするか決めてないだろ?」


「あっ……うん…」


ROUND1での昼食会は、11月に決まった白浜以外の推薦決定祝い。

なぜ白浜が抜けているかというと、白浜がまだ大学を決めていなかったからだ。


何十校に及ぶ特待生枠の推薦。選ぶのにも一苦労するほどの量なのに、白浜は一向に決めようとも探そうともしていなかった。


石田みたいに怪我を抱えている様子もない。選び兼ねる何か別の理由があるとしか考えられなかった。


今では白浜の進路は本人だけの問題ではなくなっている。校長もいそいそと報告を待っているのだ。


「なんか言われてんのか?親に。もしそうなら俺も一緒に説得しに行くぞ!」


「じゃなくて、違くて…」


白浜はパーカーの紐をもじもじと掴み、俯いたまま下唇を噛んだ。言いにくいことや、言いたくないことがあるときの、白浜の癖だ。


「俺は頼りねーからな!」


気持ちの整理がついていないそいつに、無理して聞き出しても意味がない。周りの喧騒がありがたかった。


「俺の家があったかいって、確かにそーかもしんないな。俺がゲイだってこと、いつの間にか受け入れてくれたし。普通に接してくれるのも、恵まれてんのかなって。さっきの白浜の言葉でそー思った。白浜の言葉ってさ、真っ直ぐで素直で、んでとてもあったかいんだ」


俺は自分の顔をズイッと白浜まで詰めた。そして間近の薄茶色の頭を優しく撫でた。


「お前の言葉に俺は何度も救われた。俺もそーしたい。白浜のその瞳の奥の翳りを追い払ってやりたい。白浜が心から頼ってくれる男になりたい!」


白浜の瞳が揺れる。まだまだ慣れてくれない俺のスキンシップにそれでも離れることも、払うこともしない白浜を心から大切にしたいと思う。


「……センセーのこと、頼りないって思ったことはない。いつも助けられてるし、センセーがいたから今の自分があるんだ」


前々からそうだ。白浜は俺の知らないところで俺を知っている。そんな感覚――。


俺はゆっくりとその節だった手を、綺麗で小さな手にそっと被せた。段々と耳まで赤くなるそいつが愛おしい。


「――存在意義って言ったじゃん?それ、ウチもそーなんだ。水泳して星野センセーに見つけてもらうこと――」


「え?」


「水泳続けて、センセーに指導してもらう。ただそれだけがウチの存在意義。だから、もう叶ったからウチは……」


「ちょっと待て!!」


俺は勢いよく、白浜の肩を掴む。俺の熱い眼差しに白浜の驚いた顔が映る。


まさか、嘘だろ……。


「お前、水泳やめる気か!?たったそれだけのことが叶っただけで、その才能を終わらせるのか!?お前には世界が取れる!華々しい世界に駆け出して行ける!お前にはその価値があんだぞ!!」


「でもっ!!!でも…」


苦しそうに歪む顔。必死に感情を抑えようとする表情。


「そこにセンセーは、いてくれねーんだろ?」


「はっ…」


「たったそれだけじゃない!センセーに教えてもらうこと、それは”たった”じゃない!これはウチの生きる支えだったんだ!!!」


白浜の大声に、周りの喧騒が静まり返った。その隙に白浜は俺の手を離れフードコートから走って行った。


「白浜っ!!!」


「ピピっ!」


完全に視線が集まるフードコートの一角。

俺は慌てて、テーブルのお盆を頭を下げて店員に預け、小さな背中が消えて行った姿を追って全速力で駆け出した。


またしてもあいつの姿を追いながら、俺は走って走って、スポーツマン星人の底力をみせてやると、一気に加速してみせた。



「お前、マジではえーよっっ!!」


ゼイゼイ息を整える。白浜が走って逃げた先はROUND1から500mほどの先にあるストバスコートの運動場。

今は誰も使っておらずガランとしている。


フェンス越しの向かい側のベンチに、そいつは目を赤らめて座っていた。


「……ケイは大丈夫?」


その言葉に俺のバックから勇ましく出てきたケイ。いつもなら直ぐに自分から駆け出して行くのに、やはり寒い冬は苦手みたいだ。


「大丈夫みたいだな」


「そっか…良かったな……」


「ピぃ……」


白浜はバックの中でケイを撫でる。俺は置き忘れていたダウンコートを白浜に掛けてやった。


チッチッチと何かの虫が鳴いている。サワサワサワと冷たい風が俺の髪を掠めた。


――少しして、白浜がゆっくりと息を吸った。


「……ウチが水泳をやってたのは、昔、センセーの泳ぎを見たことがあるからなんだ…」


「――俺の泳ぎ…?」


その言葉に驚いて白浜を見ると、白浜は和かな表情を纏っていた。


「センセーの綺麗で躍動感ある泳ぎに、一瞬で目を奪われた。あーなりたいと思った。だから何度も何度も、テレビで放送された星野選手の泳ぎを見て、確認して、覚えて。ウチの土台は星野選手でできてるんだよ!」


ーー俺が白浜の土台……?


「いや、俺はあんなに綺麗なフォームじゃない…」


「してたよ!綺麗なフォーム!そりゃ、全部真似してもタッパーや骨格の違いの問題があって、少しはオリジナルの部分もあるけど、星野選手という骨組みに、自分なりの肉付けを加えて、完成したのが今のウチの泳ぎだ!」


だからあのとき。初めて白浜の泳ぎを見て海南のコーチは凄いと褒めたとき、力強く否定したのか……。


俺がこんなにも人を魅了する泳ぎをやっていたなんて……。


そー言えば全国大会で会った少年も似たようなこと言っていた。綺麗だと。凄かったと…。


俺は次の言葉も忘れて、その場に放心状態になる。


「ウチがなんで強豪校の海南から明鳳に編入したか分かるか?」


急に話題を変えられたもんだから、その回答に頭をチェンジするのに時間がかかってしまった。

そうなのだ。常々疑問だった。


なぜ一人暮らししてまで編入して来てのか。どうやって外泊禁止という強固な考えを持った親を説得できたのか。


俺が黙って白浜を見ていると、その口元が好戦的な笑みを見せた。そうして小さな指先が俺を指した。


「星野白狼!センセーがいたからだよ!」


「えっ!??」


俺がいたから…?って、なぜだ?なぜ俺が……?


「この前、センセーが水泳辞めたこと話してくれたけど、ほんとはウチ、そのこと知ってたんだ」


「えっ!?」


「理由までは知らなかったけど、引退したことは知ってた」


俺の瞳孔が開く。あのカッコ悪い出来事を白浜は俺に会う前から知っていた……?


「誤解すんなよ!誰かの告げ口なんかじゃない!ずっと追いかけてたから。試合には1回しか見に行けなかったけど、その後も地元の新聞をネットで拾ったりして、星野選手の動向をチェックしてた。星野選手の泳ぎはウチの救いだったから!」


「……」


俺が何も言えないでいると、白浜はまたフッと蕾がほころぶような笑みを見せた。


「それで、星野選手が大学3年の夏に引退したのを知った…。でもさ、それでもウチの目標が無くなったりはしなかった!ウチの憧れは変わらない!今も、昔も、これからもずっと!!」


熱い眼差しは俺の中の全てのモノを包んでくれる。言いようのない幸福感が押し寄せる。


「センセーが水泳を引退して、新聞でセンセーの動向が確認できなくなったとき。中3の春に、明鳳高校のHPで校長のコラムを見たんだ。『水泳部を沸き立てた英雄が、数学教師として凱旋しました!』って」


「えっ?そんなの知らない…」


校長は学校のHPで『校長シローのつぶやき』というブログを載せている。そこに自由気ままに書き込むという話は聞いていたが、


まさか俺のことをそう呟いていたなんて全く知らなかった。


「それ見つけたとき、身体中が熱くなって、いても立ってもいられず、直ぐに明鳳高校に電話した。電話に出た事務の人に「星野先生いますか?」って聞いたら、「少々お待ちください」って言われた」


あー、セキュリティ甘いのなーなんて、事務改善が必要だと思う余裕すら戻ってくる。


「いっとき待って、電話口に星野選手の声がした。ウチが憧れてやまない人が電話口で「お電話代わりました、星野です」ってあの優しい声が。紛れもない星野選手だった!あんときウチ固まっちゃって無我夢中で何か叫んで電話切ったんだ。テンパりすぎて何言ったかも覚えてねーけど」


白浜は気まずそうにあはははと笑った。

ちょっと待て。それ覚えてる――。


初めて赴任した母校での始業式。まだクラスも持ってないし、赴任したばかりの俺宛の電話だったから、訝しげに電話口に出た。


そうしたら擬音語が数回聞こえて、イタズラ電話の類だろうかと受話器を置こうとしたとき、「約束守ってくれてありがとう!」そう言って切れたのだ。


「――あんときの電話、お前だったのか…」


俺が静かに溢すと、覚えていたことに驚きを見せ、白浜は恥ずかしそうに頷いた。

「約束ってなんだ?」そう聞こうとしたとき、白浜の痛々しい声が重なった。


「でも母親は大反対した。明鳳高校だと家からは通えない。絶対に許さないと。どんなに頼んでも、その頭が縦に振られることはなかった。折角見つけたウチの光が消えてしまう……」


白浜はギュッと手を握った。その横でバックから出たケイが、その手に擦り寄っていた。


「海南に入学した後もどうしても諦め切れず、父親を説得して、ようやくこの3月に夢にまで見た明鳳高校に編入できた。だからセンセー!ウチはもういつ辞めても悔いはないんだよ!センセーから水泳を教わる。一番の夢が叶ったから!」


強い眼差しに眩暈がする。

輝くばかりの閃光はいつになってもその強さを失わない。光が強いほど影は大きくなる。


だがその影すらも容易に照らす白浜という存在に、俺は一生敵わないと思った。


「そうか。いたんだな。いてくれたんだな。俺を目標にしてくれてる人が……。水泳やめたら俺の価値観は無くなると思ってた……」


「んなことねーよっっ!!」


熱い反論に、白浜はフッと漏れるだけの笑みを溢す。


「センセーはウチのヒーローなんだ!!」


顔をふにゃっとしながら、泣き顔なのか笑顔なのか、そんな不恰好な顔が綺麗だった。嬉しかった。心から愛おしいと感じた。


「一緒だ……。俺のヒーローは白浜、お前だよ。あの日、初めてお前と出会った日。あの教室で、俺は救われた。ゲイである俺の悩みを一気に吹き飛ばしてくれた。お前がいたからまた水泳を好きになった。お前の存在が俺を救ったんだ……」


目も鼻先も真っ赤な白浜の小さな頭をポンと撫でて、俺は涙目のまま慈しむように見つめた。間近の白浜は何やら気まずそうに、そっと目を伏せた。


「違うよ」


「ん?」


急に発せられた言葉に、不思議そうな顔を向けると、その眼差しが俺を射た。


「あの日が初めてじゃない。ウチとセンセーはそのずっと前に会ってる」


「えっ!???」


「ピっ」


思いもよらない言葉に俺は盛大に驚いた。思わず鼻を鳴らしたケイを見やる。


ずっと前?――いつだ?


思い出せないでいる俺の顔を、切なげな瞳が捕え、そしてフッと、ただ息を吐くだけの笑いを見せた。


「8年前。センセーが全国大会で優勝したとき。ウチとセンセーは会ってる」


嘘など言っているような目ではない。切実な意志を伴った眼差し。


ーー俺が全国大会で優勝したのは18歳の夏……。

白浜は10歳…てことは、小4くらいか?


あっ!!!!


稲妻が落ちたように、雷鳴が轟いたように、今、白浜と俺の8年前の記憶がピッタリとはまった。


「キラキラ怪人8号!???」


俺が叫ぶと、その言葉に白浜がまたフッと笑った。そうして、ゆっくりと頷いた。


嘘だろ――。

少年だと思っていた。ずっと、小学生の男の子だと……。


格好も言葉遣いも、疑う余地がないほど男子児童だった。それに、あんとき確か――。


驚愕の面持ちで白浜を見やると、白浜の口元が恥ずかしそうに弧を描き、俺の大好きな顔で笑った。


「あのとき。初めて見たセンセーの泳ぎにウチは救われたんだ――」


その大きな瞳に真剣な俺の姿が見てとれた。

その目元が細くなり、厚ぼったい唇がゆっくりと動く。


遠くで風が低く唸った。白浜の睫毛がかすかに震えた。


「――聞いてくれますか?結構めんどーなウチの家の話」


綺麗な瞳だった。


澄んだ奥に、覚悟と憂いが静かに同居している。

もう逃げないと、自分に言い聞かせているようにも見えた――。

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