第24話 神谷彰

11月


翌日。

那覇市内は終日自由行動だった。

海風に混ざる潮と観光客のざわめき。俺は班の生徒らを見送り、ひとり、ゆっくりと歩く。


昨夜、白浜との会話が俺の背中を押した。

スマホで検索した地名を頼りに、国際通りを外れた細い通りへ入る。土産物屋の喧騒が遠のき、代わりに、乾いた風と、シャッターを下ろした店の静けさが満ちる。


『高良写真工房』


黒ずんだ木製看板。ショーウィンドウのガラスには白く淡い日差しが反射し、店の奥はよく見えないが、レトロな雰囲気が温かさを醸し出していた。


俺は店の前に立ち尽くした。いや…立ち尽くすしかなかった。

足がすくむ。なんと言おう。久し振り?写真家になれたんだな?元気だったか?――なぜあのとき身を引いたんだ……?胸の奥がじくりと疼く。


どこかの店舗の風鈴が、ちり…と揺れた。その小さな音が、心臓を揺らす。


「あのぉ。うちに何が御用でしょうか…?」


――何度も何度も聞いた声。魂を揺さぶられた声。そんな懐かしい声が俺の背後から語りかけた。

見なくたって分かる。彰だ――。

神谷彰が今、俺の後ろにいる。体の奥の奥で、細胞が震える。


俺は勢いよく身を翻した。その拍子に、相手が息を呑む音が空気を震わせる。


「…っっっ!白狼…くん…?」


風が止んだ。那覇の午後の日差しも、観光客の笑い声も遠のく。

そこに立っていたのは、確かに 神谷彰だった。


俺の人生は、この声を忘れたことなんて一度もなかった。

重ねた時間。重ね合った体の温もり。それらが自然と思い出された。


「……良かった…。生きてたーー」


生きていてくれるだけで、こんなにも世界が優しくなるなんて、知らなかった。

俺はずっと、怖かったんだ。


ノンケのこいつが、俺のせいで同性愛者のレッテルを貼られ、優しくて弱いヤツだったから。

耐えられなくなって命を絶ってるかもしれない――。

そんな恐怖が、ずっと、骨の奥にこびりついていたんだ。


だから今、目の前で息をしている。それだけで、膝が笑いそうだった。


俺のストレートな物言いに、彰はほんの一瞬だけ瞬きをした。驚き、戸惑い、それでもすぐに柔らかく目尻が下がる。


「――生きてるよ。ちゃんと生きてる。白狼くんも……元気そうで、よかった」


笑っているのに、瞳の奥が震えていた。


「……中、どうぞ」



彰に促され、店の脇にある細い通路を通る。

錆の浮いた手すり、洗われて干された雑巾、生活臭。観光地の光から少し外れた「現実の色」。

扉を開けると、店内はひんやりとした空気に満ちていた。


壁一面には大小の写真。

海の中、雨に濡れた街角、人物の後ろ姿――光がやわらかく縁取るように写っている。

そこに置かれた小さな丸椅子が二つ。

彰は奥の作業台に寄り、俺は入口近くの光が差す方に腰を下ろした。


二人の距離は、手を伸ばせば触れられるほど近い。けれど、触れない。もう、そういう二人ではない。


「どうして沖縄に?」


「――俺。明鳳高校の教師やってて。今、絶賛修学旅行中なんだ……」


彰は慣れた手つきで湯を注ぐ。声を交わすたび、カップ同士が小さく触れる音が重なった。カップの縁から立ちのぼる紅茶の香り。


――俺がコーヒー苦手なこと、覚えてるんだな。

たったそれだけのことが、胸の奥で音を立てる。


「白狼くんが、母校の先生になったことは知ってた。インターハイの報道、こっちでもひきりなしだったから」


「――そうか……」


インターハイの後、俺も何度かインタビューを受けた。確かにあのときはいろんな関係者から連絡をもらった。彰が知っていてもおかしくない。


「――彰は、どうして沖縄に?」


名前を呼んでも、胸はもう痛まなかった。

彰はカップを二つ置いて椅子に座ると、背筋をすっと伸ばした。


「……大学辞めた頃。ちょうど、僕の両親が離婚して。母方の実家が写真事務所やってたから、それで……」


そう言えば、カメラを教えてくれたのは祖父であると言っていた。あの頃の他愛のない話が頭をよぎる。


「そっか。写真、好きだったもんな。続けてくれてて嬉しいよ」


彰はそっと、湯気が揺れるカップを置く。肩の力を抜くみたいに呼吸を吐いた。


「――どうしてここが?観光の場所からは離れてるでしょ?」


「美ら海水族館。そこで、お前の展示品を見た」

「あぁ。そうか……。あれ、僕の自信作」


彰の手が、展示の話をするときだけ、ほんの少し誇らしげに胸のそばで動く。その仕草に、昔のままの“好きなものを語る癖”が残っていた。


「うん。凄かった。写真なんて分からないけど、どこか懐かしくて、魅入られた」


「――ありがとう」


彰の目が、柔らかく細められる。柱時計の針が コッ…と店内の静けさに小さく響いた。しばしの沈黙がカップの置き場を困らせる。


「……どうして泳ぐことを辞めたの……?そんな必要なかったんじゃないの?」


突然、彰の声色が変わった。必死に訴えかけてくる眼差しをもう逸らしちゃいけない。そう思った。


「何もかもが嫌になったんだ。泳ぐことも、自分を肯定することも。全部――」


彰の指が、カップの縁をぎゅっと掴んだ。言葉より先に、感情が揺れていた。


「逃げた僕のせい?一緒に闘ってれば良かった!?」


彰の声がかすかに震えた。張り詰めていた糸に触れたら切れそうな声だった。


――こいつも止まっていたんだ。俺と同じ場所に。

俺はゆっくり首を振った。


「――そんなわけないだろ。俺はあの頃、誰よりもお前を守りたかったんだ。側にいてほしいと思ったことはあったけど、お前を巻き込みたくなかった」


俺は一度息を吸った。現像液のツンとする匂いが鼻腔をくすぐった。


「その気持ちは本物だった。水泳を辞めたのは――うん。そうだな……」


そのとき。あの車の中で言われた言葉が光となる。


「もう一度、泳ぐことが好きになるための布石だったんだと思う」


彰の瞳孔が、驚きと安堵で揺れた。


「教えてくれたんだ。大切な人が。俺の本能は”泳ぐこと”が好きなんだって」


その瞬間、光が降り注いだ。そんな感覚にとらわれた。


「選手としての道は閉ざされたけど、これからは指導者として選手を支えたい。今は心からそう思ってる!」


「――そっか…。良かった……。後悔してないんだね。良かった――」


彰の声は震えていて、でも、痛みではなく、解放のようだった。俺はそっと、彰の肩へ手を置いた。肩は驚くほど細く、でもしっかりとした温度があった。


「ごめんな。彰。ずっと抱え込ませて。本当にごめん……」


「本当にそうだ!僕がどんな思いで……」


「うん。ごめん。だけどもう、悩まないでくれ。進んでくれ。神谷彰の人生を、自分だけのために」


彰は泣きながら笑った。その笑顔は、やっと前を向く人間の顔だった。


「白狼くん、変わったね。さっきは変わらないって思ったけど。変わった。素敵な人なんでしょ?白浜さんって!」


「えっ!????」


俺は意外なとこから降ってきた名前に、取りつく島もなく驚きの形相を晒した。

大きく狼狽し、あたふたしていると、目の前のかつての恋人がふわりと意地悪く笑った。


「バレバレだから!テレビで映ってたよ。もう、デッレデレ!僕、あんな眼差しで見つめられたことなかったもん!ちょっとムッときたけどさ。今なら分かる。星野白狼が変わったのは、白浜さんのお陰なんでしょ?」


「……あぁ。うん…。あいつが変えてくれた。俺のカッコ悪い過去を全部、”普通”に変えてくれたんだ……」


その名前が出ただけで、胸の奥が勝手に熱くなる。

俺の心はその名前の主で満ちている。


「良かった。……僕もね、実はもうすぐ父親になるんだ」


「へ?」


またしても素っ頓狂な声が出た。だがこの驚きは安堵の驚き。空から降ってきた祝福の声に俺の気持ちはどこまでも晴れやかになる。


「ちゃんと進んでるから。白狼くんに負けないよう、僕も幸せになるから」


あぁ、これでやっと、本当に手放せる。俺たちの痛みも、時間も、全部――。


「良かった……。本当に。良かった……」


傷付けて、悩ませて、居場所を奪った相手の幸せ。

良かった。彰が幸せで……。大切な人に出会えて本当に良かった――。

それらが全て涙となった。


5年もの時を経て、遠回りして、俺たちはようやく辿り着いた。


――俺たちの終着点はここだったんだと、その古い柱時計に見守られながら俺は涙した。

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