第21話 揺るぎない盾と矛
10月
俺は全集中で白浜を追いかけた。
白浜の全速力に敵う奴なんてそうそういない。
方向からして、行き先は学校だろう。その予感に賭けて、足がちぎれそうなほど走った。
学校が見えたとき、1限が終わる頃だった。
昇降口に飛び込み、3-Aの靴箱を覗く。そこに、置かれていた白浜のスニーカー。
それを見た瞬間、肺の奥の空気が一気に抜けた。
良かった。ここにいた――。
次は教室だ。そう思って廊下を駆け出したとき、ちょうど移動教室で出てきた石原先生と鉢合わせた。
「星野先生!西畑先生が呼んでいました」
養護教諭の西畑先生――けれど、今は白浜の方が先だ。軽く会釈してその場を通り過ぎようとした瞬間、石原先生が続けた。
「白浜さんがいるみたいです」
その一言で、俺の足が止まった。
「ありがとうございます」
胸の奥から本当に安堵が溢れて、気づけば、教員の前で一度も見せたことのないような笑顔を向けていた。石原先生の頬が一瞬で赤く染まる。
保健室へ方向を変え、扉の前で軽く呼吸を整える。
トントン。
ノックと同時に、西畑先生の落ち着いた声が返った。
「どうぞ」
ガラ――。
扉を開けると、外の光が一気に保健室へ流れ込む。
執務机の前に、西畑先生が静かに座っていた。だが――白浜の姿は見当たらない。
「白浜さん、いま、寝てる」
「え?」
顎で示されたのは、ベッドの並ぶ一角で、そこだけカーテンが閉じられている場所だった。
許可を得て、薄いピンクのカーテンをゆっくり開ける。
いた……。
中では、白浜が深い眠りに沈んでいた。その横ではケイが寄り添うように同じく目を閉じている。まるで白浜を守るナイトのようだ。
二人(匹)の姿を見ただけで、膝から力が抜けそうになった。
西畑先生に呼ばれ、そっとカーテンを閉じて戻る。用意された椅子に腰を下ろすと、まるで診察を待つ患者のような気分だった。
西畑先生は、眼鏡の奥の真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
「白浜さん、さっきここに来たとき……。突然、意識が落ちるように眠ってしまったの」
「落ちるように?」
「そう。まるで電源が切れるみたいにね」
胸がざわつく。
昨夜の出来事が、頭を過ぎる。
西畑先生は静かに続けた。
「あれは、ただの疲労や寝不足じゃない気がする。昼休みにここで寝てたのもその余波だったのかも……。心理性の過眠に近い状態だと思う」
「心理性……?」
「強いストレスが長期間続くと、心が自分を守ろうとして、“強制的に眠らせる”ことがあるの。眠りたいから眠るんじゃなく……。脳が“これ以上は危険”だと判断してブレーキを踏むように落ちてしまう」
言葉のひとつひとつが、鈍い衝撃となって胸に落ちていく。
「そんな……」
「本人は気付いないかも。白浜さんのように気丈な子ほど、限界を誤認する。でも心は、もう限界に近い」
白浜の言葉が思い出される。海南で授業中、ほとんど寝てたと言っていた。
――強いストレス。全国大会に行けなかった白浜。家庭環境……。
ゾクっ!
何やら深い闇を見た気がした――。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こる。
「……大切な人との仲違い。これって関係ありますか?」
俺の懺悔めいた問いに、西畑先生は眉を顰めながらも短く頷いた。
「大いにあるね。誰かと衝突したり、感情が大きく揺れる出来事は、こうした症状の“最後の引き金”になることがあるの。今朝の白浜さんは、相当危うい状態だったから」
知らず、拳を握っていた。
俺が……追い込んだ――。
「放置すると危険よ。倒れる頻度が増えたり、起きたあと強い倦怠感や吐き気が出ることもあるから」
西畑先生は俺をまっすぐ見た。
「星野先生。白浜さんには、精神的な休息が必要だと思う。それと……安心できる大人の存在が」
「……俺に、できることは?」
声がわずかに震えた。
西畑先生は、少し柔らかい目を向ける。
「今はただ、傍にいてあげて。白浜さんは、星野先生の前だと気を抜くから。それは、とても大事なことだから」
胸の奥がじん、と熱くなる。
こんな感情持っていいはずがない。原因は俺だ。
“最後の引き金”は俺なのに――。なのに、なんで、どうしてこんなにあったかくなんだよ――。
「白浜さんのこころ。守ってあげてね」
その言葉が、胸に深く刺さった。
俺はゆっくりとカーテンの方を振り返る。
薄い布越しに、規則正しい白浜の寝息が聞こえる気がした。
「はい。俺が白浜蛍の盾と矛になります。一生、守り抜きます!」
握りしめた拳が、小さく震えた。
西畑先生は俺のセリフに、眼鏡の奥の瞳を大きくしたが、すぐに目尻を下げ、陽の光のような穏やかな笑みを溢した。
カーテンの奥で眠るケイから、「ピっ」と、俺の決意を見守るような音が聞こえた。
※
西畑先生から目が覚めたら呼ぶからと、授業に戻るよう促され、後ろ髪を引かれながら保健室を後にした。
放課後。
部活は西畑先生が代わってくれた。白浜はまだ眠ったままだ。悪い夢から守るようにケイも目を閉じたままだった。
保健室の鍵を預かるとき、「王子様のキスで目覚めるかもね〜」と、揶揄われた。
厄介な人だ。だが、今回ばかりは頭が上がらない。
俺はきちんと頭を下げて礼を落とした。
白浜のベッドの脇に椅子を置き、白浜を注視しながらそこに座る。
「……白浜…」
小さく溢された声。震えていた。
死んだように眠る白浜が、劇の人魚姫と重なって――。
そういえば、あの話はどうなったんだろう。続行不可能となった『腹黒王子と人魚姫』は、ラストまでは演じられなかった。
きっと、ハッピーエンドだろう。めでたしめでたし。
だが、現実もそうだろうか――。
怖くなり、俺は白浜の手を両手で包み込んだ。そのまま自分の額へ持っていく。
「……白浜。起きてくれよ。頼む――。早く謝らせてくれ――」
シンと静まり返る保健室に、規則正しく聞こえるケイの寝息。
廊下で生徒の笑い声。小走りする足音……。
それらがやけに大きく聞こえた。
「……蛍」
初めて名を呼んだ。
木瀬と石田に感化されたのかもしれない。
握っていた片手を、白浜の額へ持っていく。
サラ――。
塩素で少しパサついているその髪を、優しく撫でる。
「蛍――」
そっと頬に触れる。
魔性の言葉が蘇る。
『王子様のキスで目覚めるかもね〜』
まさかな――。
それでも、体を浮かしてしまうのはなぜだろう。
俺の欲望?白浜を目覚めさせたいから?
――違う。本能だろ!
俺はそのまま、体を白浜に寄せる。
劇のときのような動作なんて、現実はできない。余裕なんて全くない。
ベッドに手を付き、体の軸を移動させる。
近付く距離。少し半開きの唇。
ドクドクドクドク……。俺の早鐘の心臓。
そして、ケイの瞳……。
ん?ケイの瞳????
その刹那――。
バシッ!!!
強烈な前足アッパーと共に、鼻先に鈍い痛みが広がる。
よろけた俺は、ベッドに手を付き体制を立て直す。
真下のウサギ。ケイは怒った形相でプンスカ睨み付けていた。
「ケイっっ!!!」
俺は勢いよく、ケイを抱き締めた。安堵の涙が溢れる。
「よかった!目ぇ覚ました!!よかったー!!」
「ピピピピッ!!」
俺の顔を前足で押さえなら、体をのけ反るケイ。いつもの様子に胸が熱くなる。
「なんで起きなかったんだよ!ご飯も食べないで!どんだけ心配したか!」
「ピッ!!」
ゲシゲシ後ろ足で頭を蹴られるも、俺の抱擁は止まない。
「もう一人のケイがまだ起きないんだよ……」
俺がベッドを見下ろすと、ケイは俺から逃れて、白浜の枕元に着地した。
そして、スリっと、頬に擦り寄った。
「ピピピ」
まるで、「起きて」と言っているようだ。何やらこっちまであったかくなる。
そのとき。白浜の瞼がピクンと動いた。
「白浜!おい、白浜っ!!」
耳元で何度も名前を叫ぶ。
ピクン、ピクン。
「起きろ!白浜!……蛍!!!」
パチっっ!!!!
その大きな瞳が完全に開いた。まだ朧げな様子。
「ピっ」
ケイが嬉しそうに擦り寄る。俺は安堵から膝から崩れ落ちるように椅子に項垂れた。
「へ?……どこ?」
「保健室だ」
寝過ぎで少し枯れ気味の声の主に、姿勢を正した俺は「ワタシハダレ?」と、言い出す前に説明した。
*
「白浜!」
寝ぼけ眼のまま、ケイと顔を擦り合わせて惚けている白浜が、俺の声にベッドの上で警戒の仕草を取った。
白浜の様子にケイまでもが臨戦体制を表す。その二人(匹)の挙動に、俺の心は悲鳴をあげる。
「まずは、目覚めてよかった……。どこか痛いとことか、気持ち悪いとこはないか?」
俺を睨むその目元が赤い。
ズキンっ。
顔を顰める俺を認識した白浜が、のそりと体を起こした。
支えてやろうと手を伸ばすと、すかさずナイトから蹴りが入る。
俺は苦笑しなら、蹴られた手をさすった。そんな情けない俺に、白浜はゆっくりと硬い表情を緩めた。
「……昨日はごめん。マジでどーにかしてた……」
ベッドの脇に手を付いて、俺は深々と頭を下げる。いつもなら直ぐに狼狽して頭を上げろと言い出す白浜も、この時ばかりはじっとその様子を眺めていた。
「……悲しかった」
「……うん。ごめん――」
「嫌われたって……苦しくて――」
白浜は目にいっぱいの涙を浮かべて、苦しそうに胸を掴んだ。
「嫌われるのは慣れっこだけど。でも、センセーはイヤだ……」
「…………っ!!!」
胸が、音を立てて揺れた。気付いたら、俺の腕が動いていた。その悲しくて寂しげな表情に、俺はケイを抱いたままの白浜を、ふわりと覆うように抱きしめた。
「なっ!!」
「ピッ!!」
白浜の焦った声と、ケイの非難の声が鼓膜を震わす。
ほんと、馬鹿だな…。
こんな顔にして――俺は大馬鹿野郎だ。
「……嫌いになんてなれるかよ――」
ぎゅうっ。
少しだけ強く。
ケイを潰してしまわぬように。
二人(匹)の体温を感じられるように。
全てが伝わるように。全部を救い上げるように――。
俺の腕の中で白浜の顔が真っ赤に染まっているのが分かる。フルフル震えているそいつは、それらを誤魔化すように途切れ途切れで悪態を吐いた。
「ウチだって怒ってんだからなっ!!」
その物言いに抱きしめる腕に力が入る。こんなストレートに怒ってると伝える白浜が愛らしい。
「うん。ほんとごめん……。ごめんなさい――。だから」
俺はグイッと白浜を引き離し、西畑先生のペン立てから、一本のハサミを抜き出した。
「これで頭を丸めてくれ!」
「は!?」
昨日の出来事から、どれほどこいつは悩んで、どれほどの心理的負担を強いられたのだろう。
痛々しい目元に、また胸が蝕まれる。
「お前の最後のトリガーを引いた。自分が許せない!本当は石田みたいに殴ってほしいけど、それだと白浜の拳が傷付く。これ以上、白浜の傷付くのはダメだ!だから、丸めてくれ!」
「むっ、無理だよ!そんなん、できないよっ!」
「なら、自分でやる!」
「ちょっ!」
俺がハサミを自分の頭に持っていくと、慌てた白浜が、それを制する。
「止めるな!」「やめてくれ!」の応戦。
「俺に罪を償わせてくれっ!」
そのとき。
カッコよく宙を舞ったミラクルウルトラショットが俺の顔面にめり込んだ。
「ケイっ!??」
白浜の声に、今しがた俺の顔面にヒットさせたのがウサギのケイだと分かった。鼻を直撃したその後ろ蹴りは、俺を完全にノックダウンさせるに十分な威力。
「大丈夫か!?センセー!」
いつもの様子の白浜。
俺は鼻を抑え、カッコ悪くベッドに倒れてしまった体を、ゆっくりと起こす。
「……お前。そんな小さな体にどんな凶器持ってんだよ……」
「げっ!!センセー、鼻血っ!」
見ると俺の手は赤く染まっている。なんちゅう威力。ゴリラ並みだ。
それを見たケイはどこか勝ち誇った顔で、”ムンスっ!”と仁王立ちをしている。
俺とケイとの喜劇のような様子に、ブッ!!と白浜が吹き出した。
重たい空気が一瞬にして消し飛んだこの状況に、俺もふにゃっと破顔する。
「ふはっ!あはははっ!!センセー、なんだその顔。あははは!ぶざまー!!」
赤い目元がふにゃりと細くなり、俺はその笑顔に吸い込まれる。俺はこの笑顔にいつもいつも救われてきたんだ――。
「――なぁ白浜」
「あははは。ん?なに?」
白浜は涙を拭いながら、ケイを激励するかのように撫でている。
「……俺の情けない話。聞いてくれますか……?」
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