第19話 強すぎる光、濃くなる影
10月
「じゃあな!白浜!」
河川敷に響く木瀬の明るく振る舞う声。
夕暮れの風が川面を揺らし、ケイと遊ぶ白浜の笑顔がオレンジに染まる。
白浜に手を振った木瀬は、
「じゃね!星野ン」
そう言って、できるだけ軽やかに土手を駆け上がっていった。
それから少しして、ケイを抱き上げた白浜が、何か考え込むような顔で戻ってきた。
あまり遅くなるのも気が引けたため、俺は白浜を家まで送ることにした。
二人でゆっくり並んで歩く帰り道。
河沿いの夜気は冷たく、白浜の肩にかかる息づかいが、妙に近く感じる。
あの“衝撃的なキス”以来――。
二人きりになるのは初めてで、どうしても意識してしまう。
だが、白浜はそんな気配を一切見せず、ケイを抱っこしたまま学校や実業団の話を楽しそうに続ける。
意識されていないのはちょっと複雑だが、こうやって楽しそうに話す白浜は、見ているだけで気持ちが高揚する。
マンションに着くと、俺は車のキーを取り、そのまま白浜を助手席に乗せた。
慣れた道を走る車内で、白浜が不意に言う。
「今日はごちそうさまでした!」
急に言うもんだから驚く。
「大したことしてないよ」と、俺は歯にかみながらそう返した。それでも白浜は頭を横に振った。
「美味しかった。いつもより何倍も!」
「そっか。それは良かった……」
そうだった。白浜は一人暮らしだ。
どんなにしっかりして見えても、やはりこの年で一人は寂しいはずだ。
またこうやって食事をしようと思った矢先、白浜の声色が変わった。
「……石田のこと、どこまで聞いたの?」
まずは俺が聞く番だ。
「その前にさ。白浜はなんで話の途中でいなくなったんだ?」
横目で白浜を見る。
ケイを撫でながら目を伏せた横顔は、街灯に照らされて柔らかい影を落としていた。
「なんも知らないウチが聞いていい話じゃないと思った……」
「石田、…その」
ここ一度、咳払いをする。なんとも言いにくい。
「……白浜は知ってた?石田が俺を好きってこと…」
俺の小さな声に、白浜は目を大きく見開き、そしてゆっくりと頷いた。
驚いた。
俺の気持ちに全く気付かないもんだから、その辺の恋愛に関する気持ちに鈍感だと思っていた。だが、この話しが本当なら、俺も人のこと言えない。
もしかしたら人間は相手からの好意に鈍感な生き物なのかもしれない――。
「あ、そうなんだ……」
視界の端に白浜の横顔が揺れる。
こそばゆくて、息苦しくて、ハンドルを握る手汗が止まらない。
「人の気持ちを暴露するのって良くないけど。うん。たぶん、そうかなって……」
「そっか。なんか、いろいろごめんな」
「なんでセンセーが謝んだよ」
「いや……だってさ」
胸の奥がぎゅっと縮まる。
好きな人の隣で、自分を好きかもしれない相手の話を聞く苦しさ。
白浜から出てくる言葉に、心がざわつく。
「俺、全然気付かなくて……。白浜は?いつ、その…石田の気持ち……」
ケイが白浜の膝で右手をすり寄せる。
白浜はその頭を撫でながら、静かに言う。
「……補習んとき。石田が相談に来ただろ?そんとき」
かなり早い段階――。
白浜はずっと前から知っていたのか。
「そっか。ハハ。俺、教師失格だな!」
「そんなことない!相手からの好意は、悪意と違って分かりにくいから……」
白浜の言葉は一瞬、影を落とした。
悪意を向けられた経験がある人の声だ。
でもまだだ。白浜が自分から話してくれるまで待つ。そう決めた。
余計な言葉は飲み込み、赤信号で車を止める。
ケイがすり寄る白浜の右手に視線を落とす。
暗がりの中でも、その様子がどうにも気になった。
「そこ、どーしたんだ?」
「え?」
俺が真剣に指差すと、白浜も少し動揺しながら同じ場所に視線を落とした。
「……うん。はじめから話す」
その声が強く響いた瞬間、信号が青に変わった。
「今日の練習の帰り、木瀬から言われた。石田が肩をケガしててそれを戸部先生に話したって。けど心配だって。あいつ春高に高校生活の全部をかけてるからって……」
一年のときから石田が言っていた夢。春高出場。
それは確かに聞いていた。
「だったら、戸部先生にじゃなくて、ちゃんと石田に向き合うべきだって言った。ウチも放っておけないから……」
白浜らしい。
白浜だったらそうするはずだ。どんなに自分が嫌われても、悪者になっても、人任せにしないで自分がぶつかっていく。
それが白浜であり、不器用なところであって、俺が心底持ってかれたところである。
「だから、戻ってきたんだな。あの河川敷に」
「……うん。真剣な話すんなら、あそこしか思いつかなくて。で、部活帰りの石田を呼び出した」
白浜は拳を見つめる。
ケイが不安げに「ピぃ」と鳴き、白浜を仰いだ。
車はすでに白浜のアパート前に着いていた。
俺は話を聞くために車通りの少ない場所に車を寄せた。
「石田が現れたとき——」
停まった車の中で、白浜はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
――
「石田!」
河川敷の土手。そこに現れた長身の男に白浜は手を振った。いつもなら駆けて来そうな石田も、このときばかりは足が重たそうだった。
「どうしたの?二人して呼び出して……」
木瀬が苦虫を潰したような顔ではにかんだ。
「お前、ケガしてんだろ。左肩」
「え!?」
唐突な白浜の言葉。
木瀬はオブラートに包むことを知らない白浜に呆気に囚われ、慌ててフォローに入る。
「ほら!この前の体育の授業!バスケだったろ?シュートんとき肩庇ってんなって思って。したら、それからも顔歪めたり、そこ押さえたりしてたから、ケガしてんのかなぁって。俺もそーだったから。だから……」
「それで、戸部ちゃんに話したんだ……」
石田の目付きが変わった。いつも温厚な石田が初めて露わにした敵意。木瀬はその形相に小さく息を飲む。
「なんで余計なこと言うんだよっ!戸部ちゃんが試合に出してくれなったら、誰が責任とんだよっ!」
拳を握り叫ぶ石田。
木瀬は眉根を下げ言葉を詰まらせた。
分かるからだ。全てをバレーにかけていた石田の気持ちが……。
だが、白浜は違った。
憤り、感情を露わにする石田に真っ直ぐに間合いを詰めた。
「お前が責任とんだよ!」
「は?」
「ケガして、隠して、病院にも行かずほったらかして、それでもオーバーワークを止めない。お前がお前を傷付けたんだ!お前が責任取って、治さなきゃいけねぇんだよ!」
真っ当な言葉。正論。
だが、きっと今の石田には重荷にしかならない言葉だと、木瀬はそう思った。
「……白浜さんには分からないよ。白浜さんのような天才には分からないっ!なんの努力もしないで、一瞬で俺の欲しいものを掻っ攫う。白浜さんには絶対に言われたくないっっ!!!」
「はっ!?んだよそれっ!!!」
――
「――それでウチ、マッジであったまきて、あいつに掴みかかってさ……」
「ははは。掴みかかっちゃいましたか」
白浜が、頭一個分真上の男に掴みかかる姿が容易に想像でき、俺は小さく破顔した。
「したら今度は「春高で戦う勇姿を見せたい!絶対に見せるんだ!それが俺の存在意義だっ!!」て言うもんだから、キレてそいつ殴って」
「えっ!?殴った??あぁ……」
だからケイが仕切りなしにそこを気にしているのかと腑に落ちる。特段、ケガはしていないようだが、少し赤くなっているようにも見える。俺は頭を抱えてため息を吐いた。
「暴力はいかんだろ……」
白浜を諌めると、白浜は右手で拳を作って「軽くだ!軽く」と、なんとも勇ましい言葉を吐いた。
どんなときも味方のケイだったが、このときばかりは、白浜の手首を”ペシっ!”と叩いた。
さすがに呆れて説教しているのかもしれない。
「まぁ、殴ったことはちゃんと謝らなきゃな。でも、石田の気持ちも汲んでやれ。確かにケガしたまま、試合に出るのはどうかと思う。でもそう簡単に気持ちの整理がつかないんだろ。石田の存在意義みたいなもんだったから。春高は」
俺は若干ヤンキーっぽい生徒を指導するようにそう話すと、白浜は眉根を寄せて不満げな声を上げた。
「――誰かのために頑張るって気持ちは分かる。ウチもそうだったから。だけど、今の石田はそうじゃない!誰かのためとか言いながら、それに酔って、無理やり自分を肯定させて。存在意義って自分を縛る鎖じゃねぇだろ」
真っ直ぐな人の言葉は、そうじゃない人間に痛みを伴わせて刺さる。
それが今の石田にどんな思いを抱かせるか、白浜はきっと知らないし、一生分からないかもしれない。
でもさすがに、この言葉は俺にもきつかった。俺の大学3年の記憶が蘇る……。
俺は組んでいた腕を外して、両膝の上で硬く手を結んだ。
「好きな人に見てもらいたい。その人がいないとダメなんだ。って、それを勝手に鎖にして、自分の存在意義だって豪語して。そんなのはただの独りよがりだ」
「独りよがりか……」
俺はその言葉を小さく復唱した。
「その人のためだとか言って、無理して、カッコつけて、それで肩壊したら意義もへったくれもないだろ!存在意義だかなんだか知んねーけど、後先考えず、心配する人に目を背け、周りの声に蓋をして、自分のことしか考えようとしない。そんなのはただの独りよがりだ!」
真っ直ぐな言葉。折れることなんてない、折れることを知らない真っ直ぐで残酷な言葉だ。
「――お前には分からないよ」
「えっ?」
俺の口から出た冷たい言葉だった。
『やめろ!言うな!』と、警笛が鳴るも、俺の言葉は止まらない。
俺は白浜の膝で心配げに見上げているケイを、半ば乱暴に掴み上げる。
怒ったケイが俺の指を齧った。
「なんの鎖も必要ないお前には分からないよ。石田の気持ちはお前には分からない」
「……センセー…?」
俺は、助手席のシートベルトを外し、そこから覆い被せるように助手席のドアを開けた。
そして、そこから降りるように促す。
驚いた白浜が俺の顔を困惑げに見上げてくるのも無視して「降りてくれ」と、発する。
自分でも驚くほど冷たい声が、俺の口から勝手に落ちた。
「センセっ…」
動揺した小さな声を残し、白浜がゆっくりとそれに倣うと、俺は乱暴に助手席のドアを閉め、そのまま車を急発進させた。
真横で俺の腕を何度も蹴り上げるケイ。それすらも宥めることすらできず、俺は瞬きもしないでただひたすらアクセルを踏み込んだ――。
*
マンションの駐車場に車を停めると、さっきまでの情景が反芻され、俺は強く目を瞑った。
切なげな白浜のか細い声が何度もリプレイして離れない。
あのときの、あの白浜の言葉は、大学3年の自分を刺しているかのようだった。
好きなヤツのために泳いで、そして好きなヤツのために水泳を辞めたときの俺に。
『独りよがり』
そうだった。
存在意義とかカッコいい言葉で綴ってはいたが、それは本当にただの独りよがり、思い上がりだった。
だけどそれを認めるには、まだ少し俺に余裕がない。
階段を駆け上り部屋に入ると息が乱れた。
それでも構わず風呂場まで移動して、盛大に頭から真水をぶっかける。
熱くなった頭に冷たい水が滴り落ち、体温が下がるも、胸に刺さった鋭い棘は解けることなく、しっかりと俺の心を貫いていた――。
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