第13話 お前のサインが欲しい

8月


クラクラした頭を押さえながら道頓堀を歩いていた。

ノンアル0.3%で酔うなんて情けない。

それでも今日だけは気が抜けていた。


道頓堀川が見える人気のない一角に、数人座れそうな広さの石畳があった。

生暖かい風が顔を撫でると、川の言い表しがたい臭いに顔を顰める。


暫くそこに座り、ぼーっと川を眺める。

そのとき。

微かに俺の名前が聞こえた。


重い頭を動かし、辺りを見渡す。

俺の名前を叫んでいる相手。

俺を水泳の世界に戻してくれた相手。


「白浜っ!!!」


ありったけの声で叫ぶと、反応した白浜が、河川敷で手を振っている俺を見つけた。


白浜は何やら深刻な顔で俺のところまで駆け寄る。

同じように駆け寄ろうとする俺に、「センセーはそこから動くな!」と心配げな声で制された。


「センセー!大丈夫かっ!?」


俺の側まで駆け寄った白浜が、額には汗を滲ませながらそう尋ねた。


眉間にシワを寄せた真剣な顔も可愛い。

酒のせいも手伝い、ふわふわとそう思ってしまう。

白浜はまるで凪いだ海のようだ。


俺がその質問に答えずに、ニコニコ笑っていると、ギョッとした顔の白浜が、そこに座われと石畳を指差した。


「木瀬がセンセーが酒飲んで大変だって!道頓堀の方に行くって聞いたから、心配になって探しに来た!」


俺は眉根を下げるその子の頭をポンポンと撫でた。


「お前は優しいなぁ」


目を細めそう言うと、左側にいる白浜の顔が、驚きと羞恥の色に塗り変わる。


「ノンアルで酔ってんじゃねーよ!」


「あははは!確かにな!昔から酒は一滴も飲めねーのは知ってたけど、0.3%でこのザマとはもう笑うしかねーな!」


若い頃、箸が転げても笑う年齢があると、歴史の年配の先生が言っていたことを思い出した。


そんな年の頃、経験したことはなかったが、今なら分かる。

確かに笑いが止まらない。


「ん!」


白浜が差し出したのは、結露で濡れている透明の液体の入ったペットボトルだった。


「おー!さんきゅ!」


それを丁寧に受け取り、ゴキュゴキュゴキュと喉を鳴らすと、それを見た白浜がホッとしたように息を吐いた。


「その無駄に笑顔な感じが抜けるまで、休んだ方がいーぞ!」


ちょっと不機嫌なその顔も可愛い。

やばい!全部が可愛い!

本当にケイみたいだ。


そう思ったら白浜がケイに似てるのか、ケイが白浜に似てるのが、どっちなのか判別ができない。


一人でぶつぶつ独り言を唱えながら、熱い顔でゆらゆらしてると、瞬間隣から「ブッ!!」と吹き出す音がした。


首を捻って白浜を見下ろすと、白浜は「あははは」と腹を押さえながら笑った。


「センセー!今のセンセーは可愛いな!」


いや、それはお前だろ!


いたずらっ子のように笑う白浜が可愛い。

その頬に触れたい欲求と理性が小競り合いを始める。


どうにか理性が勝利し、そのお陰で少し冷静を取り戻した俺は、また手元の冷たい水を喉に流し込んで、


「あー、あちー!!」


と、大声で悪態を吐いた。

そんな俺を白浜はケラケラと笑っている。


いつもより余裕綽々な白浜がなんとなく気に食わない。

でもまぁ、今日は主役のこいつを立てようと、俺はまた水を流し込んだ。



「白浜!あんがとな!」


急に話し始めた俺に、白浜の小首が傾いだ。


「チームを導いてくれたこと、心から感謝してる!俺は世界一の幸せもんだ!ありがとう」


ペットボトルを石畳に置き、あぐらをかいたその膝に両手を置いた状態で頭を下げると、白浜が


「ウチこそありがとう!」


と予想だにしない言葉を返した。

俺が不思議そうに白浜を見ると、白浜は少しはにかんで言葉を続けた。


「正直、最後の折り返し地点の半分行ったところで、『あー、やばい!』って思ったんだ。悔しいけど、追い抜くには距離が足りないって。初めて恐怖みたいなの感じだ」


全く気付かなかった。

だってあんなにも堂々とした泳ぎを見せてたから。

自信に漲る泳ぎだったから。


そんな一面もあったのかと、とても驚いてしまった。

勝手に白浜のこと、なんでも物怖じしない完璧な人間だと思っていた。


驚きを隠そうともしない俺に、白浜は少し恥ずかしそうな顔で鼻を擦った。


「そんとき、聞こえた!雷鳴のようなセンセーの声。何度も何度も、センセーの言葉に救われる。導いてもらってるのはウチだよ。センセーこそが、ウチの灯台であり道しるべだ!」


「ばかやろ…」


無防備な状態の今の俺に、こんな真っ直ぐな言葉を囁くこいつは、天然のタラシだ。


俺は目頭を押さえて鼻から精一杯の空気を吸い込むと、生ぬるいイヤな臭いまで鼻腔に入ってきたが、今はそれが俺の理性を助けてくれる。


「あーもう!今日のお前カッコよすぎ!」


羞恥心が脳内を占拠し、その温かな言葉に礼を言いたいのに、くすぐったくて声にならない。


「水泳部主将に、お礼しなきゃな!」


「マジ!?」


「部員たちには後日、メシでも連れて行こうとは思ってる。でも、お前の貢献はこれだけじゃ労いきれない!なんでも言ってくれ!今なら、最新のゴーグルや水着だってプレゼントしてやるぞ!」


「おー!大盤振る舞いだなー!」


ニカっと笑った白浜が、そーだなーと、頭を捻って考えはじめた。


「あっ!金平糖はなしな!」


先手を打ってそう言うと、目を丸くした白浜が、またウーンと首を捻った。

いっときの間。俺を窺うように、その目が恥ずかしそうに動く。


「……なら、スマホ…連絡先交換したい」


「へっ?」


俺の目は点になる。

まさか聞いてくれるとは思わなかった。

興味がないんだと勝手にいじけていた。

やばい!嬉しすぎる。


「あー。やっぱダメかー」


俺が感動していた時間を、困惑していると勘違いした白浜が眉根を下げた。

俺はズボンのポケットからスマホを取り出し、ズイっと白浜に向けた。


「LINE交換ってどーやんだ?あんま知らんから教えてくれ!」


「えっ??いいの?」


落ち込んだ様子の顔に笑みがさす。

その仕草がどれほど俺を彷彿させているなんて当の本人は分かってねーよなと思いながらも、俺は力強く頷いた。


「ほかの生徒には言うなよ。うるせーから。俺とお前だけの秘密だ」


瞬時に顔を赤らめた白浜は、それでも「うん!」と嬉しそうに頷いた。


俺は夜空を仰ぐ。

繁華街ともあり、星は数えるくらいにしか瞬いていない。

それでも綺麗だなと思った。


「白浜、俺な。今日、お前がみんなを導いてくれた『優勝』もめちゃくちゃ嬉しかったけど、それと同じくらい嬉しいことがあったんだ……」


「えっ?」


俺は空を仰いだ状態で続きを繋げた。


「俺の名前、オオカミって字があんだろ?あれで小学生んとき揶揄われてな。ほら、”オオカミ”って物語ではいつも悪者だし、一匹狼とか、なんかこう、いい言葉じゃないだろ?」


白浜は真っ直ぐに俺を見上げて話に聞き入っている。それが嬉しくて俺はまた言葉を繋げた。


「両親にさ、なんでオオカミなんて字入れたんだよっ!て噛み付いたら、お袋は『父ちゃんに聞け』ってゆーし、親父に聞いたら『自分で考えろ』ってゆーし、なんだよそれって、マジで反感した。だから俺の名前にはいい思い出がなかったんだ。でも今日、オオカミは守護神って言ってくれたとき、心から嬉しかった」


「そっか…」


白浜はそう溢して、俺と同じ仕草を真似ながら、言葉を紡いだ。


「センセー知ってるか?」


「ん?」


今度は俺が白浜を見る番。

俺の気配に気づいたその大きな目と視線が交わる。


「オオカミはつがいを一生のパートナーとして、変えることなく一生を共にするんだって。凄いよな」


白浜の目がキラキラ輝いている。その瞳の輝きに一瞬として目が逸らせない。


「一生だぞ!人間なんか2組に1組は離婚してるってゆーのに、オオカミは違う。決めた相手を生涯のパートナーとして、一生寄り添うんだ。こんなにも愛情深く、愛情溢れてるオオカミ。ウチは大好きだ!」


またしても眩い言葉。

俺が弱音やカッコ悪いことを話すたびに、こいつはその上にある予想だにしない言葉で上書きしてくる。


「きっと、センセーのお父さんはそんな想いで付けたんじゃないか?愛情深い人間に育ってほしい。共に歩めるつがいに出会ってほしいって!」


「――そっか。考えたこともなかった…。あんがとな…」


また鼻の奥がツンときたため、俺は夜空を仰いだ。

嬉しいとこんなにも涙が溢れてくるんだな。


高校卒業してから辛いことの涙しか経験したことなかったから、俺はあと何回泣かされるんだろうなと、そんなことを考えた。


「他にはないのか?俺にやってほしいこと」


「でもさっき」


「連絡先はノーカンだ!」


「……じゃあセンセーは?センセーのお陰で勝てたんだから、なんかお礼してやるよ!」


生意気にも口角を上げて上機嫌でオレを見上げている。

俺はつと昔のことを思い出した。


「お前のサインが欲しい」


「えっ!?サイン??」


驚いて目を白黒させ瞬きの数も多い。

その仕草にニコリと笑い、俺は8年前の話をして聞かせた。



「8年前。俺が高3で全国大会で優勝したとき。俺、人生で初めてサインをお願いされたんだ」


「えっ?」


白浜の瞳孔が開いたような驚き方に、一瞬言葉が止まったが、俺はまた昔話を続けた。


「小4くらいの少年だった。その子が、俺の泳ぎが綺麗だったって言うんだ。褒め言葉ってくすぐったいから、あんま得意じゃなかったけど、世辞のないあの子の言葉は嬉しかった」


ふわふわと、凪いだ波の上に浮かんでいるような感覚。あの頃の記憶を思い出すたびに、いつもこんな感覚にとらわれる。


「俺はただの高校生だし、サインなんておこがましいって思ったけど、あの少年の必死さが伝わってさ。その子が被ってた帽子に書いたんだ。『星野白狼』って。したらあの子、めっちゃ喜んでくれて。でもさ、あんときもっとキレイに書けば良かったって後悔するんだ。きっとあの少年もがっかりしたんじゃねーかな!なんてな!」


「んなことねーよ!今も大切にしてるよ!」


確かな声が返ってきた。

強く、揺るぎない確信に溢れた言い方だった。


「えー、でももう8年前だぞ?あんとき、10歳かそこらに見えたから、さすがに捨ててんだろ」


「捨ててねーよ!捨てるはずねーだろ!星野白狼のサインだぞ?何年経っても、字が色褪せても、絶対にその子の宝物だ!!」


なんでお前がそんなに言い切んだよ。

なんでお前が本気で怒んだよ……。


だけど、俺もそう思っていた。

水泳辞めて、周りの目も変わって、腫れ物を触るように扱われたそんなときでも、あの少年だけは味方だと、そう信じていた。


「どこに書けばいい?」


なぜか涙ぐんだ状態の白浜が強くそう言った。


「書いてやるよセンセーに!ウチの人生で一番最初のサイン。一生大切にしろよ!」


生意気そうな顔。

生意気そうな目。

その強さに眩暈がする。

めまい、めまいが……。


「目が回るっっ!!」


「えっ!???」


視界が乱れ、天と地が逆転したかのような瞬間、俺はそのまま仰向けに倒れた。


「セッ!センセー大丈夫か!??死ぬな!センセー!!!」


死なねーよと、伝える暇もなく、悲しいかな、俺は初めて愛する人の前で意識を手放した――。



全国大会の翌日。


その強烈な出来事の後、俺の失神という、とんでもなく消し去りたい記憶。


あれから、白浜は木瀬に連絡して、養護教諭の西畑先生らがその場に駆け付けたという。ただの泥酔と診断され、翌朝ホテルで目を覚ましたのだ。


ホテルのロビーで白浜をはじめ、駆け付けてくれた関係者に、土下座する勢いで謝罪した。



「はい!」


肩を落とし歩いていると、白浜がちょっと恥ずかしそうに小さな紙袋を渡してきた。

その顔が『開けてみろ』と言っている。


俺はそろりとそれを開けると、そこに入っていたのはハスキー犬のようなキャラクターのキーホルダーだった。


素材はアクリル板で作られており、どこかで見覚えがある。

つとその裏になにか書かれてあるのに気付く。


はやる気持ちで裏を見ると、そこに『白浜蛍』と書かれてあった。


「約束のやつ。オオカミのキャラで、ウチの好きなアニメに出るやつ」


ブワッ!まさかのプレゼントに、昨夜の羞恥が吹き飛ぶ。

こんなにもすぐに貰えるなんて夢にも思わなかった。


「あー、ありがとな……。一生の宝物にする!」


俺の熱い言葉に、白浜はにっこりと笑った。

その笑顔に俺がどれだけ救われたか、きっと白浜は想像もしていないだろう。


あの8年前の少年もこんな気持ちでいてくれたら良いなと、なぜかそんなことを考えていた。

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