星の王子さまと人魚姫 ― 教師と生徒として再会した二人 ―
六太
プロローグ
3月
「…星野。スポンサーがお前を敬遠している。神谷とは別れてくれ」
「…ホント、くっだらねぇ世界だな」
朝から嫌な夢を見た。
競泳を引退して5年経っても、あのときの記憶は未だに俺の中に居座っている。振り払っても消えてくれない。
右手拳に残る鈍い痛みだけが、夢の痕跡のようにしつこく疼いていた。
嫌な汗と痛みを洗い流すため、1DKのマンションの風呂場へ向かう。
蛇口をひねると、まだ温まらない冷水が容赦なく頭に降りかかる。時間が止まったみたいだった――あの頃の自分にまだ縛られている気がして。
俺は母校『明鳳高校』で数学教師をしている。
なぜ母校なのか。なぜ、わざわざリスクのある場所を選んだのか。
理由はひとつだ。
下の名前しか知らない、あの少年。
俺の未来を切り拓き、存在価値を変えてくれた少年。
“水泳”という名の呪縛から解き放つ手がかりになる気がした――ただそれだけだった。
校舎も校風も、卒業以来ほとんど変わらないありふれた私立校。
だが一つだけ違うことがあった。
校内で一匹のウサギを飼いはじめた、ということだ。
今年の3月に入った頃から、どこからともなく現れた薄茶色のウサギ。
野良なのか飼いうさぎなのか分からない。
人を怖がらず、かといって懐きもしない。
餌はそこらの草、水は校庭の手洗い場で勝手に飲み、決まった場所で用を足す。
手のかからないそのウサギを、生徒たちはいつの間にか“ケイ”と呼ぶようになった。
名付け親はこの春に卒業した元生徒会長。
「インド・ヨーロッパ祖語の語根で、“愛しい、親愛なる”って意味があるんですよ!」
鼻高々にそう言っていたのを思い出す。
ケイは愛らしいというより、どこか勇ましい。
大きな目の奥に鋭い眼光を宿し、まるでウサギ界のドンといったところだ。
夕方になると職員室に勝手に帰ってくるので、校長の鶴の一声で正式に飼うことになった。
今では明鳳高校のシンボルであり、生徒の人気者であり、俺の密かな癒しでもある。
そんなことを考えながら、いつものジャンパーに袖を通す。
*
自宅から徒歩15分の通勤路。
東京郊外の柔らかな春の空気を吸い込む。
某ドラマの主題歌が似合いそうなのどかな河川敷も、生徒の姿がないと不思議と静かに感じる。
田んぼの畦道を抜け、横断歩道を渡ると校門が見えてきた。
春休みの教師は忙しい。今年から俺は2年生の担任。準備に追われる毎日だ。
まだ教師歴4年目の新米だが、自然と背筋が伸び、パンッと頬を叩いて気合を入れた。
*
――ガラ。
「はよーございます!」
職員室にはすでに何人かの教師がいた。
挨拶を交わしつつ、奥の小休憩スペースに置かれたウサギ小屋を確認する。校長手作りの不格好な木箱だ。
「おはよ!星野先生!ケイならもう出勤したわよ」
現国教師で水泳部顧問の千堂先生。新人時代から俺の教育係でもある。
「おはようございます、千堂先生!あいつ本当に人のこと召使だと思ってますよね」
「なに言ってんの!ケイちゃんに一番懐かれて嬉しいくせに!」
確かにケイはなぜか俺の周りにいることが多い。
でも、触らせてはくれない。
なんとも、つれない恋人みたいだ。
「ところで千堂先生、大丈夫ですか?今が一番きついんじゃ?」
妊娠3か月。つわりの真っ只中。
早退・欠勤も増えていた。
「あー、色々と迷惑かけてごめんねー!いやー、待ちに望んだ子どもだったからめっちゃ!!喜んだけど、まさかつわりがこんなに辛いとはね…。世のお母さん方には頭が上がらないよ!」
笑っているが、不妊治療の時期はどれだけ苦しんだだろう。
その過程を思うと、せめて仕事の悩みくらい全部引き受けてやれたらと思う。
「今日は少し、顔色が良いみたいですが、ホント、無理だけはしないでくださいよ!」
そう声をかけると、千堂先生が一瞬だけ眉をピクッと上げ、妙に力のある目で「分かった!ありがと!」と笑った。
その眼差しが引っかかったが、年度末の準備に追われ、気付けば4限目が終わっていた。
*
「あっ!ペン忘れてきた!」
昼休憩、千堂先生が声を上げた。
俺は自分の赤ペンを差し出し、教室まで取りに行くと願い出る。
3年C組の教室へ向かい、扉に手をかけたそのとき――。
耳が自分の名前を捉えた。
その声に反射的に手を引っ込める。
「星野ってゲイみたいだぜ!」
心臓が跳ねた。呼吸が乱れ、背中に嫌な汗がつうっと流れた。
生徒の噂話なんて日常茶飯事……のはずなのに、この話題だけは胸をえぐった。
「俺の従姉妹のねーちゃんが、星野の高校の後輩だったらしくて。大学で男同士のトラブルがあったらしいって、噂になってたみたいでさぁ」
「えー!!ショックー!」
「狙ってたのにー!」
男女の混ざり合う声に、足が震えた。
息ができない。
なんで――母校なんて選んだんだ。
「俺、星野に狙われっかも!」
「やべー、ゲイが移っちまったらどーしよー!」
視界がぐらりと揺れ、膝が落ちそうになったその瞬間。
――その声が、教室を撃ち抜いた。
「そんなガキみてーなこと、言ってんじゃねーよっ!!!」
空気が一変した。
その透き通る声は、見えなくても分かる。俺を嘲笑っていた生徒らを真っ直ぐ睨んでいる。
「は!?なんだテメー!なんつった!!」
「だから、何度も言わせんな!ガキかテメーら!」
続く言葉も、全部、真っ直ぐだった。
言い返す男子生徒の声が情けないほど歪む。
「んだとコラっ!テメー、ナメてんのかっ!!」
「オメーらみたいなクソガキども、ナメまくってるよ!!お前はあれか?自意識過剰なんかっ!?なんであんな美人なセンセーに狙われるって思うんだよ!?オメー、どんだけ自分がイケてると思ってんだよ!」
「へ?」
綺麗に響く強い女子生徒の声に、矢面に立っていた男子生徒が怯んだ。
「オメーはあれか?女だと誰でもいーのか?誰でも狙うのか!?」
「はっ!?んなワケねーだろ!」
「なら、一緒なんだよ!」
息を飲む音。俺は自分の音なのかも識別ができないほど、思考はすべてに持ってかれていた。
「異性愛者も同性愛者も、動物にだってちゃんと好みがある!そんなことも分かんねーで、高3になるくせに、ガキくせーことほざいてんじゃねーよっ!!クソがっ!!」
胸が熱くなる。
目の奥がじわりと熱くなった。
「それに、お前!」
真っ直ぐな生徒の標的が変わった。
「ゲイが移るってなんだよ!性的指向が移んなら、同性愛者は苦労なんかしてねーだろっ!!」
ドクンっ!!
もう何度目だ。この生徒の言葉に突き動かされたのは……。
「なぁ、お前ら考えてみろよ。同性愛者の人はきっと、ウチらの年頃には相当悩んでる。何で俺だけ?何で私だけ?何でフツーじゃないの?って。悩みすぎて病気になる人だっている。最悪、自殺する人だっているんだ。普通じゃないからって」
静かな声だった。まるで、嵐の海が一気に凪いだような、そんな感じ……。
「でもな、普通なんだよ。性的指向は移るもんでも治るって概念でもない。普通なんだ。その普通を普通じゃなくしてんのは、お前らみてーな知識の無い人間と、それらを増長させる周りの空気だ」
息が……できた。
あれほど荒れていた呼吸が、すっと整っていく。
「この社会、この世の中が普通じゃねーなんだよ。今は令和だろ?世間が社会がやっと普通になりつつある。なんでそれを、今を生きる、未来を支えるお前らがまた戻そうとすんだよっ!」
凪いだ波はまたしても大きく水飛沫を上げた。
「ウチらはそんな時代にしちゃいけねーんだ。テレビに出る偉いおっさんらが幾ら建前を言ってもダメなんだよ!ウチらが追いつかないと!ウチらが変わらないと!ウチらが普通にならないといけないんだ!!!」
教室は凍りついていた。
その静寂を破ったのは最後の一言。
「オメーらはガキだが、バガじゃねーだろ?二度とそんなバカみてーなこと言うな。じゃーな」
――ガラッ。
現れたのは、茶髪の短髪で中性的な顔立ちをした、生徒。
俺を見るなり、目を丸くし、狼狽し、そして――。
「えっ!?あっ、さよならっ!!」
短い言葉を残して、その光は脱兎のごとく走り去っていった。
*
これが、俺と白浜蛍との鮮烈な出会い――。
なぁ、白浜。
お前は知ってたか?
あの瞬間、俺の世界は色を取り戻した。
真っ黒な闇に彩りが差し込んだ。
止まっていた何かが、また動き始めた。
お前がいたから、今の俺がいる。
なぁ、白浜――。
お前は、俺のヒーローなんだ。
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