第25話 死線の一歩手前で

 第四層の空気が、肺の裏側に貼りついた。


 階段を上りきった足が、苔のついた石床を踏む。微妙な湿り気と、薄い粘り気を含んだ匂いが、鼻腔の奥を撫でていった。


 前に来たときと、何も変わっていない。

 変わっていないのは、ここだけじゃない。


 足を一歩進めるごとに、皮膚の裏――骨と骨の隙間に、あのときの感覚が滲み出してくる。


(ここを、真っ直ぐ――)


 右ふくらはぎを貫いた矢の衝撃。


 左太ももに突き刺さった、荒く削られた矢尻の熱。


 背中から肩を貫いた杭のような痛みと、肺の横でずっと刺さり続けていた異物感。


 そして、硬質化した右腕を噛み砕かれた瞬間の、骨が割れる音。


 全部、覚えている。


 死んだときの痛みは、忘れさせてはくれない。


 体幹に通した一本の芯を意識しながら、足元を確かめるように歩く。膝を曲げるたび、筋肉の奥に通した“筋”が、わずかに軋んだ。


 それでも足は前に出る。


 胸の奥で、別の“感覚”がじっと座っているからだ。


 あのスキルオーブを砕いたときに入り込んできた冷たさ。


 心臓のすぐそばに、氷の欠片を突き刺したような違和感がある。何もないときは、ただ重いだけの鈍い塊。だが、何かの拍子に――ひやり、と鋭く輪郭を浮かび上がらせる。


(……まだ、静かだ)


 耳を澄ませる。


 遠くで、水滴が落ちる音。


 時折、どこかの通路からくぐもった笑い声が漏れてくる。ゴブリンの声だ。奴らはこの層全体に散らばっている。こちらの存在に気づいていない声と、何か獲物をつついているような声とが、ぼんやりと重なり合っている。


 慎重に壁際をなぞるように進む。


 苔の貼りついた壁面、天井の低い箇所、足を取られやすい割れ目。


 やがて、前方に小さな広がりが見えた。

 左側の壁が一段低くなり、右側に崩れた岩が積み重なっている。


 喉が、ひとつ鳴った。

 膝の内側が、じわっと冷える。


 足が止まる。意識しないと、その場にしゃがみ込みそうになる。両足が、勝手に“あの瞬間”を再生しようとする。


 矢尻が肉を割り、骨に当たって折れ曲がった感触。地面に縫い付けられた足。


「……違う」


 小さく呟き、足の指先に力を込める。


 このまま立ち止まったら、きっと前と同じようにやられる。


 しかし、ただ突っ込んでも、それはそれで同じ結果だ。


 そのとき――


 胸の奥の“氷”が、きしり、と鳴った。


「っ……」


 思わず、歯を噛みしめる。


 心臓の横から、じわじわと冷気が広がった。身体の内側を逆流するように、首筋、背骨、腰骨をなぞっていく。皮膚の表面に鳥肌が立ち、指先がかすかに震えた。


 何も、見えない。


 前方の通路には、まだ影はない。耳を澄ましても、足音は聞こえない。


 なのに―― 一歩、踏み出そうとした足を、その冷気が後ろから掴んで引き戻した。


 左足のつま先を、ほんの指一本ぶん前に出しただけで、胸の奥の冷たさが一段深くなる。


(……ここだ)


 そこから先に踏み込めば、何かが起きる。


 前と同じ“死ぬ一歩手前”。


 無意識に息を止めていた。ゆっくりと吐き出し、足を引く。代わりに、右側の崩れた岩に近づいた。壁と岩の隙間に身体を滑り込ませ、しゃがみ込む。


 その瞬間。


 乾いた風を裂く音が、耳を打った。


 岩の手前、さっきまで俺が立とうとしていた場所を、黒い影が走り抜ける。荒く削られた矢が、石床に突き立ち、甲高い音を立てた。


 飛び散る石片が頬をかすめる。


 胸の奥の冷たさは、少しだけ和らいでいた。完全に消えたわけではない。まだ、どこかで軋んでいる。


 向こう側に“続き”がある、と告げている。


 岩の影に身を伏せたまま、そっと目だけを通路に向けた。


 高い位置――左側の壁の上に、緑灰色の影がいくつか揺れている。岩棚の上からこちらを覗き込む、黄色く濁った目。


 弓を持ったゴブリンが二体。


 その後ろに、棍棒や石刃を握った個体が数体。さらに、通路の奥――前回、血の海になった場所から、骨片と金属片を全身にぶら下げた大柄な影がゆっくりと現れた。


 あの棘付きの棍棒。


 あの肩幅。


 あの、黒い目。


 胃のあたりが、一瞬で固まる。


 視界の端に、矢で縫い付けられた自分の足がよみがえった。肩から突き出した矢。腕に食らいついた歯列。全部、重なる。


 膝が勝手に抜けそうになる。

 同時に、胸の氷が、今度は別の方向へ伸びる。


 上だ。


 岩棚の上にいる弓持ちを見た瞬間、その“冷たい線”が、はっきりと形を持った。


 もし今、飛び出せば。


 そこから、どの角度で矢が飛んでくるか。どの位置で足を止めれば、ふくらはぎと太ももと肩に矢が突き立つか。


 そういった“痛み”が、予め書き込まれた設計図みたいに、うっすらと透けて見えた。


(……ご丁寧に、再現してくるわけだ)


 俺が死んだ場所に合わせて、奴らは同じ布陣で待っている。


 神が用意した“やり直し”の舞台。


 なら――こっちも、同じようには動かない。


 奥歯を噛みしめる。


 体幹に通した芯を、もう一度なぞり直す。腰を低く構え、右足の土踏まずから膝、股関節、背骨、肩、肘、拳へと、一連の線をイメージした。


「硬質化」

 呟きと同時に、密度が流れ込む。


 胸の氷は、まだ軋んだまま。


 弓持ちの気配が、一瞬だけ濃くなる。

 弦が鳴る前の、わずかな息継ぎ。


 そこで、俺は岩陰から飛び出した。


 矢が空気を裂く。


 さっきより半歩だけ、前に出るタイミングをずらす。胸の冷たさの“深さ”を頼りに、最も浅いラインを選んで踏み込む。


 矢は、肩の上をかすめて飛んでいく。


 硬質化した右足で床を叩く。反動を体幹で拾い、腰を回し、岩棚の縁へと跳び上がる。


 視界が一瞬、宙に浮く。


 目の前に、黄ばんだ白目と、驚いたように見開かれたゴブリンの顔。


 右拳を叩き込む。


 硬質化した拳が、顎と頬骨をまとめて砕いた。手の甲の骨に、鈍い衝撃が返ってくる。ゴブリンの頭が後ろへ折れ、そのまま岩棚から転げ落ちた。


 もう一体の弓持ちが慌てて弦を引く。胸の奥で、また冷たい糸がひゅっと引き絞られた。


 左へ半歩、滑る。


 矢がさっきまで俺の首があった位置を通り過ぎ、岩壁に突き刺さった。


「遅い」


 吐き捨てるように言い、身を低くしたまま、二体目の懐に潜り込む。


 右肩から肘、拳へと、もう一度密度を押し込む。


 拳が、胸骨を内側から押し割った。折れた骨の感触が皮膚の裏側に伝わる。ゴブリンの喉から濁った音が漏れ、そのまま仰向けに倒れ込んだ。


 岩棚の上から見下ろすと、下では棍棒持ちと石刃持ちが慌てて布陣を組み直している。


 前は、上から矢を浴びせられ、足を固定されて終わった。


 今は、矢の雨を先に止めた。


 大きく息を吐き、岩棚から飛び降りる。


 棍棒が振り上げられる。


 胸の氷が、鈍く鳴った。


 真正面から受ければ、肩か首を砕かれる。


 右に避ける。冷たさが深くなる。


 左に流す。冷たさがわずかに薄くなる。


 薄くなったほうへ、足を出す。


 棍棒が肩の横をかすめて空を切り、重い風だけが頬を叩いた。


 その腕の根元に、硬質化した拳を叩き込む。


 骨が、内側から折れた。ゴブリンが棍棒を取り落とし、濁った悲鳴をあげる。その首筋に膝蹴りを入れ、喉を潰した。


 石刃持ちが、横から懐に滑り込んでくる。


 腰の高さから、刃が閃いた。


 胸の冷たさが、そこだけ異様に濃くなる。


 刃の軌道を読むように、一歩下がる。腹の皮一枚分だけ距離が足りず、布が裂ける感触が走ったが、肉までは届かなかった。


 石刃が空を切った瞬間、相手の手首を掴む。


 硬質化した握力で、骨ごと握り潰す。


 鈍い感触とともに、石刃が床に落ちた。ゴブリンが腕を抱えてうずくまり、その側頭部に踵を叩き込む。


 最後に残ったのは、棘付きの棍棒を握った大柄な個体――リーダー格だ。


 奴はさっきから、一歩も動いていなかった。


 惨状を眺めながら、黒い目でじっと俺を見ていた。棍棒を肩に担ぎ、血の匂いを嗅ぐように鼻先をひくつかせる。


 濁った声で何かを叫ぶ。

 奴はゆっくりと棍棒を肩から下ろし、両手で構えた。


 前に出る。

 胸の氷が、今までで一番激しく軋んだ。


 真正面からぶつかれば、棍棒が頭蓋を叩き割る――そう告げている。


 だが、逃げ道を示す“線”も同時に浮かび上がる。


 右ではない。左でもない。

 足元だ。


 リーダー格が棍棒を振り下ろす瞬間、俺は一瞬だけ硬質化を切った。膝と腰から力を抜き、わざとバランスを崩すように前に倒れ込む。


 頭上で、空気が潰れるような音がした。

 棍棒が、さっきまで俺の頭があった場所を通り過ぎる。


 床に叩きつけられた棍棒の衝撃で、石片が飛び散り、背中に当たった。


 反動でリーダー格の上体が前に倒れる。


 その瞬間を狙って、硬質化を叩き込む。


 床を蹴り、体幹の芯に力を通し、右肩から肘、拳へと流す。


 みぞおちへ向かって、全身の線を乗せた拳を突き上げる。


 鈍い、くぐもった音がした。


 棘付き棍棒が手から滑り落ちる。リーダー格の身体が、その場で小さく跳ね、目を見開いた。


 内側から何かが壊れる感触が、拳を通じて伝わってくる。


 奴の口から、血混じりの泡が溢れた。


 そのまま、膝をつき、ゆっくりと崩れ落ちる。


 硬質化を解く。


 こめかみの内側がじんじんと痛む。遅れて、体中の筋肉が重さを取り戻した。


 深く息を吐く。

 胸の奥の氷が、やっと静まった。


 床には、ゴブリンたちの死骸は残っていない。

 ふと、周囲を見渡す。


 ここだ。


 矢に縫い付けられた足。


 棘付き棍棒に怯えた目。


 噛み砕かれる腕の中で、どうしようもなく叫んでいた“俺”。


 その同じ場所に、今は何もない。


 俺は立っている。


 足は自由で、肩に矢は刺さっていない。右腕も、ちゃんとついている。


 湿った息を吐き、視線を前に向けた。


「……ステータス」


 呟くと、視界の前に薄青い板が浮かび上がる。


 ――――――――――

 【レベル】6

 【スキル】硬質化/死線感知

 【状態】中度疲労/軽傷

 【装備】

 ・マジックバック

 ・ゴブリンの腕輪

 ――――――――――


「……やっぱり、そういうことか」


 【スキル】の欄に増えた文字列を見て、苦笑が漏れた。死ぬ一歩手前の“線”を、肌の裏側でなぞるような感覚。


 あの冷たさは、単なるトラウマの悪寒じゃなかった。


 死に方を知ってしまった身体に、さらに“死にかける未来”まで嗅ぎ取らせる――救いなのか、別の地獄なのかよく分からない機能だ。


 だが。


 さっきの戦いで、それがなければ、きっとまた同じように矢で縫い付けられていた。


 歯を噛みしめる。

 薄青い板を閉じ、もう一度、足元を見る。


 矢に固定された俺は、もうここにはいない。

 死ぬ場所を、少しだけ取り返した気がした。


 もちろん、腕を噛みちぎられた痛みが消えるわけじゃない。


 それでも――


「……一歩分くらいは、上書きできたか」


 誰にともなく呟く。


 体幹の芯と、胸の奥の冷たい感覚。

 その両方を頼りに、俺は第四層の奥へと、改めて足を踏み出した。

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