第19話 ゼロからの誓い
白い天井が、目の前にあった。
光。
ドーム状の天井から降り注ぐ、あの一層特有の白い光。湿った土の匂いはなく、代わりに乾いた石の匂いと、人間の汗の匂いが漂っている。
俺は、床に仰向けに倒れていた。
腕が、元通りそこにあった。
指も、手首も、肘も、肩も。どこにも噛みちぎられた痕はなく、傷一つついていない。足も同じだ。矢に貫かれたふくらはぎも太ももも、血の気は戻り、皮膚は元どおりに閉じている。
それでも――
「あああああああああああああああああ!」
喉が、勝手に叫びを吐き出していた。
腕を抱きしめて丸まり、床を爪で引っ掻く。痛みはもうない。なのに、噛まれた感覚が、まだそこに確かに残っている。
骨を締め付けられた感触。ひびの入った骨にさらに力を込められた感覚。肉が裂け、血がにじみ出した瞬間の、あの焼け付くような痛み。
全部が、生々しく甦ってくる。
近くで、誰かが息を呑む気配がした。
「ま、た一人……」
「やっぱり、戻ってくるんだ……あんなふうに……」
知らない誰かが、小さく囁き合っている。
ここは一層。パンと水の広場。暴力グループの笑い声と、すすり泣きと、諦めたようなため息が混じる、人間の墓場。
耳はそれを全部拾っているのに、脳が処理しきれない。
頭の中は、ゴブリンの歯と、自分の腕の痛みで埋め尽くされていた。
(腕を……喰われた……)
(喰われて――)
もう二度と、キーボードも、ハンドルも、何も握れなくなる未来が一瞬頭をよぎる。
恐怖が、喉の奥で暴れ回る。
「いやだ……もう、いやだ……」
自分の声なのに、自分のものとは思えない。情けない、子供みたいな掠れ方をしていた。
このまま、全部投げ出してしまいたい。
一層に閉じこもり、パンと水に縋って、誰かの庇護の下で震えながら終わる未来。それさえも、今は魅力的に見える。
だが――
別の記憶が、痛みの隙間から割り込んできた。
病室。
白いシーツの上で、チューブだらけの小さな体が横たわっている。
あの日。
鉄と血の匂い。
「……っ」
腕を抱きしめて丸まった姿勢のまま、歯を食いしばる。
(ここで止まったら、あの日の前にも戻れない)
どれだけ痛くても。
何度死んでも。
あの日の朝に戻る。そのためにここに来た。妻と息子を、今度こそ守る。そのために、何度でも死ぬと決めたはずだ。
一層のパンと水にすがって、何もせず震えていても、あの日は帰ってこない。
黒川さんと、あの少女の顔も浮かんだ。
一層の隅で、震える子どもを抱きしめていた背中。その胸元には、俺が渡した収納スキルのオーブが、今はもう内側へ溶け込んでいるはずだ。
あの世界を、少しでもマシな形に変えると決めたのに。
ここで折れたら、全部中途半端のままだ。
呼吸を整えようと、意識してゆっくり息を吸う。喉が、ひゅっと変な音を立てる。それでも何度か繰り返すと、叫びたい衝動がほんの少しだけ引っ込んだ。
腕を抱きしめていた手を、ゆっくりと解く。
右腕は、無傷だった。
指を一本一本曲げる。手首を握ったり開いたりしてみる。動く。ちゃんと動く――はずなのに、どこかがおかしい。
(……軽い? いや、違う)
力を込めようとした瞬間、変な空回り感があった。筋肉に命令を送っても、返ってくる反応が薄い。握った拳は形だけで、中身がスカスカになったような感覚。
上体を起こそうとして、床に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
足に力を入れた瞬間、膝がわずかに笑った。第四層で全身にみなぎっていたあの充実感が、どこにもない。自分の体なのに、一段階小さくなった別人の器に無理やり意識だけ詰め込まれたような違和感。
視界の端で、何人かの「死に戻り」を経験したらしい人間が、同じように立ち上がれずに座り込んでいるのが見えた。今の自分も、きっとああいう顔をしている。
「……ステータス」
乾いた声で呟く。視界の前に薄青い板が現れた。
だが、そこに並ぶ項目は、いつもと同じだ。
――――――――――
【レベル】0
【スキル】硬質化
【状態】軽度疲労/精神混乱
【装備】
・マジックバック
(重量を無視してある程度の荷物を収納可能)
・ゴブリンの腕輪
(筋力値をわずかに上昇させる)
――――――――――
能力値なんてものは、どこにも表示されない。数値で「ここまで落ちましたよ」と教えてくれる親切設計ではない。
それでも、さっきまでの自分と違うことだけは、体が嫌でも教えてくる。
握った拳に、力が入らない。踏み込もうとすると、足首の先で重心がふらつく。硬質化を軽く起動してみると、反応そのものはあるが、立ち上がってくる感覚が薄く、重い。
(レベル、か……)
視界の端で点滅を続ける「0」の数字を見て、ようやくさっきからの違和感に合点がいった気がした。
「本当に……最悪だな、この世界」
笑いにもならない声が漏れる。
それでも――スキルは残っている。ゴブリンの腕輪も、腕にひんやりとした重さを返してくる。完全に無力に戻されたわけではない。
右肩のあたりが、妙に重いことに気付く。
そこには、マジックバックの肩紐があった。
「……ある」
思わず、かすれ声で呟く。
あの蛇から奪った、重量を無視するバック。第四層まで一緒に潜り、エナジードリンクとレトルトパウチを詰め込んだ、文字どおりの命綱だ。
肩から外し、口を開けて中を覗き込む。
エナジードリンクのボトルが、何本も並んでいる。その間には、銀色のレトルトパウチが、ゴブリンの笑顔をこちらに向けてぎっしりと詰まっていた。
ゴブシチュー、ゴブカレー、ゴブンチーノ、ゴブラーメン。
さっきまで自分を食いちぎろうとしていた連中の顔が印刷された簡易食が、今度は俺の食料として残っている。
自嘲とも溜め息ともつかない息が漏れる。
さらに奥を探ると、硬い何かが指先に当たった。
掌に乗せて取り出す。
小さな球状の物体。表面はガラスのように滑らかで、内部には薄い靄が渦を巻いている。第三層で手に入れた、まだ使っていないスキルオーブだ。
光の下にかざすと、靄がゆっくりと揺れ、こちらを見ているような気配を放つ。触れているだけで、皮膚の内側にじんわりと熱がにじむ。
死んでも、レベルがゼロになっても、こいつだけはしっかりと存在感を主張していた。
「……レベルだけ、ゼロってわけか」
呟いて、オーブをそっとバックの奥に戻す。
死の痛みと、死に方の記憶はそのまま。レベルだけがふりだしに戻されて、スキルと装備と、拾った未来の種だけが手元に残る。
何もかも奪うのではなく、ギリギリのところで「続ける理由」だけは残す。
あの神の顔が、また頭に浮かんだ。きっと今もどこかで、俺の死に様を見て笑っている。
「……上等だよ、クソ神」
右手を強く握りしめる。腕の奥に、噛み砕かれたときの痛みがわずかに反響した。それでも、拳は震えながらも閉じられた。
「俺は、何度でも行く」
ゴブリンの歯に腕を噛み千切られた感覚は一生消えないだろう。次に食われるとしたら、もっと別の場所かもしれない。
それでも。
妻と息子を取り戻す。
一層の夜を終わらせる。
その両方のために、この腕をもう一度、第四層まで持っていく。
今度は、死なないためだけじゃない。
あいつらに、返すために。
右手の拳を、ゆっくりと開く。手のひらには、まだ汗がじっとりと滲んでいた。震えは完全には止まらない。
それでも――
俺は、マジックバックの肩紐をもう一度掴んだ。
「リベンジだ」
誰にともなく呟き、まだ痛む右腕をさする。
ゴブリンの顔が印刷されたレトルトパウチが、バックの中でかすかに擦れ合う音を立てた。その奥では、第三層で拾ったスキルオーブが、見えないところで静かに脈打つように、存在を主張している。
次にあの顔を見るとき、俺はきっと――今より少しだけ、マシな笑い方ができているはずだ。
そう言い聞かせながら、俺はゆっくりと上体を起こした。
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