第16話「君の過去はどこにある?」
午後2時の古本屋。
透は歴史書の棚を整理していた。
ヘロドトス、司馬遷、トインビー。
過去を記録した歴史家たちの言葉が、静かに並んでいる。
「過去は、今を作る」
透は小さくつぶやく。
でも、過去は、どこにあるのか。
◆
五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第16話。
店主の老人が、カウンターで古い写真を眺めている。
「透くん、過去って不思議だよね」
「どうしてですか?」
「もう存在しないのに、心の中にはある」
透は少し考える。
「過去は、記憶の中にあります。でも、記憶は、時に嘘をつきます」
老人は小さく笑った。
「そうだね。だから、過去は曖昧なんだ」
夕方、透は公園のベンチに座っていた。
サンドイッチを頬張りながら、人々を眺める。
若い女性が、スマホで古い写真を見ている。
時々、涙を拭いている。
「過去に囚われてるのか」
透は小さく笑う。
過去は、時に重荷になる。
◆
午後11時の相談所。
透は机に向かい、新しい手紙を開いた。
便箋には、丁寧な文字でこう書かれていた。
『恋人の過去が気になります。
彼には、元カノがいました。
その人のことを、まだ好きなのかもしれません。
私は、彼の過去と戦っています。
君の過去は、どこにあるのですか?
心の中? それとも、今も続いているのですか?
26歳・女性』
透はペンを取り、ノートに書き込む。
「過去の影響度をP、現在の関係をC、不安の強度をAとする。
だが、この式には本質が欠けている。
過去は、今を作るが、今を支配しない」
透の手が止まる。
窓の外、星空が見える。
星の光は、過去のもの。
でも、今、輝いている。
「君の過去はどこにある、か」
透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。
『あなたの悩みは、恋人の過去が気になることではありません。
あなたの悩みは、「過去と戦っている」と思っていることです。
でも、それは違います。
過去は、敵ではありません。
過去は、彼を作ったものです。
元カノがいた。
それは、事実です。
でも、その過去があるから、今の彼がいます。
過去を否定することは、彼を否定することです。
君の過去は、どこにあるのか?
それは、彼の心の中にあります。
でも、それは今も続いているわけではありません。
過去は、記憶です。
記憶は、時に美化されます。
でも、記憶は、現実ではありません。
彼が元カノのことを、まだ好きかもしれない。
その不安は、正常です。
でも、確かめる方法は一つだけです。
聞くことです。
「私のこと、どう思ってる?」
その一言が、すべてを変えます。
過去と戦わないでください。
過去を受け入れてください。
彼の過去も、あなたの過去も、今を作っています。
過去は、どこにあるのか?
それは、心の中にあります。
でも、今を生きることで過去は薄れていきます。
藤原透』
透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。
棚には、少しずつ手紙が増えている。
過去に悩む人たちの、切ない想いが並んでいる。
透は机の引き出しを見つめる。
古い星座図が、そこにある。
八年、触れられなかった。
「君の過去はどこにある、か」
透は小さくつぶやく。
過去は、心の中にある。
でも、記憶は、時に嘘をつく。
あの日の雪の声は、本当に助けを求めていたのか。
それとも、ただの挨拶だったのか。
透は引き出しを開けた。
星座図に、指を伸ばす。
指先が震える。
触れる。
埃が、舞う。
雪の字が、指先に触れる。
でも、ページは開かない。
まだ、開けない。
透は星座図を閉じ、引き出しに戻した。
過去は、どこにある?
記憶の中?
それとも、あの交差点に、まだ残っているのか。
透は相談所を出て、交差点に立つ。
五つの道。
風が、冷たく頰を撫でる。
星空を見上げる。
星の光は、何億年も前のもの。
でも、今、輝いている。
過去も、そうかもしれない。
透は一歩を踏み出す。
過去を抱えたまま。
それでも、前に進む。
過去は、今を作る。
でも、今を支配しない。
(第16話完 次話へ続く)
次回、透は「目をそらす理由」について考える。
そして、誰かの瞳が——君の想像する「理由」が、揺らぎ始める——。
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