第15話「指先の向こう側」
午後3時の古本屋。
透は心理学の棚を整理していた。
フロイト、ユング、エリクソン。
人の心を探求した学者たちの言葉が、静かに並んでいる。
「距離は、心で測る」
透は小さくつぶやく。
物理的な距離と、心理的な距離。
どちらが、遠いのか。
本の背表紙を見つめながら、透は思う。
きっと、一番近い人との距離が、一番測りにくいのだろう。
◆
五路交差点発、哲学者のほろにがログ。第15話。
店主の老人が、カウンターで手を伸ばしている。
高い棚の本を取ろうとしているが、届かない。
「透くん、ちょっと取ってくれるかい?」
透は本を取って、老人に渡す。
「ありがとう。指先の向こう側って、遠いよね」
透は少し考える。
「物理的には近いです。でも、心理的には遠いこともあります」
老人は小さく笑った。
「そうだね。触れそうで、触れない」
夕方、透は川沿いを歩いていた。
橋の上で、若いカップルが並んでいる。
手を繋ぎたそうだが、繋げない。
指先が、少し震えている。
「指先の向こう側、か」
透は小さく笑う。
触れそうで、触れない。
その距離が、一番ドキドキする。
午後11時の相談所。
透は机に向かい、新しい手紙を開いた。
便箋には、丸い文字でこう書かれていた。
『好きな人に嫉妬してしまいます。
彼が他の人と話していると、胸が苦しくなります。
でも、私には彼に嫉妬する権利がありません。
私たちは、まだ恋人じゃないから。
指先の向こう側に、彼がいます。
触れそうで、触れない。
どうすればいいですか?
21歳・女性』
透はペンを取り、ノートに書き込む。
「嫉妬の強度をJ、距離の近さをD、権利の有無をRとする。
だが、この式には本質が欠けている。
嫉妬は、愛の証拠だ」
透の手が止まる。
窓の外、星空が見える。
星は、遠い。
指先の向こう側どころか、何光年も先。
でも、輝いている。
「指先の向こう側、か」
透は便箋に、丁寧な文字で書き始めた。
『あなたの悩みは、嫉妬してしまうことではありません。
あなたの悩みは、「権利がない」と思っていることです。
でも、それは違います。
嫉妬する権利は、誰にでもあります。
恋人じゃなくても、好きなら嫉妬します。
それは、正常です。
指先の向こう側に、彼がいる。
触れそうで、触れない。
その距離が、一番苦しいです。
でも、その距離が、一番美しいのです。
嫉妬は、愛の証拠です。
嫉妬するということは、あなたが本気だということです。
でも、嫉妬を相手にぶつけないでください。
嫉妬は、自分の中で整理してください。
「なぜ、私は嫉妬するのか?」
「彼を、どれだけ好きなのか?」
その答えが、あなたの行動を導きます。
指先の向こう側に、彼がいる。
なら、指を伸ばしてください。
「あなたのこと、好きです」
その一言が、距離を縮めます。
触れそうで、触れない。
その距離を、恐れないでください。
その距離こそが、恋の始まりです。
藤原透』
透は手紙を封筒に入れ、棚に置いた。
棚には、少しずつ手紙が増えている。
距離に悩む人たちの、切ない想いが並んでいる。
透は机の引き出しを見つめる。
古い星座図が、そこにある。
指先の向こう側に。
八年、触れられなかった。
「指先の向こう側、か」
透は小さくつぶやく。
触れそうで、触れない。
その距離が、一番苦しい。
透は引き出しを開けた。
星座図に、指を伸ばす。
指先が震える。
触れる。埃が、舞う。
雪の字が、指先に触れる。
でも、ページは開かない。
まだ、開けない。
透は星座図を閉じ、引き出しに戻した。
触れそうで、触れない。
その距離が、一番痛い。
透は相談所を出て、交差点に立つ。
五つの道。
風が、指先を冷たく撫でる。
星空を見上げる。
星は、何光年も先。
指先の向こう側。
透は手を伸ばす。
空に向かって。
触れられないけど、そこにある。
「触れたい」
透は小さくつぶやく。
八年ぶりに、声に出した。
透は一歩を踏み出す。
指先の向こう側に向かって。
まだ、触れられないけど。
いつか、触れる日が来るように。
(第15話完 次話へ続く)
次回、透は「君の過去はどこにある?」という問いに向き合う。
そして、誰かの記憶が——君の想像する「過去」が、揺らぎ始める——。
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